して呉れることか!

 何とかしなければならぬ。これではどうにも仕樣がない。このまゝでは、生きながらの立消《たちぎえ》だ。次第に俺は、俺といふ個人性を稀薄にして行つて、しまひには、俺といふ個人がなくなつて、人間一般に歸して了ひさうだぞ。冗談ぢやない。もつと我執をもて! 我慾を! 排他的《エクスクルーシヴリイ》に一つの事に迷ひ込むことが唯一の救ひだ。アミエルの乾物《ひもの》になるな。自分で自分のあり方[#「あり方」に傍点]を客觀的に見ようなどといふ・自然に悖《もと》つた不遜な眞似は止めろ。無反省に、づう/\しく(それが自然への恭順だ)粗野な常識を尚び、盲目的な生命の意志にだけ從へ。

 夕方、吉田が訪ねて來る。大變激昂した樣子である。以前から彼との間にいざこざの絶えなかつた體操の教師が、今日「一寸顏を貸して呉れ」と、吉田を雨天體操場の控室に呼び込んで、亂暴な言葉で彼をなじり、脅迫的な態度に出たといふ。憤慨した吉田が直ぐに校長の所へ話を持つて行つた所、校長も勿論體操教師の亂暴を非難しはしたが、それでも、暗に、喧嘩兩成敗といつた考へを仄めかしたとかで、彼は非常に不滿なのだ。「辭《や》めてもえゝのんや」と繰返していふ。たしか、以前《まへ》にも二三囘、彼は斯うした事から「辭《や》める」と騷ぎ出し、職員全部にそれをふれて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたが、結局辭めなかつた。あとになるとケロリとしてゐる。たゞもうカツとなると、皆の所へ行つて騷ぎ立て、繰返し/\愚痴を聞かせ、自己の正當と相手の不當とを認めて貰はなければ氣が濟まないのである。しかし、彼はいくら腹を立てた時でも、決して自分の損になること(毆り合ひをしたり、思ひ切つて辭職したり)はしない。今日とて、唯、私のアパアトが學校の近くにある爲に、歸りに立寄つて、それ程親しくもない私ではあるが、それでも一人でも多くの者に自分の正當さを認めて貰はうとしたゞけなのだ。辭める心配は絶對に無い。餘り騷ぐと後《あと》で引込がつかなくなり、てれ臭い[#「てれ臭い」に傍点]思ひをせねばなるまい、との心配も彼にはない。てれる[#「てれる」に傍点]などといふ事を彼は知らないからである。たゞ、どんな場合にでも、目に見えた損だけはしないやうに振舞つてゐるのは、彼の身についた本能なのであらう。
 一通りの憤慨がすむと、まづ氣が濟んだといふ態で、今度は、昨日、或る先輩から紹介されて、縣の學務部長に會ひに行つた話を始めた。學務部長が非常に款待してくれて、又遊びに來給へ、と肩を叩かんばかりにして呉れたこと、だから、これからも時々伺はうと思つてゐること、この學務部長さん(彼はさん[#「さん」に傍点]をつけ、このやうな高官に衷心からの尊敬を抱かないやうな人間の存在は、想像することも出來ない樣子である)は從×位、勳×等で、まだ若いからもつと大いに出世されるであらうこと、この人の夫人の父君が内閣の某高官であることなど、恐懼に堪へないやうな語り口で話した。全く、先刻《さつき》の悲憤をまるで忘れて了つたやうな幸福げな面持である。

 吉田が歸つてから、幸福といふことを一寸考へて見る。躍氣となつて騷ぎ立て他人に自分の立場を諒解して貰ふことが、彼にとつての幸福であり、役人と近づきになることが彼の最大の愉悦なのだ。それを嗤ふ資格は私には無い。嗤つたとしても、それでは、私にどんな幸福があるといふのだ。「衆人熙々トシテ大牢ヲ享クルガ如ク、春、臺ニ登ルガ如シ。我獨リ怕兮トシテ、嬰兒ノ未ダ咳《ワラ》ハザルガ如ク、儡《ツカ》レテ歸スル所ナキガ如シ。俗人昭々トシテ我獨リ昏《クラ》キガ如ク、俗人察々トシテ我獨リ悶々タリ。……」學務部長に隨喜の涙を流す吉田の姿が、急に、皮肉でも反語でもなく、誠に此の上無く羨ましいものに思はれて來た。

 夜、床に就いてから、先刻の吉田の、脅迫云々の言葉を思ひ出し、向ふつ氣は頗る強いが腕力の無い吉田が、其の時どんな態度をとつたか、と考へて見たら、をかしくなつて來た。自分だつたらどうするだらうと、考へて見た。
 まことに意氣地の無い話だが、私は、暴力――腕力に對して、まるで對處すべき途を知らぬ。勿論、それに屈服して相手の要求を容れるなどといふ事は意地からでもしないけれども、たとへば、毆られたやうな場合、どんな態度に出ればいいのだらう。此方に腕力が無いから毆り返す譯には行かぬ。口で先方の非を鳴らす? さういふ時の自分の置かれた位置の慘めさ、その女のやうな哀れな饒舌が厭なのである。その位なら、いつそ超然と相手を默殺した方がまし[#「まし」に傍点]だ。併し其の場合にも猶、負惜しみ的な弱者の強がりが、(傍人に見えるのは差支へないとして)自分に意識されて立派とは思へない。といふよりも、私は、他人との間に暴力的な關係に陷つ
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