ぶりと両手に掬《すく》つて飲みました。それから気を落つけて射取《うちと》つた大猿を能《よ》く能く見ますと、大猿の懐には可愛い/\小い猿の赤ちやんがピツタリと頭を母猿の乳頸《ちくび》の所に押付けて四つの手で、確《しか》と母の腹にシガミついて居るのでした。
「おや! 一疋だと思つたら二疋だ!」
与兵衛は眼を円くして驚きました。筏師も
「それは思ひも設けぬ事だ!」と言つて笑ひ興じました。
所が与兵衛はその子猿を母猿から引離さうとしましたが、どうしても離れません。カツチリと四つの手で母の腹に取縋《とりすが》つて、その小い五本の指を堅く/\握つてゐるのです。
与兵衛は仕方なしに、親猿と一緒に其の子猿を家《うち》に担ぎ込みました。そして家内中でその子猿を引張つて見たり、煙草の煙で燻《くす》べて見たりしましたが、どうしても離れないのです。で、たうとう母猿を水の中へヅツプリと浸《つ》けますと、やつと小猿は母の腹から離れました。
「なア、畜生でも可哀さうなものぢや。」と与兵衛が言ひますと、
「本当にネ、死んだ親ぢやと知らずに、その乳首に縋つてゐたのがイヂらしい……」とお熊《くま》といふ娘は、涙ぐみながら言ひました。
「なア可哀さうに、お前の母《か》アさんは死んだのぢや、もう乳は出ないんぢやよ、なア可哀さうに。」と言つて、今年六つになる信次《しんじ》といふ与兵衛の孫は、その子猿の頭を撫《な》でながら泣きました。
母猿を最前からぢつと見詰めてゐた与兵衛の眼からは、玉のやうな涙がポトリ/\と落ちました。そして言ひました。
「俺《おれ》は、今日限り、猟夫《かりうど》は止める。もう一生鉄砲は射《う》たない。信次、お前はその子猿を大事に飼つてやれ、俺はこの母猿を裏の墓場へ叮嚀《ていねい》にお葬式をしてやる!」
二
与兵衛《よへゑ》は子猿《こざる》にはチヨン[#「チヨン」に傍点]といふ名をつけました。家内中は皆《みん》なそのチヨン[#「チヨン」に傍点]を大変大事にして可愛がりました。殊に信次《しんじ》とは、まるで兄弟のやうにして毎日/\跳んだり撥《は》ねたりして一緒に遊びました。
与兵衛が田圃《たんぼ》から帰つて来ますと、すぐチヨン[#「チヨン」に傍点]はその肩に駈《か》け上つて白髪《しらが》交りの髪の毛を引張りました。御飯を食べようと思つてお膳《ぜん》の前に坐《すわ》ると、すぐチヨン[#「チヨン」に傍点]は与兵衛の膝《ひざ》の上に入つて、そしてお膳の上にあるお芋の煮たのやら、お豆の煮たのを、お先へ失敬してムシヤ/\と食べるのでした。けれども与兵衛は、ちつともそれを叱《しか》らずにチヨン[#「チヨン」に傍点]よチヨン[#「チヨン」に傍点]よと言つて可愛がつてゐました。
或日《あるひ》の事、与兵衛は川へお魚を釣《つ》りに行つたが、どうしたものかその日は不思議にもたいてい一つの淵《ふち》で大きな※[#「魚+完」、第4水準2−93−48]《あめのうを》が必ず一つづつ釣れるので、もう一つ、もう一つと思つて、つい川を上へ/\と上つて行きました。そしてふと気付いてみると、十四五間上手に大きな樫《かし》の木のあるのが眼に止りました。
「あ、あの樫の木だつたつけ、チヨン[#「チヨン」に傍点]の母猿を射つたのは?」
与兵衛はかう言つた後で、思はずも南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》々々々々々々と言ひました。そして川原に立竦《たちすく》んだまゝ、ぢつとその樫の木を眺《なが》めて居ました。樫の枝は大きな/\傘《かさ》のやうに広がつてその片一方がずつと淵の上の所まで伸びて居ました。
「何と大きな樫の木だなア。」と呆《あき》れて見てゐると、樫の枝がザワ/\と動くぢやありませんか。与兵衛はギクリ! として釣竿《つりざを》を杖《つゑ》についたまゝ立つて居ると、猿が何疋も枝から枝へ跳びあるいてゐるのです。
「おや! また猿が居るナ?」
与兵衛はブル/\顫《ふる》へながら見て居ると、川の方に差し出た細い枝の上に大きな親猿が一疋、何を思つたかスル/\と伝つて来て、軽業師のやうにぶら下りました。枝が弓のやうに輪を画いて円く曲つたと思ふと、其枝はポツキと折れて大きな親猿は小枝を握つたまゝ二十間もあらうと思はれる高い所から、ドブン! と淵の中へ真逆様《まつさかさま》に落ちたのでした。
「あツ!」と叫んで与兵衛は吾知らず川原を上の方へ駈《か》けて行きました。行つて見ると深い/\淵の真中に落込んだ親猿は、樫の枝を握つたまゝ首だけやつと水の上に出して浮いてゐました。木の上ではあれだけ敏捷《びんせふ》な猿でも水の中では一尺も泳ぐ事が出来ないのです、猿の一番禁物は水なのです。
「よし/\、今、俺《おれ》が助けてやる! さアこの釣竿に縋《すが》れ!」
与兵衛はかう言つて釣竿を差出して
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