中で過して帰つて来ました。


    二
 村の庄屋《しやうや》の息子に、智慧蔵《ちゑざう》といふ、長い間江戸へ出て、勉強して来た村一番の学者がありました。或時《あるとき》その馬鹿《ばか》七の話を聞いて、
「そんな馬鹿な話があるものか。それは迷信といふものだ。」と申しました。しかし馬鹿七は頭《かしら》を横に振つて、
「いゝえ、迷信でも何でもありません。私《わたし》は確かに太鼓の音を聞いたのです。踊りを見たのです。これより確かなことがあるものですか。」と言ひました。
 そこで、智慧蔵は村の若者十人をつれて、狸山《たぬきやま》へ探検に出かける事になりました。智慧蔵は長い槍《やり》を提げ、若者は各々《めいめい》刀を一本づゝ腰に差してゐました。馬鹿七は元気よく先に立つて、十一人を案内して、山へ登つて行きました。
「森が見えました。狸の腹鼓はあの森の中で聞くのです。」と言つて、馬鹿七が森の方を指しました時、もう若者の顔は大分蒼くなつて、中にはぶる/\と慄《ふる》へてゐる者もありました。
「狸が出て見ろ、片ツ端から刺し殺してしまふから……」
 智慧蔵は元気らしく言ひました。そして其所《そこ》で松明《たいまつ》へ火をつけさせて、若者を励しながら、森の中へ入つて行きました。けれども森の中には、狸らしいものは愚か、鼠の仔《こ》一|疋《ぴき》も見えませんでした。
「それ見ろ、馬鹿七の嘘吐《うそつ》き! 何も出やしないぢやないか。」といつて智慧蔵が大声で呶鳴りました時、向ふの大きな樟《くす》の木の蔭《かげ》から、ポン/\ポンポコ/\/\と面白い太鼓の響が聞えて来ました。
「やア、来た/\、そうれ、あの大きな狸を御覧! 三百、四百、五百、あれ/\彼《あ》の小い可愛い仔狸を御覧、あれ/\……」
 馬鹿七は、もう面白くて堪《たま》らないやうに叫びました。智慧蔵は槍を身構へました。若者は皆《みん》な、刀へ手を掛けました。しかし太鼓の音がするだけで、狸の影も形も見えませんでした。
「そうれ、来た/\、そうれ、その足許へ来たぢやないか。やア/\今晩のは滅法大きい狸ぢや……」といつて馬鹿七が踊り出したので、若者は急に気味悪くなつて、松明をそこへ投げ棄てたまゝ、一目散に森を駈《か》け出しました。
「待て! 逃げるのぢやない。狸も何もゐやアしないぢやないか。」かういつて智慧蔵は声を限りに叫びましたが、若者はそんな声は耳にも留めないで、我一《われいち》にと押合ひへし合ひ山を下の方へ走りました。かうなると最う智慧蔵も堪らなくなつて、一生懸命に森を逃げ出して、無茶苦茶に下の方へ転びながら走つて来て、十五六町も来たと思ふ時分に、振返つて見ますと、これは先《ま》ア、何といふ事でせう。不思議にも、森は一面の猛火に包まれて、焔々《えんえん》と燃えてゐました。それは、若者|達《たち》の投げ棄てた松明の火が、落積つた木の葉に燃え移つて、それが枝から枝に、段々と燃え広がつたのでありました。


    三
 火事だ、火事だ、山火事だ! といつて、村の人達《ひとたち》は、皆《みん》な麓《ふもと》まで駈《か》けつけて来ましたが、何様何千年も斧《おの》を入れた事のない大きな森の大木が燃え出したのですから、見る/\うちに、山一面が火の海になりました。
 山火事は七日の間続きました。そして高い高い狸山《たぬきやま》は、一本の生木もないやうに焼かれてしまひました。火事のあとで、村の人達が上つて行つて見ますと、百穴の中から、這《は》ひ出して来た古狸も仔狸《こだぬき》も、皆な焼け死んでゐました。それを見た智慧蔵《ちゑざう》は、
「これでいゝ、もう狸も出ないし下らない迷信もなくなつた。」といつて喜びました。しかし村の人達は、馬鹿《ばか》七がどうなつたのだらうかと思つて、心配しながら焼跡をすつかり調べて見ましたが、人間らしい者の屍骸《しがい》は何所《どこ》にも見つかりませんでした。
「あんな馬鹿な男は、どうなつたつていゝぢやないか。」と智慧蔵は言ひました。しかし村人は、馬鹿七のために心配してゐました。
 ところが其《その》翌年《よくねん》から、此《この》村に雨が一滴も降らなくなりました。もう川も谷も、水が涸《か》れてしまつて、飲む水にも困るやうになりました。田や畑の作物はすつかり萎《しな》びて、枯れてしまひました。で、多勢はお宮の境内で、太鼓を打《たた》いて歌ひながら、雨乞踊《あまごひをどり》をいたしました。智慧蔵は馬鹿な踊をする奴《やつ》らだと言ひながら、その雨乞踊を見に行きました。
 三百人も四百人も集つて、声を嗄《か》らして歌ひながら、雨乞踊を踊つてゐますと、そこへ向ふの方から、青い物を荷《にな》つた男が、一人やつて来ました。よく/\見ると、それは馬鹿七でありました。
「馬鹿七さん、あなたは焼け死
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