なかったにちがいない。フェリクスの言うところでは、朗読に適するこの文体が、東方の著者たちにまねて作られたものであるから、この書物を選んだ、ということであった。この著作を通じて、わたしは、歴史のあらましの知識と、世界に現存するいくつかの帝国の概観を得、地上のそれぞれに違った諸民族の慣習、統治、宗教等を知ることができた。わたしは、怠惰なアジア人のこと、ギリシア人のすばらしい天才や精神的活動のこと、初期ローマ人の戦争や驚歎すべき徳行――その後の堕落――のことを、その大帝国の没落のこと、騎士道、キリスト教、王などのことを聞いた。アメリカ半球の発見のことも聞き、サフィーといっしょにその原住民の不幸な運命に泣きもした。
「こういう驚くべき話を聞いて、わたしはへんな気がした。人間はほんとうに、こんなに力強く、こんなに徳があって堂々としていながら、しかも同時にこんなに悪徳の卑劣なものであろうか。人間は、ある時には、悪のかたまりの子孫でしかないように見え、またあるときは、高貴なもの、神のようなものについておよそ考えられろかぎりの存在のように見えた。偉大で有徳な人になることは、心あるものに与えられる最高の名誉のように見えたし、ものの本にたくさん出てくるように、下劣で悪徳にみちていることは、いちばん下等な堕落、つまり盲のもぐらや毒にも薬にもならない蛆虫にも劣る卑しい状態のようにおもわれた。人がその仲間をどうして殺しに行くようになるのかということが、いや、それどころか法律や政府がなぜあるのかということが、長いことわたしにはわからなかったのだ。けれども、悪事や流血のことを詳しく聞くにおよんで、もう驚かず、嫌悪感に胸がむかむかしてわきを向いた。
「この百姓家の人たちの話は、こうして、今やみな、新しい驚異を呼びおこした。フェリクスがアラビア人に教えることを聞いていると、人間社会のへんてこなしくみがわたしにもわかった。財産の分配のこと、巨万の富やあさましい貧乏のこと、身分、家柄、高貴な血統のことなどを、わたしは聞いた。
「こういうことばを聞いて、わたしは、自分をふりかえってみた。わたしは、人間のいちばん貴ぶ所有物が、富と結びついた高い混り気のない家柄だということを聞いた。そういった利点のうち一つだけをもっていても、人は尊敬されるにちがいないが、どちらももたないとすれば、ごくまれなばあいを除いて、無頼漢や奴隷と考えられ、自分の力を選ばれたごく少数の者の利益のために浪費する運命にあるのだ! ところで、わたしは何者だろう。自分の造られたことと造りぬしのことについては、まったく何も知らなかったが、自分が金もなく、友だちもなく、財産らしいものもないことは知っていた。のみならず、おそろしく畸形な嫌らしい姿を与えられていて、人間と同じ性質のものでさえもなかった。わたしは人間よりもっとすばしこかったし、もっと粗末な食べものでも生きていけた。極度の暑さ寒さも、わたしのからだにはあまりこたえなかったし、わたしの背丈は人間よりずっと高かった。あたりを見まわしても、自分と同じような者は見たことも聞いたこともなかった。それならわたしは、人間がみな自分から逃げ出し自分を寄せつけないような、ひとつの怪物、地上の汚点なのであろうか。
「こういった反省がわたしに与えた苦悩は、お話のしようもなく、それを払いのけようとしたが、知識が深まるにつれて悲しみは増すばかりであった。ああ、最初の土地の森にいつまでも居たら、飢え、渇き、寒暑の感覚以上のことを知りも感じもしなかったのに!
「ものを知るということは、なんとおかしな性質のものだろう! それは、ひとたび心を捉えたとすれは、岩についた苔のように心に纏いついてくる。わたしはときどき、あらゆる思想と感情を払いのけようとおもったが、苦痛の感じに打ち克つには、たった一つの手段しかない――それは死である、ということを知ったが、わたしの恐れたこの死というものがどんなものかは、まだわからなかった。美徳や善良な感情というものには感心し、この家の人たちのやさしい態度や人好きのする性質を好みはしたものの、ただわたしは、この人たちとの交際から閉め出されていて、人目をはばかって誰も知らないうちにこっそりと何かをしてやるのが関の山だったが、そのことに、この連中の仲間になりたいという願望を満足させずに、かえってそれを募らせるのだ。アガータのやさしいことばも、魅惑的なアラビアの婦人のいきいきとした笑顔も、わたしに向けたものではなかった。老人の柔和な訓えも、愛すべきフェリクスの溌剌とした話も、わたしに向けたものではなかった。みじめな、不しあわせなやつ!
「それよりももっと深く、心に刻みつけられた教訓が、ほかにあった。わたしは、両性の違いのあること、子どもが生れて大きくなること、父親
前へ 次へ
全99ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宍戸 儀一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング