では、あいてを僕の美しいアラビア人と呼んだ。婦人はそのことばがわからなかったらしかったが、それでもにっこり笑った。フェリクスは、手を貸して婦人を馬から下ろし、案内人を帰してから、婦人を家のなかに連れて来た。息子と父親のあいだで何やら会話が交され、その見知らぬ婦人が老人の足もとにひざまずいて、その手に接吻しようとしたが、老人はそれを立たせて、愛情のこもった抱擁をした。
「見知らぬ婦人は、明哲な声で語り、自分の国のことばで話しているように見えたが、それは、この家の人たちの誰にもわからず、婦人のほうでも、この人たちの言うことはわからない、ということに、わたしはすぐ気づいた。みんなはわたしにはわからない手まねをいろいろしたが、ただわたしにも、この女の人が現われたことが、家じゅうに喜びを満ちわたらせ、太陽が朝霧を払うように、この人たちの悲しみを払ったことは、わかった。フェリクスはとりわけ幸福らしく、歓びにほころんだ笑顔で、このアラビア人を歓迎した。アガータ、いつも気だてのやさしいアガータは、美しい客人の手に接吻し、兄を指して、あなたがおいでになるまでは悲しんでいたのです、というように見える手まねをした。数時間がこうして経ち、そのあいだ、みんなの顔には喜びが浮んでいたが、わたしには、その原因がのみこめなかった。まもなくわたしは、客の婦人が、いくつかのことばを家の人たちにならって何度もくりかえして発音しているので、婦人がこの国のことばをおぼえこもうと努力しているのだ、ということがわかった。そこで、わたしにも、同じ目的のために、同じ教わり方をしてやろう、という考えが、たちまち起った。婦人は最初、二十ばかりのことばを教わってそれをおぼえた。その大部分はたしかに、前からわたしにも解ってはいたが、そのほかのものについても得るところがあった。
「夜になると、アガータとアラビア人は早く寝室へ引き取った。わかれるときフェリクスは、その婦人の手に接吻して言った、『おやすみ、サフィー。』フェリクスはずっと後まで起きていて、父親と話していたが、その名まえを幾度となくくりかえしたので、あの美しい客人のことが話題になっているのだということが察しられた。わたしはその話をなんとかして理解したいと考えたが、それはてんで不可解だということがわかった。
「翌朝、フェリクスは仕事に出かけた。それから、アガータがいつもの仕事をかたずけたあとで、アラビアの婦人は、老人のすぐ前に腰かけて、ギターを取りあげ、心も溶ろけるほど美しい曲をいくつか弾いたが、それを聞くと、わたしの眼から悲しみと歓びの涙が同時にこぼれた。この人が歌うと、その声が森の夜鶯のように、あるいは溢れ高まり、あるいは絶えだえとなって、豊かな抑揚で流れ出した。
「客人が歌い終ると、ギターをアガータにわたしたが、アガータははじめそれを辞退した。アガータは単純な曲を弾き、美しい声調でそれに合せたか、客人の珍らしい歌とは違っていた。老人はほれぼれとして聞いていたらしく、何か喋ると、それをアガータがサフィーにほねおって説明してやったが、これは、あなたの音楽のおかげでたいへん楽しい思いをしたということを、表わそうとしているらしかった。
「それからというものは、家の人たちの顔に悲しみに代って喜びが浮んだことだけが変ったほかは、毎日毎日が、前と同じく平和に過ぎていった。サフィーはいつも楽しく幸福だった。サフィーとわたしは、たちまちのうちに単語をいろいろおぼえこみ、二箇月も経つと、わたしは家の人たちの話すことばがたいていわかるようになってきた。
「そのあいだに、黒い地面は草に蔽われ、緑の堤には、数えきれぬ花々が色も香も美しく咲きみだれ、星は月夜の森の梢に蒼白く輝いた。太陽はますます暖かくなり、夜は晴れて爽かになった。わたしの夜の散歩は、日の入りが遅く日の出が早くなったために、ずいぶん短かくなったが、わたしはこのうえもなく楽しかった。というのは、最初わたしが入りこんだ村でのようなひどい目に会うのは、もう懲り懲りだったからだ。
「ことばをもっと速く習得するために、日中は周到な注意を払って過ごしたので、わたしが、アラビアの婦人よりもっと速く上達したことを誇っていいかもしれない。アラビアの婦人はなかなか解らず、めちゃくちゃな語調で話をしたが、わたしのほうは、話に出てくるほとんどすべてのことばを解し、また、それをまねることもできた。
「話が上達するかたわら、客の婦人に教えられる文字の知識までわたしは学んだ。すると、そのために、驚異と喜びの広い分野がわたしの前に開けてきた。
「フェリクスがサフィーに教えた書物は、ヴォルネーの『諸帝国の没落』であった。それを読むとき、フェリクスがあまりこまかい説明をしなかったとしたら、わたしにはこの書物の内容がわから
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