口はないものかと、ぐるりを見まはしました。しかし先生の太い手は、すぐに、ガスパールの肩の上におかれました。先生は手みじかにガスパールがにげ出したことをヘナンに話しました。
ガスパールは頭を上げました。もう、しくじりをしてつかまつた生徒のやうな、はにかんだ容子はしてゐません。いつも、めつたに口をきいたことのないガスパールは、そのとき、ふいにじぷんの舌を見つけ出しでもしたやうにどなり立てました。
「あゝ、さうだよ。ぼくはにげて来たんだよ。二度と学校にいきたくないんだよ。ぼくはドイツ語なんか――どろぼうの、人殺しの言葉なんか、話さないよ。父さんや母さんのやうに、フランス語を話したいんだよ。」
ガスパールは、怒りでぶる/\ふるへながら、すさまじい、けんまくで、かう、どなりました。
「おだまり、ガスパール。」と叔父はおさへようとしました。でも何ものもガスパールをとめることは出来ませんでした。クロック先生は、
「かまひません。かまひません。ほつときなさい。私がいまに憲兵と一しよにつれに来ます。」と、あざわらひました。大きなほう丁がテイブルの上にのつかつてゐました。ガスパールは、それを、むづりとつかんだので、先生はあとすざりをしました。ガスパールは、
「いゝとも、憲兵をつれて来いよ。」と、どなりました。叔父はこはくなり出したと見え、とびかゝつてそのほう丁をもぎとりました。ガスパールが、
「ぼくはいかないよ。いかないんだい。」と、さけびつゞけるのを、人々はよつてたかつて、そこいらへしばりつけました。ガスパールは歯をくひしばり、あわをふいて、
「をばさァん。」とよびました。叔母さんは、泣きふるへながら二階へ上つてしまつてゐました。
馬車のしたくをする間に、ヘナンは、私たちに食事をさせようとしました。私は、ひもじいどころではありませんでした。クロック先生だけは、むさぼるやうに食べました。ヘナンは、ガスパールが先生とドイツ皇帝をのゝしつたことを、くりかへし/\先生にわびました。憲兵がおそろしかつたのです。
四
何といふ、かなしい、もどり道だつたでせう。ガスパールは、馬車のおくのわら[#「わら」に傍点]の上に、病気の羊のやうによこたはつたきり、もう一とことも言ひませんでした。私はガスパールが怒りと涙とにつかれつくして、寝入りこんだのだと思ひました。帽子もかぶらず、マントも着ないまゝなので、ひどく寒いだらうと気づかひました。しかし先生がこはいので何も言へません。
つめたい雨がふり出しました。クロック先生は、毛皮うらのついた帽子を耳まですつぽりかぶつて、鼻うたをうたひながら、馬を平手でたゝきました。
星の光りが風でをどりました。私たちは白い氷つた道をすゝみました。もう水車から遠くはなれて、せき[#「せき」に傍点]のひゞきもきこえません。そのときよわ/\しい、訴へるやうな泣き声がふいに車のおくから聞え出しました。その泣き声は、私たちの、アルザスの方言で言ひました。
「放しておくれよ、クロック先生。」
それはいかにも悲しい声だつたので、私は目に涙がにじみました。クロック先生は意地わるさうに笑つて、馬にむちをあてながら、うたをうたひました。
しばらくすると、また泣き声がおこりました。
「はなしておくれよ、クロック先生。」
やはり、ひくい、かなしい、機かい的な調子でした。かはいさうに、ちようどお祈りをでも暗誦してゐるやうに、つゞけました。
とう/\車はとまりました。私たちは学校へもどつたのです。クロック夫人は、校舎のまへに、がんどうぢようちん[#「ぢようちん」に傍点]をもつて待つてゐました。
夫人はひどくおこつてゐて、いきなりガスパールをぶちのめさうとしました。クロック先生は、それをおさへとめ、意地わるさうに笑つて言ひました。
「あす計算をつけよう。今晩はもうたくさんだ。」
全くです。ガスパールは、あれだけいぢめられれば十分です。ガスパールは熱でからだがふるへ、歯がかち/\になつてゐます。私たちは、ガスパールを寝床につれていきました。
私もその晩は、熱が出ました。私は夜どうし、あの車の牢屋を感じ「はなしておくれ、クロック先生」といふあはれなガスパールの声が、いつまでも耳をはなれませんでした。
底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第八巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1931(昭和6)年2月
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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