、鹽酸コカインやヂウレチンのきゝめ加減、天候の晴雨、昔の友人からの來信の有無等である。

 大きな――時に不可解な――ものの中に(組織、慣習、秩序)晏如と身を置いてゐる氣易さ。
 さういふものから、すつかり離れてゐる自由な人間の苦しさ。
 さういふ自由人は、自己の中で人類發展の歴史をもう一度繰返して見なければならぬ。普通人は慣習に無反省に從ふ。特殊な自由人は、慣習を點檢して見て、それが成立するに至つた必然性を實感しない限り、それに從はうとしない。いはゞ、彼は、人間が其の慣習を形作るに至つた何百年かの過程を、一應自己の中に心理的に經驗して見ないことには氣が濟まないのである。
 私自身の性情も、傾向としては、それに似たものを有《も》つてゐるやうだ。さういふ特殊の人達に往々見られる優れた獨創的な思考力だけは缺いて。

 友人の一人が「遠交近攻の策」と評した一つの傾向。一生懸命になつて巴里の地圖をこしらへたりして頭の中では未知の巴里の地理に一かど精通してゐるくせに、もう二年も住んでゐる此の港町の著名な競馬場へも、ひとりでは行けない。博物の教師のくせに博物のことはろく[#「ろく」に傍点]に知らず、古い語學を噛つて見たり、哲學に近いものを漁《あさ》つて見たりする。それでゐて、何一つ本當には自分のものにしてゐないだらしなさ。全くの所、私のもの[#「もの」に傍点]の見方といつたつて、どれだけ自分のほんもの[#「ほんもの」に傍点]があらうか。いそっぷ[#「いそっぷ」に傍点]の話に出て來るお洒落鴉。レヲパルディの羽を少し。ショペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。莊子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。何といふ醜怪な鳥だ。

(考へて見れば、元々世界に對して甘い考へ方をしてゐた人間でなければ、厭世觀を抱くわけもないし、自惚や[#「自惚や」に傍点]か、自己を甘やかしてゐる人間でなければ、さう何時も「自己への省察」「自己苛責」を繰返す譯がない。だから、俺みたいに常にこの惡癖に耽るものは、大甘々《おほあまあま》の自惚や[#「自惚や」に傍点]の見本なのだらう。實際それに違ひない。全く、私[#「私」に白丸傍点]、私[#「私」に白丸傍点]、と、どれだけ私[#「私」に白丸傍点]が、えらいんだ。そんなに、しよつちゆう私[#「私」に白丸傍点]のことを考へてるなんて。)

          四

 今日も勤めのない日。火、水、木、と三日、休みが續くのである。昨夜は稍※[#二の字点、1−2−22]眠れた。發作への懸念(殆ど恐怖といつてもいゝ)も先づ無くなる。持藥の麻杏甘石湯《まきやうかんせきたう》の分量を少し増す位で濟みさうである。鈍い頭痛は依然去らない。午前中|嘔氣《はきけ》少々。
 カメレオンは一昨日から蠅を十二三匹しか喰べてゐない。止り木から下りて、綿の上に蹲《うづくま》つてゐる。寒いのであらう。之では長くもつまいと思ふ。いよ/\仕方がなければ動物園へ持つて行くことにしよう。後肢のつけねの所に小さい黒褐色の傷痕がついてゐる。學校で床へ落ちた時に傷めたのだらうか。背中のギザ/\はハンド・バッグの口に使ふチャックに似てゐる。

 今日も午前中ずつと小爬蟲類を前に、ぼんやり頬杖をついてゐた。少し眠い。前の晩に全然眠れなかつた日より、なまじ一・二時間眠れた次の日の方が眠いのである。うとうとしかけてハツと氣がついた瞬間、目の前のカメレオンの顏が、ルヰ・ジュウベエ扮する所の中世の生臭坊主に見えた。カメレオンと簑蟲《みのむし》との對話といふレヲパルディ風のものを書いて見度くなる。簑蟲の形而上學的疑惑、カメレオンの享樂家的逆説。……等々……。但し勿論本當に書きはしない。書くといふことは、どうも苦手だ。字を一つ一つ綴つてゐる時間のまどろつこしさ[#「まどろつこしさ」に傍点]。その間に、今浮かんだ思ひつきの大部分は消えてしまひ、頭を掠めた中の最もくだらない[#「くだらない」に傍点]殘滓《かす》が紙の上に殘るだけなのだ。

 午後、不圖頁をくつた或る本の中に、自分の精神のあり方[#「あり方」に傍点]を此の上なく適切に説明してくれる表現を見つけた。
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――人間の分際といふものの不承認。そこから來る無氣力。拗ねた理想の郷愁。氣を惡くした自尊心。無限を垣間見《かいまみ》、夢みて、それと比較するために、自分をも事物をも本氣にしない……。自己の無力の感じ。周圍の事情を打破る力も、強ひる力も、按排する力も無く、事情が自分の欲するやうになつてゐない時には、手を出すまいとする。自分で一つの目的を定め、希望をもち、鬪つて行くといふ事は、不可能な・途方もない事のやうに思はれる。――
[#ここで字下げ終わり]
 私は本を閉ぢた。之は恐ろしい本だ。何と明確に私を説明
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