たといふ・その事だけで、既に、心中の大變な擾亂・動搖を免れない。暴力への恐怖は動物的本能だとか、暴力の實際の無意義さとか、暴力行使者への輕蔑とか、そんな議論は此の際三文の値打もなく、私の身體は顫へ、私の心は只もう譯もなくベソをかいて了ふのである。暴力の侵害(腕力ばかりでなく、思ひがけない野卑な惡意、誤解なども之に入れていい)に打克つだけの力を備へてゐるのは結構に違ひないが、相手に對抗し得る腕力・權力を有《も》たないでゐて、(或ひは有《も》つてゐても、それを用ひずに)唯精神的な力だけで悠揚と立派に對處し得る人があれば、尊敬しても宜いと思ふ。それはどんな方法によるか、私には想像もつかない。色々な有名な人物を考へて見ても、その社會的な背景を剥ぎ去つて暴力の前に曝した場合に立派に對處できさうな人は中々思ひ當らないやうだ。
五
カメレオンは愈※[#二の字点、1−2−22]弱つて來たやうで、後肢のつけ根の所の傷も、氣のせゐか昨日より擴がつたやうに思はれる。胴が鮒などよりも薄い位で、細い肋骨の列が外から見え、時々咽喉の邊をふくらませるのも何か寒さうで痛々しい。矢張動物園へ持つて行かうと決心する。動物園は好きな場所だが、寄附する、とか、預ける、とか、いふ話になると、いづれ東京市[#「市」に傍点]のお役人が出て來て、屆を書かせたりするのではないか。役人と、役所の手續き程、やり切れないものはない。實際は簡單だと人の言ふものでも、役所への屆とか手續きとかとなると、私は頭から煩瑣なものに感じて、まるで考へて見る氣もしなくなるのである。仕方がないから、東京から通《かよ》つてゐる地理の教師のY君に頼んで上野へ持つて行つて貰はうと思ふ。學校の方ではもうこんな蟲のことなんか忘れてゐるだらうから、斷《ことわ》るにも及ぶまい。元のやうに、綿を敷いた箱に入れ、箱の蓋に息拔きの穴をあけて、學校へ持つて行く。金曜だから、勤めのある日だ。
Y君に會つて、譯を話して頼む。承知して呉れる。今日歸りに眞直に上野迄行かうと言ふ。
晝休に、食事を濟ませてから暫く職員室にゐると、廊下で何か生徒等が騷ぎ始めたと思つたら、やがて扉があいて、去年の春結婚のために辭《や》めた音樂の教師が、赤ん坊を抱いてはひつて來た。「アラツ」と、それを見た女の教師達は一齊に聲を擧げた。關西に嫁いで行つてゐるのだが、主人が上京するのについて來たついでに寄つたのだといふ。さて、それからの此の遠來の客に對する彼女達の――殊に未婚の老孃達の擧動、表情、つまり外觀に迄現れる彼女等の心理的動搖は、まことに興味深きものであつた。「赤と黒」の作者の筆を以てしても、恐らくは猶その描寫に困難を覺えようと思はれた。羨望、嫉視、自己の前途への不安、酸つぱい葡萄式の哀しい矜恃、要するに之等の凡てを一緒にした漠然たる胸騷ぎ。彼女等は口々に赤ん坊(全く、色が白く、可愛く肥《ふと》つてゐた)の可愛らしさを讚めながら、男性《をとこ》には想像も出來ない貪婪な眼付を以て、幸福さうな若い母を、一年前とはすつかり變つて了つた髮かたちを、見違へる程派手になつた其の服裝を、(學校に勤めてゐた時は洋服だつたのに、今日は和服である)――さうして、其等凡てから讀み取らるべき生活の祕密をむさぼるやうに探らうとする。赤ん坊を抱き取つて、あやしながら其の顏に見入る眼差《まなざし》に至つては、子供一般に對して婦人の有《も》つ愛情とは全く別な激しさを以て爛々と燃え、複製を通じて原畫を想像しようとする畫家の眼と雖も、到底この熱烈さには及ぶまい。
三十分ばかり話してから歸つて行つた此の若い母親と色白の男の赤ん坊とは、老孃達の上に通り魔のやうな不思議な作用《はたらき》を殘して行つた。午後を通じて、ずつと、獨身の女教師達の落着きの無さは、兎角かうした事の氣のつかない私のやうな者にも明らかに看取された。人間の心理的動搖が氣壓に何かの影響を及ぼすものだとしたら、午後の職員室の此のモヤ/\したものは、確かに晴雨計の上に大きな變化を與へてゐるに違ひないと思はれた。老孃達は數年前から同じ職員室の同じ机の前に腰掛け、同じ教室で同じ事柄を生徒に説き聞かせてゐる。來年も更來年も、恐らくは又その次の年も、神々の屬性の一つである「絶對の不變性」を以て之を繰返すであらう。そのうちに彼女達の中に在つた、ほんの僅かの貴いものも次第に石化して行き、つひには、男とも女とも付かない――男の惡い所と女の惡い所とを兼ね備へた怪物、しかも自分では、男の良い所と女の良い所とを兩つながら有《も》つてゐると自惚れてゐる怪物に成上つて了ふ。
今日職員室を訪れた若い母親――先の音樂の教師は、去年私がこの學校へ來てから一月《ひとつき》程して職を辭したのである。其の頃の先生としての彼女と、
前へ
次へ
全11ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング