に人目を避けたがる女を他へ追はなかつた程静粛な客であつた。私は隣の女が余りにひつそりとして居るので却つて私の心が刺戟された。私は夜になつて眼を瞑るといろいろと雑念が起つておいよさんのことを考へ出さずには居られなかつた。私はおいよさんに就いては困つては居たのだけれど此の宿へ来て、ひそりとした隣の座敷が私をそゝるやうになつてから一層恐怖心が増して来た。私の心はひどく弱くなつたのである。
或日の午後であつた。私は麦藁帽子一つで散歩に出た。宿の店先から左へとつて行くと後の丘の続きが崖を造つて立ち塞つて居る。そこには洞門があつて街道が通じてある。洞門をくゞつて行くと平潟の入江に似て更に小さな入江がある。小さな入江のほとりには漁師が小さな村を形つて居る。街道の端には「コマセ」といふ微細な蝦のやうなものが干してある。「コマセ」の臭気が鼻を衝いた。此の漁村は九面《こくづら》といつてもう国が異つて居る。短い洞門をくゞれば直ぐに磐城の国であるといふことが散歩の度に私の興味を湧かせるのであつた。又洞門が暗い口を向けて居る。そこを出るとからりと海が見渡される。此から私は坂路を勿来の関の跡へ行つたことがある。此の日は街道に従つて海岸を行つた。関田の浜が弓なりに私の前に展開して来た。小さな溝のやうな流が浜豌豆の花が簇がつて咲いて居る砂にしみ込んで末のなくなつて居るあたりから下駄を手にして汀を歩いた。ばしやりと砕ける波の白い泡が幾らか勾配をなして居る砂浜の上をさら/\と軽く走りのぼる。土地の人は此所を「ウタレ」というて居る。足が時々冷たい泡にひたる。私がぶら/\と歩いて居ると私の後から「ウタレ」を伝うて来るものがある。此は白い泡に従つて行つたり来たりしつゝこちらへ走つて来る。私は立つて待つて居た。竹を弓のやうに曲げて弦を張つたやうに網が張つてある。其異様な網で泡立つた浅い水をすくつて其水と共に走る。右の手ですくつて左の手の笊のやうなものへ叩く。私は近かよつて笊の中を覗いて見たら小さな蝦のやうなものが跳ねて居た。此もコマセといつて此は人間が喰べるのである。あの船で捕るのが沖コマセといつて糠のやうにこまかなさうしてそれが肥料に成るコマセだといつた。汀に近く五六艘の小舟が平らな波に乗つて白帆を張つて居る。見ると「ウタレ」に近い暗礁の上に一人釣をして居るものがある。波が其巌を越えてざらりと白い糸を懸ける。それが落ち切らぬ内に又あとの波が越える。釣する人は波の越える度に片足を揚げると波は其足の下を越える。巌越す波に攫はれぬ様にかうするのだらうと思ひつゝ絶えず然かもゆつたりと波を避けつゝある其様子を見乍ら暫く立つて居た。波はゆら/\とゆるく私の眼の前に膨れて更にそれが低くなつて汀にばしやりと白い泡を砕く。膨れあがつた波の面には更に幾つもの小さな波が動いて一度必ずきら/\と暑い日光を反射する。弓なりの網を持つた人はもう遥かに「ウタレ」を走りつゝ小さくなつて居る。其先には平潟の入江の口から遥かに遠く横はつて見える小名浜あたり一帯の土地が手を出したやうに突出して居る。私は磯を伝うて尚ほ進んだ。だん/\行くと「ウタレ」に近く大きな棚があつた。それが此の空闊な浜にたつた一つぽつりと立つて居る。以前塩をとつたことがあつたと見えて棚には麁朶が載せてある。此の浜を往来する人が盗むこともないと見えて麁朶はそつくりとしてあるやうに見える。雀が棚に聚つて騒がしく囀つて居る。雀がどうしてこんな所に鳴いて居るのであらうか、雀は蛇が乾いた砂を渡らぬことを知つてさうして此の棚に其子を育てやうと云ふのであらうか。雀は便利な人の檐端を恐ろしい蛇の為めに追はれたのである。それにしてもどうして此の棚が棄て去られたのであらうか。恐らく失敗のなごりであらう。私は砂を攫んで投げて見た。雀は一斉にばあと飛んで松原を越えて行つた。此の空闊な浜を控へて後には一帯の松原が濃い緑を染めて居る。日がいつかぼんやりとなつて薄い雲を透して見えながら雨がはら/\と落ちて来た。私はざくり/\と踏み止りのない砂の上を松原へ駈け込んだ。さうして私は松の根方に一人の女の俯伏して居るのを見て喫驚した。只凝然として見て居たが服装もしやんとしたどうも見たことがあると思つたら慥に私の隣座敷の客であつた。女はどうしてこんな所に来たものであつたかと狐につままれたやうに思つた。女は大儀相である。私はそれを見棄て去ることが出来なかつた。
「どうかしましたか」
と私は聞いた。暫くたつて女は私の声を聞いて顔をあげた。いつもより蒼白い女も、喫驚したやうであるがそれでもしをらしく落付いて居つた。
「いゝえ、どうも致しませんが、少し……」
と云ひ淀んで居る。
「それでもどうかなすつたんでせう」
私は下手な聞き様をしたものである。
「少し気分が悪るうございまして」
女はいつものやうに低い声である。
「脳貧血でも起したんぢやないか」
私は独でかう呟いた。
「胸が少しいけませんでしたが、もう落付きました」
「どうです少し背中でも叩きませうか」
「いゝえもう決して」
女はかういつてそつと首を擡げた。どうしたものか女の眼は涙でうるんで居る。女が固辞するので私は只立つて見て居た。私は女が更にひどく悶えて居ても実際は女の体へ手を触れることが出来ないで只はら/\して居たかも知れぬ。私は此の女にひどく恐怖心を持つて居たからである。女は起ちあがつた。単衣の砂を叩いて前を合せた。さうしてほつれた髪を両手で掻き上げた。雨はいつか晴れて居た。雨の粒ははら/\と乾いた砂の上にまぶれて畢つた位に過ぎなかつた。あたりにはみやこ草の花が砂にひつゝいて黄色にさいて居る。こぼれ松葉がみやこ草にもぱらりと散つて居る。女は立つて蝙蝠傘を杖づいて歩き出した。私も無言の儘女の先に立つて歩いた。私は漸く小径を求めて松原から街道へ出た。小径の雑草が衣物の裾にさはる。月見草が私等二人を見て居るやうにところ/″\雑草の中から首を擡げて居た。私は車夫が空車を曳いて来るのがあつたら女を乗せて帰さうと思つたが街道の途中に車はなかつた。少し行くうちに幸藁屋の小さな茶店があつたので私はそこへ女を休ませた。私は茶店の婆さんから清心丹を貰つて女へやつた。暫くたつ内に女の顔色も恢復して来た。私は婆さんへ少しばかりの心づけをして茶店を立つた。女は有繋に帯の間から銭入を出したのであつたが私は無理にもどさせた。やつとのことで勿来の停車場へついた。上りの列車を待つ間私は態と女と離れて居た。女も凝然と腰挂けた儘いつまでも俯伏して居た。列車の窓から見ると日は青草の茂つた丘のあなたに隠れて其光を沖一杯に投げて居る。海の水は深い碧である。沖の小さい白帆が目に眩きばかり夕日の光を反射して居る。列車に乗つたかと思つたらもう関本の停車場である。私は人力車を呼んで女を乗せた。此の時女はもう余程恢復して居た。私は女の後から徒歩で急いだ。女の車が田甫を遥かに越えて丘の間に隠れるまで私は速い歩調を止めなかつた。
八
次の日女は一日座敷を出なかつた。尤も朝の内私の座敷の外へ来て昨日の義理を述べた。白地の絣の上に帯はきりゝと締めて居た。大抵の女はかういふ場合には笑顔を作つて挨拶をするのであるが、女はいつものやうに沈んで居る。もとより慌てた態度はなくしつとりと落付いて居る。私は却て此の女に対して心がおづ/\として居た。さうして私は別に何にもいはなかつた。何とか女に重い口を開かせるだけのことが出来たのだと後には思はれるのであるが其時は只堅くなつて居た。其日散歩に出て見た時浜で搗布《かちめ》を焼いて居る煙が重相に靡いて居た。穢い漁師の女房等は海から搗布を刈つて来てはぶつ/\と火で焼く。其灰が沃度の原料である。空の模様が幾らか変になつたやうに思はれた。夜に成つたら入江のうちには船が一杯に詰つた。宵の口どの船からも小さな松明の火がともされた。舳に立つた漁師が手に翳してぐる/\と廻転させてやがて其火を水に投じた。其夜は闇かつた。空には幾らか雲が飛ぶやうに見えた。沖は「シケ」であるといつていつもよりどう/\と騒がしい響をおくつて来る。入江の口に打ちつける波が只白く見えた。私はランプの下にごろりと成つた儘大地の底からゆすつて鳴る様な濤の響を聞いて居た。ふと表にがや/\と人声がしてやがて遠くなつて畢ふのを聞いた。帳場へおりて見ると主人は居なかつた。何でも難船があつたといふのである。店先を人が忙しく走せ違つて居る。どこがどうして居るのか私にはちつとも分らなかつた。暫く店先を出て立つて居ると港の磯にどつと篝が燃えあがつた。然し篝は其光の及ぶ範囲内に動いて居る人々を明かに見せる丈で一向にあてどもない。篝に近く行つて見た時船が一艘おろされるやうであつた。私は漁師町の方へ駈けて行つて見た。行き止りが闇くなつて居るばかりでそこには何の容子もない。引つ返して駈けて来ると提灯が洞門の方へ向つて走せる。洞門からも提灯が走つて来る。提灯と提灯と何か罵るやうにいつて走せ違つた。私も洞門に向つて進んだ。下駄の音が洞門の内側に響いてこん/\と鳴るのを聞いた。九面の漁村へ出た。白い波が窮屈な入江の口から押し込んで来るのが見えた。がや/\と人声が騒がしい。ほつかりと火の光が空へぬけて居る。私は凸凹の道を曲折しつゝ漁師の家の間を過ぎて行つた。闇のなかに人とぶつからうとする。行つて見ると庭に篝が焚いてあつて人が一杯に其火を取り捲いてがや/\と騒いで居る。人越しに見ると裸になつて居る四五人が筵の上に腰をおろして慄へ乍ら焚火に手を翳して居る。難破船の漁師が此所へ救はれたのだといつた。其なかに十三四の男の子が交つて居る。焚火に手を翳しながら哀れな顔をして周囲の人だかりを見まはして居る。他の漁師共はさまで驚いた容子もない。皆茜の褌をしめて居る。私は意外に感じた。私の側に立つて居る漁師の女房らしい女が噺をして居る。土地に特有な荒い言葉で罵るやうに語つて居る。私もそこへ口を出して聞いて見た。これは小名浜から今朝船を出した漁師であつた。平潟の港にはひらうとしたのであつたが夕方から波が荒かつたしそれに闇かつたので遂船底が暗礁へさはつた。船は暗礁へ障つたらもうすぐにばら/\に成つて畢ふ。漁師はそれでも皆板子を持つて波に突きのめされつゝ泳いだ。一人やつと上陸したので此村からも救ひの船が出た。声をたよつて救ひ上げた。皆救はれたが只一人見えぬ。十三四の子でさへ命を拾つたのに其漁師はどうしても此処へ上陸せぬ。平潟へも上陸せぬといふ。波を避け損つて深く捲き込まれたものであるかも知れぬ。其漁師は此の子の父であつた。救はれた時少年は口が聞けなかつた。庭へ焚火をして漸く温めてやつた時彼は頻りに其父のことばかり聞いて居たといふのであつた。焚火には薪が投げられた。焔がばつと燃えあがる。ぼう/\と音をたてゝ燃えあがる。焔の光は周囲に人が描いて居る丸い輪の内側を明かに照して居る。人々の顔が赤く恐ろしげである。私は後に居てさへ顔の熱いのを感じた。私が戻つて来た時平潟の篝は既になくなつて只どう/\と濤の響を聞くのみであつた。主人はまだ帰らぬと見えて宿の帳場も寂しかつた。
座敷へもどつた時女は一枚細目にあけた雨戸の隙間から暗い入江を見て居る所であつた。女は私を振り向いて今夜の模様を聞いた。女はこれまで私と口を聞いたことが一度しかないのであつた。私は其時女に近づいた。さうして悉皆私の見たことを語つた。閾に近いランプの光が浴衣姿の女を美しく見せた。今夜も女はきりゝと帯を締めて居た。
「可哀想な人もあるものでございますね」
女はいつた。女の※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた目には涙の漲るのを見た。さうして女は暫く横を向いてしまつた儘であつた。難破船の噺ばかりでそんなに悲しくなる筈はないと私は不審に思はれた。私は立つて雨戸の隙間から外を見た。一杯につまつた松魚船が暗の底にぼんやりと眠つて居る外何にも目に入るものがない。私は気がついて自分の座敷へもどらうとした時ふと女の座敷を見た。蒲団の上に枕の倒れて居るのが
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