山さち川さち
沖野岩三郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紀州《きしう》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鉄砲|肩《かた》げて
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+完」、第4水準2−93−48]《あめのうを》が
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ザワ/\と
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一
昔、紀州《きしう》の山奥に、与兵衛《よへゑ》といふ正直な猟夫《かりうど》がありました。或日《あるひ》の事いつものやうに鉄砲|肩《かた》げて山を奥へ奥へと入つて行きましたがどうしたものか、其日《そのひ》に限つて兎《うさぎ》一|疋《ぴき》にも出会ひませんでした。で、仕様事なしに山の頂から、ズツと東の方を眺《なが》めて居ますと、遙《はる》か向ふから蜒々《うねうね》とした細い川を筏《いかだ》の流れて来るのが見えました。
「あの筏が丁度《ちやうど》この山の麓《ふもと》まで流れて来る間に俺《おれ》はこゝから川端まで降りて行かれる。そして俺はあの筏に乗つて家《うち》へ帰らう。さうぢや、それが宜《い》い。」
与兵衛はさう考へながら、山の頂から真直《まつすぐ》に川の方へ、樹《き》の枝に攫《つかま》りながら、蔓《つる》に縋《すが》りながら、大急ぎに急いで降りて行きました。そして川岸から三十間ばかり上の方まで来た時、右手の岩の上の大きな樫《かし》の枝が、ザワ/\と動くのが逸早《いちはや》く与兵衛の眼《め》に映りました。
与兵衛は鉄砲を取直して、そつと木の枝の間から覗《のぞ》いて見ますとその樫の木の上に大きな猿《さる》が二疋、頻《しき》りに枝を揺《ゆす》ぶりながら樫の実を取つて居るのでした。
それを見た与兵衛は筏の事も何も打忘れてしまつて、忍び足にその樫の木に近寄つて行きました。所が樫の木の枝には二疋の大猿の外に小い可愛い猿が、五疋七疋十疋、ピヨン/\と枝から枝へ、跳びあるいて遊んで居るのです。で、与兵衛は其中の一番大きい親猿を射《う》つてやらうと思つて、狙《ねら》ひを定めて、ドーン! と一発射ちました。
「しめた!」と与兵衛は叫びました。それは与兵衛の長い間の経験から、鉄砲の音でその弾丸《たま》があたつたか、あたらなかつたかが、すぐに知られたからでありました。
与兵衛はすぐ新しく弾丸《たま》を込めて樹《き》の上を見ました。もう其時は皆な五疋十疋の猿が幹を伝つて一生懸命に跳び降りて、いづくとも知れず逃げてしまつた後でした。
「はてな、今の弾丸《たま》は確かにあたつた筈《はず》だが……」と独語《ひとりごと》を言ひながら与兵衛は樫の大木に近づきました。すると大きな猿が一疋、右の手で技を掴《つか》んで、ぶらりとぶら下つてゐました。与兵衛はすぐ鉄砲に弾丸《たま》を込めてその猿の右の手をうつたのでした。所が猿は、ばたりと下へ落ちて来ましたが、今度は左の手でまた別の枝を握つて、ぶらりとぶら下りました。
与兵衛は少し気味悪く思ひましたが、勇気を出して三発目に頭の後《うしろ》の方を射ち抜いたので、ドスン! と音がして、与兵衛の立つてゐた二間ばかり上の方へ、大きな親猿が血に塗《まみ》れて落ちて来たのでした。
与兵衛は早速|駈《か》け上《あが》つて行つてその親猿の手をソツと掴んで下へ三尺ばかり引摺《ひきず》りますと、山の上の方から土瓶《どびん》のまはり程の大きな石が、ゴロ/\と転つて来ました。
与兵衛は驚いて飛び退《の》きながら見ますと、鉄砲の音に驚いて山の中へ逃げ込んで居た親猿小猿が出て来て、与兵衛に其《そ》の射殺《うちころ》された猿の死骸《しがい》を渡すまいと思つて、石を転がしたのでした。それと知るや与兵衛は、腰に結んで居た細引で、射取《うちと》つた猿を確《しか》と縛つて川岸の方へ引摺り下しました。
すると山の中から五疋も十疋も、親猿小猿が、キヤーツ! キヤーツ! と叫びながらその死骸を奪ひ返さうとして、追かけて来るのでした。
与兵衛は顔色を変へて一生懸命に川岸へ走り降りましたが、その猿を縛つた繩《なは》は、堅く右の手に握つてゐました。
与兵衛が転びながら川岸へ辷《すべ》り降りた時、丁度《ちやうど》川上から筏が流れて来ましたので、早速|其《その》筏に飛乗りました。そして親猿の死骸も、筏の上に載せたのです。
筏を流して来た筏師は驚き呆《あき》れてこの有様を見てゐましたが、早い流れでしたから瞬く間に筏は五六十間も下の方へ流れてしまひました。川岸の岩の上で、親猿小猿はギヤアギヤア言つて下の方を眺めて居ました。
与兵衛は筏の上にドツカと坐《すわ》つて、まづ川の水を一口が
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