れを自《みづか》ら得意としてゐる。自分と交際のある凡ての人間に就いて、彼は、一々興信所的な方法で身許調査を行つてゐるもののやうだ。殊に自分が反感をもつ人間に對しては、執拗な程徹底的に調べ上げて、彼等の疵を探し出すのである。この俸給表の中、彼よりも不當にも俸給の多い教師の名前の横には、赤鉛筆で棒が引いてある。彼はそれを誰彼に示しては、關西辯で縷々として不平を陳べるのである。
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「割烹のTな、女のくせに僕よりたんと[#「たんと」に傍点]取りよるんや。はじめの交渉の仕方一つで、どうにでもなるんで、決つた標準は無いのやでなあ。目茶や、まるで。」
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この前に一度この表を見せた時も、同じやうな言葉で、Tといふ割烹の教師のことを言つてゐた。今見ると、Tの名前の上だけは、赤鉛筆に副へて青鉛筆でも濃く何本か棒が引かれてゐる。
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「それで、あんまり目茶やから、僕、校長の所へ言ひに行つたんですよ。とにかく此方《こつち》は教育を受けた年限も長いんやから、心臟が強い云はれるかも知らんけど、なんぼでもよいからTさんより上にして下さい言うたんですよ。さうしたら、成程、尤もだから、では、Tさんより三圓だけ多くしませう、いうて。三圓やで。たつた。それでも今よりは、まあ良いけど。」
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吉田は其の俸給表を前に擴げたまゝ、つゞいて、職員の一人々々に就いて其の經歴やら家庭的な事情やらを話し出した。女教師の中、誰と誰とは女高師を出たといふ觸込で來てゐるが、實は臨時教員養成所を出たゞけであること。國語の主任をしてゐるNが月給を二月分前借してゐること。圖畫の老教師Hが表具屋、繪具屋等と生徒との間でえらく[#「えらく」に傍点]サヤを取つてゐること。英語のSが音樂の女教師と近頃よく連立つて歩いてゐるといふ噂のこと。他人の祕密を知つてゐることが吉田にとつて此の上なく滿足なやうな話しぶりである。彼の話によると、彼は今日、主任のNと何か口論したらしく、又別に、體操科の教師とも渡り合つたらしい。之は何でも先月|行《おこな》はれた運動會のプログラムの進行に關して、吉田と體操の教師達との間に、當時、意見の衝突があり、それが未だこじれてゐるものの由である。吉田といふ男は、事務に追はれてゐないと、胃酸過多の胃が、消化すべきものを有《も》たない時の状態みたいになつて、とかく他人《ひと》との間に摩擦を起すやうだ。
一時間ばかり彼の話を聞いてから、餘り愉快ではない氣持になつて、蠅の詰まつたマッチ箱を持つて歸る。
夜、外へ出て何氣なく東の空を仰いだ時、私は思はず「アヽ」と聲を出した。裸になつた榎の大樹の枝々を透して、春以來、半年ぶりでオリオンの昇つて來るのを見付けたからである。青い小さな蜜柑が出始めると、三つ星さまが見え出すんだよ、と幼い頃祖母によく言はれたことが記憶に甦つた。オリオンの上には馭者座《カペラ》だの、紅いアルデバランだの、玻璃器に凍りついた水滴のやうなすばる[#「すばる」に傍点]だのが、はつきりと姿を見せてゐる。恆星達ばかりではない。南の空に高く、左から順にほゞ同じ位の間隔をおいて竝んでゐるのは、土星《ザトウルン》と木星《ユウピテル》と火星《マルス》とであらう。殊に木星の白い輝きの明るさは、燦々と、まことに四邊《あたり》を拂ふばかりである。
かなり冷えるけれども、風の無い靜かな晩であつた。三つの惑星を見上げながら、私は、「|詩と眞實《デイヒトゥング・ウント・ワアルハイト》」の冒頭を思ひ出してゐた。其處には、この詩人が誕生した日の・瑞象に充ちた星座の配置が、自己の偉大さへの自信に溢れた筆つきで記されてゐる。高等學校の理科三年の時、第二外國語の教科書として此の書物が使はれ、この冒頭の所の譯讀が私にあたつたので、はつきり覺えてゐるのである。急に、教科書に使つた其の本の緑色の表紙、それを金色で拔いた標題の文字、それを始めて手にした時の印刷インクの匂など、又、獨乙語の教師の風貌や、その聲つき、それから當時の級友達のこと迄が鮮かに頭に浮かんで來た。
青春への郷愁に胸を灼かれるやうな思ひをしながら、私は部屋に歸つて來た。本棚や本箱をひつくり返して、まだ殘つてゐる筈の・昔使つた「|詩と眞實《デイヒトゥング・ウント・ワアルハイト》」を探して見たが、見付からなかつた。取散らかされた書物の間で、暫くは、若さへの愛惜と、友情への飢渇とに、ぢつとしてはゐられないやうな・遣瀬ないとでもいふより言ひやうのない氣持であつた。
二三日前にもこんなことがあつた。或る文字を引かうとして英和辭典をバラ/\と繰《く》りながら、偶然開かれたページの Opera といふ文字に目がとまつた時、私は、瞬間ハツと何か明るい華やかな若
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