驕B
直ちにこの確信を得るため、経済学はある所のものの説明であると同時にあるべき所のもののプログラムであると考え得られるといったブランキの所説を想い起してみる。ところであるべき所のものは、あるいは利用または利益の観点から、あるいは公正のまたは正義の観点からのそれなのである。利益の観点からあるべき所のものは応用科学または政策の対象であり、正義の観点からあるべき所のものは道徳学または道徳の対象である。ブランキやガルニエが取扱っているのは、正義の観点から見てあるべき所のものなのである。なぜなら彼らは、経済学は道徳学であるといい、法や正義の概念を論じ、富を最も公平に分配すべき方法を論じているからである(第九節)。反対にコックランはこの見方を明らかにとっていないのであるが、ただ氏は政策と科学の区別を指摘しながら、政策と道徳との区別を指摘することを忘れている。我々はいかなるものをも見逃してはならない。我々は合理的に完全に決定的に区別をなさねばならぬ。
一六 我々は科学と政策と道徳とを相互に区別しなければならぬ。他の言葉でいえば、特に経済学、社会経済学の哲学を明らかにするために、科学一般の哲学の概要を論じなければならぬ。
科学は本体を研究するのでなくして、本体を場面として現われる事実を研究するものであることは、既にプラトーンの哲学によって明らかにせられている。本体は去り、事実は永く残っている。事実とその関係とその法則とがすべての科学的研究の目的である。そして科学は、それが研究する目的すなわち事実の差異によってのみ分かれるのである。だから科学を分けようとすれば、事実が分けられねばならない。
一七 ところでまず世界に発生する事実は二種あると考えられ得る。その一は盲目的で如何《いかん》ともなし難い自然力の働きをその起源とするし、他は人間の聡明で自由な意志にその根源をもつ。第一種の事実の場面は自然である。これらの事実を我々が自然的事実と呼ぶのはこの理由による。第二種の事実の場面は人間社会である。我々がこれらの事実を社会的事実(faits humanitaires)と呼ぶのは、この理由による。宇宙には盲目的でどうすることも出来ない力と並んで、自ら知り自ら抑制する力がある。これは人間の意志である。おそらくはこの力は、自ら信じているほどには、自らを知り、自らを抑制してはいないであろう。
前へ
次へ
全286ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
手塚 寿郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング