「これは、どろばうだな。」と思ひました。けれども、今さら、どうすることも、できませんから、「ごめんなさい。」と、いつて、男の前を、とほりぬけて、さつさと、あるきました。
 博士は、うしろをふりむかないで、ずんずん、あるきました。もうあとから、よびとめられるか、もうこゑを、かけられるかと、思ひましたが、男は何とも言ひません。
 少しく安心した博士は、十分ばかり、あるいたあとで、うしろをふりむいてみますと、男はつゑにすがつて、とぼとぼと、くるしさうに、あるいて来ます。
 博士は、その時はじめて、その男が、びやう人であることを、知りまして、ほつと安心しました。
「ああ、よかつた。どろばうで、なくてよかつた。」
 博士は、ひとりごとを言ひながら、また自てん車をおして、坂をのぼりました。
 それから一時間ほどあとでした。たうげに、のぼりついた博士は、坂の方を見かへりながら、
「たしかに、びやう人だつた。かはいさうな、びやうにんだつた。それに、わたしは、あの人を、どろばうだと思つて、おそろしく思ひました。ひよつとすると、あれは、神さまが、あんな、すがたにばけて、わたしを、おためしに、なつたのかも知
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