々しいものが前を過ぎたやうな氣がした。田舍の暗い田圃道から、土手の上を通つて行く明るい夜汽車の窓々を見送る時に似て、今迄すつかり忘れてゐた華やかな夢の一片が、遠い世界からやつて來てチラリと前を通り過ぎて行つたやうな氣がした。私がまだ學生の頃、當時は映畫館でなかつた帝劇に、毎年三月頃になると、ロシヤとイタリイから歌劇團が來演した。カルメンやリゴレットやラ・ボエームやボリス・ゴドノフなど、私は金錢《かね》の許す限り其等を見に行つた。明るい照明の中で、女優達の豐かな肩や白い腕に生毛が光り、金髮が搖れ、頬が紅潮し、肉感的な若々しい聲が快く顫へて、私を醉はせた。偶然目にした Opera といふ、たつた五字が、失はれた・遠い・華やかな世界のかぐはしい空氣をちら[#「ちら」に傍点]と匂はせ、しばし私を混亂させた。所要の文字を探すことも忘れて、私は Opera といふ字を見詰めたまゝ、ぼんやりしてゐた。

 囘顧的になるのは身體が衰弱してゐるからだらうと人はいふ。自分もさうは思ふ。しかし何といつても、現在身を打込める仕事を(或ひは、生活を)有《も》つてゐないことが一番大きな原因に違ひない。
 實際、近頃の自分の生き方の、みじめさ、情なさ。うぢ/\と、内攻し、くすぶり、我と我が身を噛み、いぢけ果て、それで猶、うすつぺらな犬儒主義《シニシズム》だけは殘してゐる。こんな筈ではなかつたのだが、一體、どうして、又、何時頃から、こんな風になつて了つたのだらう? 兎に角、氣が付いた時には、既にこんなヘンなものになつて了つてゐたのだ。いゝ、惡い、ではない。強ひて云へば困るのである。ともかくも、自分は周圍の健康な人々と同じでない。勿論、矜恃を以ていふのではない。その反對だ。不安と焦躁とを以ていふのである。ものの感じ方、心の向ひ方が、どうも違ふ。みんなは現實の中に生きてゐる。俺はさうぢやない。かへる[#「かへる」に傍点]の卵のやうに寒天の中にくるまつてゐる。現實と自分との間を、寒天質の視力を屈折させるものが隔ててゐる。直接そとのものに觸れ感じることが出來ない。はじめはそれを知的裝飾と考へて、困りながらも自惚れてゐたことがある。しかし、どうもさうではないらしい。もつと根本的な・先天的な・或る能力の缺如によるものらしい。それも一つの能力でなく、幾つかの能力の缺如である。例へば、個人を個人たらしめる・最も普遍的な意味に於ての・功利主義が私には缺けてゐるやうだ。又、もの[#「もの」に傍点]を一つの系列――或る目的へと向つて排列された一つの順序――として理解する能力が私には無い。一つ一つをそれ/″\獨立したものとして取上げて了ふ。一日なら一日を、將來の或る計畫のための一日として考へることが出來ない。それ自身の獨立した價値をもつた一日でなければ承知できないのだ。それから又、ものごと(自分自身をも含めて)の内側に直接はひつて行くことが出來ず、先づ外《そと》から、それに對して位置測定を試みる。全體に於ける其の位置、大きなものと對比した其の價値等を測つて見るだけで失望して了ひ、直接そのものの中にはひつて行けないのだ。sub specie aeternitatis に見る、といつたつて、別に哲人がる譯ではない。それ所か最も平凡な無常觀を以て見る――つまり、何事をも、(身の程知らずにも)永遠と對比して考へるために、先づその無意味さを感じて了ふのである。實際的な對處法を講ずる前に、そのことの究極の無意味さを考へて(本當は感ずるのだ。理窟ではなく、アヽツマラナイナアといふ腹の底からの感じ)一切の努力を抛棄して了ふのだ。
 考へて見れば、大體、今迄の生き方が、まあ何といふ無意味な生き方だつたか。精神の統一集注を妨げることにばかり費された半生といつてもいい。とにかく私は自分を眠らせ、自分の持つてゐるものを打消すことにばかり力を盡くして來たやうなものだ。
 曾て自分にも多少は感覺の良さがあつた時分には、私はそれにのみ奔ることを惧れて、自分の欲しもしない・無味な概念のかたまりを考へることによつて感覺を鈍くしようと力めた。さうして、結局凡ての概念が灰色[#「灰色」に傍点]だと知つた時、又、自分が苦心の結果取除くことに成功したところのものが、如何に黄金なす緑色[#「黄金なす緑色」に傍点]をなしてゐたかを悟つた時には、すでにそれを取返す術《すべ》を失つてゐるのだ。私が曾て、かなり確かな記憶力を有《も》つてゐた頃、私は之を輕蔑した。記憶力しか有《も》つてゐない人間は、足《た》し算しか出來ない人間と同じだと云ひ、自分のこの力を撲滅しようとした。之は隨分無理なことだつた。で、少くとも、之を利用することだけは避けるやうにした。さて、人間生活の多くの貴い部分が、最も基礎的な意味に於て精神の此の能力に負うてゐるこ
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