番になるよ。」
 石之助は手をたたいて、ざしき中をはねまはりました。お父さんの佐太夫も喜びました。
 お隣の金太夫さんは、たうとう硯箱は石之助さんのものだと言つて、ほろほろ涙をこぼしてゐました。けれども茂丸は、
「なあに、落第しつこはないよ。」と、言つて、おふとん[#「ふとん」に傍点]の上で童話の雑誌を読んでゐました。

 卒業式の日が来ました。いろいろの式があつたあとで、山野《やまの》紀伊《きい》の守《かみ》の家老を務めてゐたといふ髯《ひげ》の白い老人が、殿様の代理で、
「本年から優等生に、旧藩公山野子爵閣下より、御定紋付の硯箱を下さることになりました。」と、申しました。そしで、校長さまから、
「粉白石之助《こしろいしのすけ》……」と、呼ばれた時の石之助の喜びは、口にも筆にも現はせないほど大きなものでした。
 式が終つて、おうちへ帰りますと、佐太夫は、早速|其《そ》の硯箱を仏壇の前にそなへて、
「お父さま。お母さま。おぢいさま。おばあさま。喜んで下さい。今度せがれの石之助は、殿様から御定紋付の硯箱を頂きました。どうぞ石之助をほめてやつて下さい。」と、申しました。おつ母さんも、仏壇の前でほろほろと、うれしなみだを流してゐました。

 三月の終に、石之助も茂丸も中学校の入学試験を受けました。石之助が一番、茂丸が三番で入学しました。それを見た金太夫さんは、中学校の鉄側時計も、石之助さんのものだと、思ひました。
 中学の一年から二年になる時、石之助が一番で、茂丸が五番でした。三年になつた時、石之助が一番で、茂丸が七番でした。四年になつた時、石之助が一番で、茂丸が九番でした。
 いよいよ卒業の時が来ました。卒業式には県知事さんが来ました。髯の白い家老さんも来ました。そして殿様の定紋を刻みつけた鉄側時計は、石之助に下さいました。
 町の小い新聞には、大きな活字で、石之助のことを、ほめてほめて書いてありました。
 茂丸は十番で卒業しました。身体《からだ》が弱くて時時休んだからでした。けれども、東京へ出て、高等学校の入学試験を受けますと、石之助も茂丸も入学は出来ましたが、どうしたものか、今度は石之助が五番で、茂丸が一番でした。
 石之助は何だか、殿様に申しわけがないやうに思ひましたが、国を出る時お父さまの佐太夫から、
「試験がすんだなら、すぐ殿様の所へ、お礼に行くんだぞ。」と、言はれてゐたので、田端《たばた》の丘の上にある、山野《やまの》子爵家に、たづねて行きました。
 表げんくわんから取次を頼みますと、ひとりの老人が出て来て、住所姓名を尋ねた上、
「旧藩時代の御身分は。」と、むつかしいことを問ひました。そこで、石之助は、
「おぢいさまの時まで、足軽といふ役を勤めてゐたさうでございます。」と、答へますと、
「さうですか。では表げんくわんから、入つてはいけません。あちらの小玄関からお入り下さい。」と、申しました。
 石之助は、へんだなあと思ひながら、小玄関へ行つてみますと、短い袴《はかま》をはいた書生さんが出て来て、
「こちらの応接室へお入り下さい。」と、言ひました。
 石之助は、ほこりまみれになつた靴《くつ》をぬいで、げんくわんへ上りました。書生さんが、どあをあけてくれました。見れば応接室の奥に、色の白い青年が椅子にかけてゐました。その青年が、殿様の山野子爵だつたのです。
 石之助は顔をまつかにして、応接室へ入つて行きました。そして、硯箱と時計とのお礼を申しますと、殿様は、
「不思議だね、僕《ぼく》はそんなものを、君にあげた覚えはありませんよ。第一僕と君とは、今はじめて会つたのではないか。」と、申しました。
 石之助は、小学校卒業の時に、硯箱をいただいたこと。中学校卒業の時に、時計をいただいたことを、申し上げますと、殿様は腹をかかへて、笑ひました。
「僕は知らないよ。僕はそんなものを、君達《きみたち》にあげた覚えはないよ。多分山野家が、だんだんと、昔の家来たちに、忘れられて行くのを苦しく思つて、家令どもが、そんな事をはじめたのだらう。へえん、さうかなあ。僕の名前で硯箱だの時計だのを、君に上げたのかい。実はね、僕は身体《からだ》がよわくて、学習院の中学部で、二度も落第したんだぜ。だから、たうとう高等部に入学できないで、かうして毎日、ぶらぶら遊んでばかりゐるんだよ。世間には、僕のやうな落第生から、賞品をもらつて喜んでゐるやつがあるのかい。」
 殿様はそんな事を言つて、また大きな声で笑ひました。
 石之助はびつくりして、ぼんやりしてゐました。すると殿様は、
「粉白石之助君。君は今まで僕を君よりえらい人間だと思つてゐたんだらうね。昔は殿様がえらくて、足軽は、ひくい役人だつたが、今は中学の落第生よりも、高等学校の学生さんの方がえらいんだよ。だから、君
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