して呉れることか!

 何とかしなければならぬ。これではどうにも仕樣がない。このまゝでは、生きながらの立消《たちぎえ》だ。次第に俺は、俺といふ個人性を稀薄にして行つて、しまひには、俺といふ個人がなくなつて、人間一般に歸して了ひさうだぞ。冗談ぢやない。もつと我執をもて! 我慾を! 排他的《エクスクルーシヴリイ》に一つの事に迷ひ込むことが唯一の救ひだ。アミエルの乾物《ひもの》になるな。自分で自分のあり方[#「あり方」に傍点]を客觀的に見ようなどといふ・自然に悖《もと》つた不遜な眞似は止めろ。無反省に、づう/\しく(それが自然への恭順だ)粗野な常識を尚び、盲目的な生命の意志にだけ從へ。

 夕方、吉田が訪ねて來る。大變激昂した樣子である。以前から彼との間にいざこざの絶えなかつた體操の教師が、今日「一寸顏を貸して呉れ」と、吉田を雨天體操場の控室に呼び込んで、亂暴な言葉で彼をなじり、脅迫的な態度に出たといふ。憤慨した吉田が直ぐに校長の所へ話を持つて行つた所、校長も勿論體操教師の亂暴を非難しはしたが、それでも、暗に、喧嘩兩成敗といつた考へを仄めかしたとかで、彼は非常に不滿なのだ。「辭《や》めてもえ
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