茶を一杯に飲み干した。
「あの方あれで廿四ですつて、別嬪でさあね」
 女中は盆を立てた儘いつた。其噺は要領を得なかつたが此の宿が女と姻戚の間柄であるといふのを聞いて私は女が一人で身を託すことの出来る理由を知つた。隣の座敷へは其夜お婆さんが泊つた。其次の日もお婆さんは帰らなかつた。隣の座敷ではよくひそ/\と噺をした。私はお婆さんが帳場で主人と噺をして居るのも見た。其時お婆さんも主人も只煙草の烟を吹いて居るものゝ如くであつた。私は鬱陶しい宿の退屈に堪へないので思ひ切つて雨の中をそこからでは遠くもないといふ炭坑を見に出挂けた。二日ばかりで雨は晴れた。私は山の途中から光る海を見た。山を出て宿へついたのは日が後の丘に傾きつゝある時であつた。小さな入江には松魚船が五六艘泛んで居る。船は皆帆を張つたやうに建てた檣へ網を干してある。入江を抱へた岡の松にはもう鴉が塒を求めて騒いで居る。岡の出鼻から突然船が現れた。裸の漁師が挂声をしながら艪を押して居る。船は船と船との間を矢の如く入江にはひる。艪の手が止ると船は惰力を以てずうつと汀まで進む。汀には港の人が集つて居る。浜の子供が幾十人となく人々に交つて居る。私は暑いので荷物にして来た衣物を宿の店先へ投げて浜へ駆けつけた。やがて船からは松魚をぽん/\と浅い水に投げる。船からおりた漁師が裸のまゝ松魚の尻尾を攫んで砂の上へ運ぶ。幾十人の浜の子は水にひたりながら先を争うて松魚を運ぶ。松魚は十づゝ其頭を揃へて砂の上にならべられる。人々が騒々しく其松魚を囲んで立ち塞がる。幾十人の子供は裸のまゝ一斉に声を立てゝ叫びはじめた。「くなんしよ/\」と叫ぶ。後には只「なんしよ/\」と声を限りに叫ぶ。手伝つた賃銭に松魚を呉れと叫ぶのである。立ち塞つた人々は其叫声には頓着なしに松魚の処分をしてずん/\外へ運んで行く。やがて一尾の松魚が子供の一人の手へ渡された。子供は直ちに走つていつてしまつた。私が宿へもどる時彼等は松魚を銭に換へたと見えて各一文二文と分配しつゝある所であつた。数日前とは異なつて港は何となく活々として来た。私は再び宿へもどつて来た時、宿の前には何かの肉であらうと思はれる綿のやうな黄色な然かも大きなものゝ浮んで居るのを見た。半ば岸へ揚げられて波にゆられて居る。それが酷い臭気を放つて居た。
「どちらの方へ、はあ炭坑へお出でになりましたか」
 主人は私へ挨拶する。私は帳場の前へ一寸坐る。此の間のお婆さんはまだ帰らなかつたと見えて帳場の側に坐つて居た。お婆さんは自分の前の煙草盆を私の方へ移して軽く時儀をした。
「大分浜らしくなつて来ましたね」
 私も主人へ挨拶した。
「えゝこの塩梅ぢや此からよからうと思ふんですがね、これで少し続いてくれなくちや困りますからね」
「馬鹿に臭いですな」
 と私がいつた時主人は机の上に披いてあつた帳簿をはたと閉ぢて
「今も其噺をした所ですが、此は鯨の肉ですがね、どうも日数がたつて居ますからすつかり腐つて居るんです。そこらに浮いて居たのを引つ張つて来たんですが肥料ですな」
 主人はかういつて更に
「どうぞまあ、お二階で御ゆつくり」
 といつた。又た威勢のいゝ挂声がして松魚船がはひつて来た。私はつと店先へ立つて松魚の人だかりを見た。
「此の臭が厭だつていふんだからね」
 お婆さんが主人に向つていつてるのを聞いた。
 隣座敷はひつそりとして居る。女中が茶を持つて来たので、私は黙つて隣の座敷を指して肘を頭へあてゝ、女は寝て居るかと聞いた。
「しよつちふなんですよ、それに今日はね、此の臭が厭だつてね、吐いたんですよ。本当に此の臭は厭ですわね」
 女中はこつそりとかういつた。私はふと女が懐胎して居るんぢやないかと思つた。さう思ふと酷く人に身を避けて居るやうなのが思ひ合される。
「此ぢやないか」
 と私は手で腹を描いて女中に聞いた。女中は冷かに微笑しながら
「そんなこといふと旦那に叱られますがね、本当にをかしんですよ、それだがまだ見た処ぢや分りませんわね」
 私へすりよつて小声でいつた。
 お婆さんが階子段を昇つて来たので女中は慌てゝ行つて畢つた。
「只今はどうも」
 とお婆さんは私に挨拶した。隣の座敷ではお婆さんの低い声が聞えた。
「どうだね、お前まだいけないかい。それぢやあつちの都合もあるから私は行くからね……」
 あとの方は能く聞えなかつた。更に低く女の声がしたやうであつたがそれはちつとも分らなかつた。やがてお婆さんは小さな包を持つて出た。
「またお目にかゝります」
 とお婆さんは私に挨拶して行つた。私は障子を開けて入江を見て居るとやがてお婆さんの車が威勢よくがら/\と走つて行つた。
 其夜私は目が冴えてまぢ/\と雑念に駆られたのであつた。隣座敷の女が懐胎して居ると気がついた時私はおいよさんに対する心配が募つて来た。手紙にあるのが本当であればおいよさんの身体にはもう変化が起りかける時期である。おいよさんも隣座敷の女のやうに陰気にならねばならぬであらう。平生から虚弱な身体ではましてさうなければなるまい。おいよさんは正月に行つた時も懐胎して居た。さうして人知れず恐ろしい罪を犯して身軽になつた。ほつと息をつく間もなく又懐胎して畢つたのである。私等はよく/\運も悪いのであつた。おいよさんはもう此度は身体が恐ろしくてそんなことは出来ないというて独で苦しんで居るのである。隣座敷の女はどんな事情が纏綿して居るであらうか。おいよさんのやうな境遇に在るのではなからうかと私には思はれてならぬ。さうしておいよさんのしたやうな罪を犯す念慮もなく又さういふ方法も知らず只沈んで居るのであらう。それを思ふと私は窃に愧ぢ入らねばならぬ。然しおいよさんの心持になつて見ると私は一概においよさんを貶して畢ふ気にはなれぬ。おいよさんは夫を嫌つて遁げて来たのである。それが一家の事情から今では其夫の村に近く住まねばならなくなつた。懐胎してはもう私の家には居られないのである。そこはどういふことにしても体面上私の家ではおいよさんを置く訳に行かないからである。さうかといつておいよさんは耻を曝して嫌つた夫の近くに居ることが出来ようか。さうして思案の末に嘗て自分が知合であつたといふ女を訪ねる気になつたのである。おいよさんはそれつ切り私の家に来なかつたならばもう心配を招くことはなかつたのである。然し私も喚んで見たかつたし、おいよさんも来ることが厭でなかつたばかりに更に又苦労の種が播かれたのである。おいよさんは私の冷かな情に弄ばれたのである。私は到底陋劣である。私の母は能く穿鑿して見ねば容易な判断は下せないといつたが私はどうしてもおいよさんを信じて私も亦十分に苦んでやらなければおいよさんに済まぬ。私はいつそおいよさんが逢ひたいといつた場所で逢つてやればよかつたとかういふ塩梅に私は此の夜いつになくおいよさんに同情が湧いた。私は港へ来てからもおいよさんとの交渉がどうなつたか思案しない日はなかつた。私の鬱して居た心は余計に雨を厭うたのであつた。私はおいよさんの身の始末に思ひ到ると隣座敷の女に対してどういふものか微かな恐怖心を抱くやうになつた。

     七

 次の朝私は疲れたやうになつて起きられなかつた。漸く眼が醒めた頃女は障子の外を通るやうであつたがそれからはひつそりとして居るか居ないか分らぬやうであつた。私が起きた時女中は隣の座敷へ来て女の容子を聞いて居る様であつた。軈て女中は階子段から番頭を喚ぶと番頭は小綺麗な蒲団を抱えて上つて来た。隣の座敷では番頭と女中とが其蒲団を敷き換へて居る様であつた。私が障子の外へ出て見た時女は座敷を出て勾欄に近く入江を見て立つて居た。寝くたれた浴衣に肉色の扱帯をしどけなく垂れて居る。髪もさらりと耳のあたりへこけていつもより顔が蒼味を帯びて見えた。私を見て慌てゝ座敷へもどつて障子の蔭へあちら向に立つた。しどけない姿が少し障子の外へ出て見えて居た。番頭はお世辞をいうて居る。
「昨日はあの臭ひで大分お困りでござんしたらう。酷いものでござんすからね。それでも夜のうちに片付けて畢ひましたからもう臭いやうなことはありません。今日は海も凪がようござんすから誠にせい/\致して居ります。此分では後に又松魚船が参ります」
 女はそれに対して何とかいうて居るがそれが極めて低い声である。私は耳を峙てゝ聞くのであるが、いつでも女のいふことが能く分つたことはない。丁度私は磁石に吸はれたやうに隔ての襖へ耳をつけ聞いても聞きとれぬ程女は静にものいふのである。私はいつでもぢれつたい心持になるのであつた。番頭は威勢よくものをいふ。蔭で聞いて居ても女の気を引き立てゝやらうといふのらしかつた。
「先頃こゝへ鯨があがりましてね。それが鯱に攻められたんですがね、此時は大騒ぎでした」
 女中は私の座敷の前で柱へつかまりながら勾欄へ腰を挂けた。
「港の船は残らず出払ひです。この沖で見つけたんですから私も乗つて行つて見ました、が其時は鯨はまだ死にきりませんでした。鯨といふ奴はあれでみじめなもので何も防ぎ道具といふ物がないんですから、鯱に攻められた日にやどうすることも出来ないんですね。只まあ遁げる丈けなんですね。鯱の方は何百匹だか分りやしません。斯う背中に角のやうな鰭があるんですがそいつを水の上に出して一杯に鯨を取巻いて居るんです。あれを見ちや鯱もなか/\大きなもんです。鯱鉾とは丸つきり違ひまさあね。其内に潜水器をかぶつてむぐつて見た奴があるんですが、鯱はみんな鯨の頭の方へばかり聚つて居て鯨の肉を食ひ取るんだ相です。それで尻尾の方へは決して行かないんですからね。尻尾で一つ弾かれたら何でもまた堪りませんから鯱もそれは知つてるんですね。そこは漁師ですからね、到頭鯨へ綱を挂けて、そいつを船へ継いで曳いて来たんです。鯱も人間には構はなかつたさうです。もう此の港の口へ近づいて来たとなつたらそれでも鯱はすうつと沖へ引つ返して行きました。さうかと思つて居ると其中の一番大きなのが二三匹角を立てゝ戻つて来ましてね、残念だといふんでせう、鯨を一食ひ食ひ取つて行きました。此にはみんな驚きましたね。何しろ鯨といふ奴は大きいものですから、港へはひらないので其儘置いたのですが、それがあなた明日の朝見ると夜鯱が来たと見えて鯨の肉がしたゝか噛じられて居るんです。一口に百五六十貫づゝも食ひ取るんですからね。さうかといつてそこらに其肉が浮いてるんですから食つて畢ふ訳でもないんです。一体鯱といふのは酷い奴ですね。そこら一杯水は赤くなりましてね。その時の騒ぎはお目に挂けたいやうでしたな」
 障子の外へ膝をついて番頭は語つた。私も閾の所までずり出して其噺を聞いた。
「番頭さん見たやうなことをいつてどうしたもんだ」
 女中はすぐにかういつた。
「何だい私行つたぢやないか交ぜつ返しちやいけないよ」
「それだつて番頭さんは船に弱いんだつて帰つた時は真蒼でしたよ。ようく御覧になつたのはうちの旦那さんでさね。おゝ厭な番頭さんだ」
 女中はかういつて笑ひながら遁げて行つた。
「本当に口の悪いおきんどんでしやうがない」
 番頭も笑ひながら
「まあどうぞ御ゆつくり」
 といつて立つた。
「大分お暑くなつて参りましたな」
 私へもお世辞をいうて去つた。それから隣の座敷には別に変つた事もなく女は矢張り滅多に座敷の外へ出ないのであつた。尤も空がすつかり切上つて夏の日が急に暑く照すやうに成つてからは女の座敷も障子が開けてあつた。私は女の座敷を一目見たいと思つたが遂に一足も境の柱を越した事がない。まして障子が開け放しになつてからは私は自分の座敷の前の勾欄から海を見て居る時僅に其座敷を振り返つて見る事にさへ恐怖心を抱いて居た。女は日に幾度も私の座敷の前を通る。女の前には私の座敷は少しの隠す所もない。隣の座敷は私の為めには全く秘密である。私はしをらしい其女が心憎かつた。私は宿の女中にも戯談すらいはなかつた。私は隣の座敷へひどく気兼があつたからである。私にそれだけの慎んだ態度がなかつたならば女は隣の座敷を移したかも知れぬ。私は其時
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング