馬鹿七
沖野岩三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紀州《きしう》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|穴《あな》と

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポンポコ/\/\と
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    一
 紀州《きしう》の山奥に、狸山《たぬきやま》といふ高い山がありました。其所《そこ》には、大きな樫《かし》だの、樟《くす》だのが生え繁《しげ》つてゐる、昼でも薄暗い、気味の悪い森がありました。森の中には百|穴《あな》といふのがありました。其《そ》の穴の中から、お腹《なか》の膨れた古狸が、夕方になると、百|疋《ぴき》も二百疋も、ノソノソと這《は》ひ出して来て、ポンポコ/\/\と腹鼓を打つて踊つたり跳ねたりするといふので、村の人達《ひとたち》は皆な気味悪く思つて、昼でもその森の中へ入つて行くものはありませんでした。
 この村に、七|郎兵衛《らうべゑ》といふ五十あまりの男がありました。七郎兵衛は少し馬鹿《ばか》な男でしたから、村の人達は、馬鹿《ばか》七、馬鹿七と呼んでゐました。七郎兵衛自身も、馬鹿七といはれて平気でゐました。
 この馬鹿七は平生《へいぜい》から、狸山へ行つて一度その狸の腹鼓を聞いて見たいものだ、狸の踊る様子を見てやりたいものだと言つてゐましたが、或《あ》る日の夕暮に、たうとう思ひ切つてたゞ一人その森の中へ入つて行きました。
 馬鹿七は腰に山刀をさして、手には竹の杖《つゑ》を一本提げてゐました。そして段々、山を奥へ奥へと登つて行つて、大きな暗い/\森の中へ入つてしまひました。
「何と大きな樟の樹《き》だなア、何と大きな樫の樹だなア。」と呆《あき》れながら、馬鹿七は真暗《まつくら》い森の中で木の根に腰をかけて、腹鼓の鳴るのを、今か/\と待つてゐました。けれども一時間待つても、二時間待つても、ちつとも狸は出て来ませんでした。で、馬鹿七はたうとう待草臥《まちくたび》れて、ウト/\と其所へ寝てしまひました。
 暫《しばら》くして、ふと、眼《め》を覚して見ると、これはまア何といふ不思議なことでせう。馬鹿七の前には、可愛い/\小い狸の仔《こ》が、百疋も二百疋も、きちんと座つてゐました。しかもそれが皆《みん》なお行儀よく並んで、馬鹿七の方を一生懸命に見詰めてゐるじやアありませんか。馬鹿七は吃驚《びつくり》しましたから、腰の山刀をスラリと引抜いて、振廻しました。すると、その可愛い狸の仔の姿は掻消《かきけ》すやうに消えてしまひました。そして、森はまた元の真闇《まつくら》になりました。
 すると、馬鹿七は又、ぐう/\と鼾《いびき》をかいて、寝てしまひました。暫《しばら》くして眼を覚して見ますと、今度は大きな親狸が、まん円い膨《ふく》れたお腹《なか》を、ずらりと並べて、百も二百も並んでゐるのです。そして皆《みん》な、小い棒切れを両手に持つて、今にもその太鼓を打ち出さうとしてゐるじやありませんか。それを見た馬鹿七は、躍り上つて、
「しめたぞ! 狸さん、早くその太鼓を打《たた》いて、聞かせてお呉《く》れ!」と云つて、ニコニコ笑ひながら、竹の杖に縋《すが》つて伸び上つて見ますと、森の中一面に、大きな古狸が、何百何千となく座つてゐるのです。
「大変な狸だなア、今度は山刀を抜いて脅かしはしない。さア一つその腹鼓を打《たた》いて呉れ!」といつて、また木の根に腰を掛けると、古狸が一斉にポンポコ/\と腹鼓を打《たた》き始めました。すると最前|何所《どこ》かへ逃げた小い可愛い仔狸が、何所からかヒヨコヒヨコと出て来て、面白|可笑《おか》しい手付腰付をして、踊り出して来たのです。
 馬鹿七は余り面白かつたものですから、いつの間にか、自分もその仔狸の群へ交つて、平生から好んでゐた歌を唄《うた》ひながら夢中になつて踊りました。そして踊り疲れて、バツタリ森の中に倒れて眠つてしまひました。
 翌《あく》る朝眼を覚して見ますと、狸らしいものは、其所らあたりに一疋も居りません。自分が仔狸と一緒に、踊つたらしい跡形もありませんでした。
 馬鹿七は首を傾《かし》げながら、森を出て山を降りて、村へ帰りました。そして村の人たちにこの話を致しましたが、皆《みん》な、
「嘘《うそ》だ/\、そんな馬鹿な事があるものか。」といつて、信じませんでした。
「嘘だと思ふなら、皆さんも森の中へ行つてごらんなさい。」と馬鹿七はいひました。
「だつて、昔から誰《たれ》も行かない森だもの、入つて行くのは気味が悪いから……」といつて、矢張《やつぱ》り誰一人、森へ入つて行かなかつたのです。けれども馬鹿七は、大抵月に三度づゝは、この森の中へ入つて行きました。そして、いつもその面白い腹鼓をきいたり、踊りを見て喜んだりして、一夜を山の
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