ティスムが、この珍奇な小動物の思ひがけない出現と共に、再び目覺めて來た。曾て小笠原に遊んだ時の海の色。熱帶樹の厚い葉の艶。油ぎつた眩しい空。原色的な鮮麗な色彩と、燃上る光と熱。珍奇な異國的なものへの若々しい感興が急に溌剌と動き出した。外《そと》はみぞれ[#「みぞれ」に傍点]もよひの空だといふのに、私は久しぶりで胸の膨れる思ひであつた。
ストーヴの近くに籠を置き、室の隅にあつたゴムの木と谷渡りの鉢をその傍に竝べた。私は籠の入口をあけておいた。どうせ部屋から出る心配はなし、時には木にとまり度くもならうかと思つたからである。
二
朝起きて見ると、カメレオンはゴムの木などには止らずに、机の下に滑り落ちた書物の上に乘つて、小さな眼孔から此方を見てゐた。思つたより元氣らしい。もつとも昨夕はかなり部屋を暖めたので、乾きすぎたせゐ[#「せゐ」に傍点]か、私の方が少々咽喉を痛めた。カメレオンの乘つてゐた書物はショペンハウエルのパレルガ・ウント・パラリポメナ。
勤めの無い日なのだが、カメレオンのことで午後學校へ行く。昨晩考へたやうに、設備が無いのなら學校へ置いても同じことだから、私の處で飼はせて貰はうと思つたのである。まさか學校でも一匹のカメレオンの爲に温室を拵へてはくれまい。
學校へ行つて其の許可を求めると、校長はじめ他の職員達はもう殆ど昨日のことを忘れてゐたかのやうな口吻だつた。「あゝ、あの昨日の蟲ですか!」といふ。私一人が、此の小爬蟲類の出現に狂喜してゐただけだつたのだ。
生徒達の所へ行つて、昨日頼んでおいた蠅を貰ふ。思ひの外、蠅は生殘つてゐるものだ。マッチ箱に一杯集まつた。之で二三日分の餌には足りるだらう。
蠅を持つて歸らうとしてゐると、後から國語の教師の吉田が追ひかけて來て、丁度自分も歸るからとて一緒に歩き出す。何か話し度くてたまらぬことがあるらしい。M・ベエカリイに寄つて茶を飮みながら一時間程話す。
私とほゞ同年だが、全く此の男程精力絶倫で思ひ切り實用向きで、恥も外聞もなく物質的で、懷疑、羞恥、「てれる[#「てれる」に傍点]」などといふ氣持と縁の遠い人間を私は知らない。疲れる事を知らぬ働き手。有能な事務家。方法論の大家。(本質論など惡魔に喰はれてしまへ!)常に勇氣凜々たる偏見に充ち滿ちて、あらゆる事に勇往邁進する男。運動會、展覽會、學藝會、校友會雜誌の編輯、その他何でも彼が一人で片附けてしまふ。抽象とは彼にとつて無意味と同義である。今年の正月のこと、何處かの級のクラス會で、生徒が三四人、蜜柑や煎餅を買出しに行つた。學校の前は山手から降りて來る坂になつてゐるのだが、その坂の中途迄、風呂敷包をぶら下げた買出し係の生徒等が上つて來た時、一人の持つてゐた風呂敷が解けて、中から蜜柑がこぼれた。二つ、三つ、四つ……七つ、八つ、かなり急な坂とて、鮮かな色をした蜜柑が續々ところがり出した。その生徒は思はぬ失策にひどく顏を赭らめ、風呂敷を結び直すのがやつとで、轉がる蜜柑を追ひかけるどころではなかつた。學校以外の人々の往來も相當にあるので、一寸羞づかしかつたのであらう。丁度其の時坂の上に立つてゐた吉田は、之を見るや猛烈な勢で駈下り始めた。小石を蹴とばし、砂利で滑りさうになり、つんのめりさうになり、途中に立つ生徒を突き飛ばして、短躯の彼は背中を丸くして蜜柑を追ひかけた。一度轉んだが直ぐ起上り、砂も拂はずに又駈け出し、到頭十五六の蜜柑を悉く拾ひ上げ、坂の片側の溝に轉げ落ちることを防いだのである。生徒等も通行人達も呆氣にとられて立止り、彼の猛烈な勢に見とれてゐた。吉田は蜜柑を手に持ちポケットにも入れ、「みんなボヤーツと見とつちや駄目やないか」と生徒等に叱言《こごと》を言ひながら、又登つて來た。彼の顏が赧くなつてゐたのは、單に走つたからなのであつて、決して、彼がてれて[#「てれて」に傍点]ゐたためではない。正に、この男こそ、私の、以て模範とすべき人物だと其の時、私はしみ/″\思つた。此の男は何時も、人間は――或ひは、生物は――斯く生くべし、と、私に教へて呉れるのだ。高等小學生的人物と彼を評した者がゐる。小學校の高等科の生徒といふものは中學生のやうな小生意氣さが無く、實に良く働いて、中學生などよりどれ程役に立つか判らないといふのである。影の薄い大學生よりも、溌剌たる高等小學生の方が遙かに立派だと、私も思ふ。
話をしながら、吉田は、内ポケットから一枚の紙を取出して私の前に擴げた。私がそれを見せられるのは今日で二度目である。それは此の學校の全職員の俸給表で(私立學校で、職員録に明示されない)彼が何處からか聞き出して丹念に書竝べたものだ。なほ、前年度のボーナスの推定額迄、書入れてある。彼はかういふ事を探り出すことが實に上手で、又そ
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