んな話を私に伝えたとしたら、私だってそれは精神錯乱のたわごとだと考えただろう。そのうえ、たといその話が信用されて追跡を始めることになったとしても、あのへんな動物の性質をもったやつは、どんなに追跡したところで、逃げてしまうだろう。としたら、追いかけたところで何になろう。サレーヴ山の懸崖をよじのぼることのできる動物を、誰がつかまえることができるだろう。こういうことを考えめぐらして心がきまったので、何も言わないでいることにした。
 私が父の家に入ったのは、朝の五時ごろであった。私は、召使たちに家の者を騒がせないように言って書斎に入り、みんながいつも起きる時間を待った。ただ一つの消しがたい痕跡を除けば、六年は夢のように過ぎ去ってしまったが、インゴルシュタットへ立つ前に父と最後に抱擁したあの同じ場所に私は立った。敬愛する親よ! 私にとっては父は依然としてそのままなのだ。私は、煖炉の上にかかっていた母の肖像を眺めた。それは母の来歴に取材したもので、死んだ父親の棺のそばにひざまずいて絶望的に苦悩しているキャロリーヌ・ボーフォールを表わしていた。服装は田舎くさく、頬は蒼ざめていたが、そこには、ほとんど
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