Hンスの理論と私の理論とは、現われるとまもなくヒューウェル(Whewell)及びクールノーの古い試みと共にイタリア語に訳出された。またドイツでは、初め忘れられながらもゴッセンの著作が、既に知られていたチューネンやマンゴルトらの著作に加えられた。その後またドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、アメリカにおいて、数理経済学の多数の文献が現われた(一一)[#「(一一)」は行右小書き]。このようにして形成せられる学派は、すべてのシステムのうちで、真に科学を構成すべきシステムとして異彩を放つであろう。数学を知らず、数学がいかなるものであるかをさえ正確に知らないで、数学は経済学の原理の解明に役立たぬときめ込んでいる経済学者に至っては、「人間の自由は方程式に表わすことが出来ない」とか、「数学はすべての精神科学に存する摩擦を捨象する」とか、またはこれらと同様の力しか無い他愛もないことを繰り返して去っていくがよかろう。彼らは、自由競争における価格決定の理論が数学的理論にならぬようにと努めている。だから彼らは数学を避けて、純粋経済学の基礎なくして応用経済学を構成していくか、それとも必要な根底もなく純粋経済学を構成して、はなはだ悪い純粋経済学またははなはだ悪い数学を構成するか、これらのいずれか一つを選ばねばならぬ。私は第四十章で私の理論のように数学的理論である所の理論の標本をあげた。これらの理論と私の理論との相異は、私が私の問題における未知数だけの方程式を得ようと努めたのに反し、これらの人々は二つの方程式によって一つの未知数を決定しようとしたり、二つ、三つまたは四個の未知数を決定するのに一つの方程式を用いる点にある。私は、人々が、これらの人々のこのような方法を、純粋経済学を精密科学として構成する方法に全く相反するものとして、疑われることを望む者である。
 精密科学としての経済学が遠からず樹立せられるであろうか、または遠い将来においてしか樹立せられるに至らないであろうか。それらは私の問題ではなく、ここに論ずるを要しない。今日ではたしかに経済学は天文学の如く、力学の如く、経験的であり同時に合理的な科学である。我々は経済学の経験的性質でこの合理的性質を蔽《おお》いかくしていたことが久しいが、何人もこれを批難し得ないであろう。ケプレルの天文学、ガリレーの力学がニュートンの天文学となり、ダラン
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