硯箱と時計
沖野岩三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)石之助《いしのすけ》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)早速|其《そ》の

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(例)おふとん[#「ふとん」に傍点]
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 石之助《いしのすけ》が机にむかつて、算術をかんがへてゐますと、となりの金《きん》さんが来て、
「佐太《さだ》さん。石さんはよく勉強するね。きつと硯箱《すずりばこ》になりますよ。」と、言ひました。すると佐太夫は、
「いいえ。石之助はとても硯箱にはなれませんよ。硯箱になるのは、あんたの所の茂丸《しげまる》さんですよ。」と、申しました。
 ふすまのこちらで、お父さまと金さんの話をきいてゐた石之助は、へんなことをいふものだなあと思ひました。
 しばらくして、金さんが帰つたので、石之助はすぐ、お父さまの所へ行つて、
「僕《ぼく》が、硯箱になれないつて、何の事ですか。」と、きいてみました。
 石之助が、あまり不思議さうな顔をしてゐるので、お父さまは、ひざをたたいて笑ひながら、
「狸《たぬき》が茶釜《ちやがま》になつた話はあるが、人間が硯箱になつた話は、きいたことがない。こりやあ、私たちの言葉のつかひ方が悪かつた。硯箱になるのは、茂丸さんか、お前か、どつちだらうと言つたのは、かういふわけだ。」と、云つて、お父さまは、硯箱になるといふ話を説明しました。
「石之助、お前は殿様のお名前を、知つてゐるだらう。」
「知つてゐます。山野《やまの》紀伊《きい》の守《かみ》です。」
「さうだ。元は三万八千石の殿様で、今は子爵様だ。東京にゐらつしやる。」
「馬に乗るのが上手でせう。」
「その殿様は、もう、お亡くなりになつて、今は若殿様が子爵さまになつてゐられる。山野紀伊の守様が、東京へお引越になられてから、もう五十七年になる。その間に一度もこの町へお帰りにならないので、この町の人たちは、だんだんと、殿様の事を忘れてしまひさうだ。昨年若殿様が御病気なされた時、ひとりも、お見舞ひの手紙をさし上げたものがなかつた。それは町の人もわるいが、五十七年間、一度もこの町へおいでにならなかつた殿様も悪い。そこで、殿様とこの町の人たちが、もつと仲よくなるために、今年からこの町の学校を卒業する優等生に、殿様から御褒美《ごはうび》を下さることになつたのだ。中学校の優等生には鉄側時計、女学校の優等生には銀側時計、小学校の優等生には硯箱を下さるんだ。御定紋のついた硯箱だよ。」
 お父さまが、それだけ言つた時、石之助は、
「わかつた、わかつた。僕その硯箱をほしいなあ。」と、云ひました。
「うん、ほしからう。私もお前が、その硯箱をもらつてくれればよいがと思つてゐる。ところで今、六年生の一番は茂丸さんだといふぢやないか。茂丸さんは、あれは士族ぢやないんだ。出来ることなら、昔の家来であつた士族がもらひたいもんだ。ここは代代足軽といふ役をしてゐた士族だから、お前がその硯箱をもらつてくれたなら、殿様も、さぞお喜び下さるだらう。」
 お父さまの佐太夫は、さういつて涙ぐんでゐました。
「お父さま大丈夫だ。僕、きつとその硯箱をもらつてみせる。」
 石之助は元気に、にぎりこぶしで、ひざをたたきながら言ひました。
「さうか。そのかくごはよい。お前は茂丸さんに勝つ見こみがあるか。」
 お父さまは、心配さうに問ひました。
「あります。僕きつと、一番になつてみせます。」
 石之助は、自信のあるやうに言ひました。
 そのあくる日から、石之助は、どうしても殿様から、硯箱をもらはなければならないと思つて、必死に勉強しはじめました。
 一月二月がすぎ、三月が来ました。卒業試験が近づいてきたのです。けれども正直に言ふなら、算術は茂丸の方がよく出来ます。習字も茂丸の方が上手です。どうも茂丸の方が一番になりさうです。だから何とかして、茂丸を二番にする方法はないものかと、考へてばかりゐました。
 茂丸は石之助よりも、からだが弱いので、あまり勉強はいたしません。お父さまの金太夫《きんだいふ》さんが、いろいろと硯箱のことを言ひますが、茂丸は唯《ただ》にこにこ笑つてゐて、そんなものをほしいとも何とも言ひません。金太夫さんは、茂丸には勇気がなくていけない、やつぱり平民の子はだめだと、言つてゐました。
 いよいよ卒業試験が始まりました。ところが、二日目の算術と綴方の試験の日、茂丸はひどく熱を出したので、学校を休みました。
 石之助は試験がすむと、おうちへとんで帰りました。そして、
「お父さま、大丈夫硯箱はもらはれますよ。」と、申しました。
「大丈夫か。」と、佐太夫《さだいふ》は申しました。
「大丈夫です。今日は茂丸さんが、熱を出して休んだから、きつと僕が一
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