けれども私のこんな浅猿しいことを聴いた。私はそれでもう決しておいよさんと関係はせぬといふことを母へ誓つた。母は窃においよさんの家へ行つておいよさんを喚び寄せることにした。おいよさんは風邪を引いたといつて臥せつて居たけれど別に変つたことはなかつたと母はいつた。私はそれを聞いて胸を痛めた。さうして更に安心した。おいよさんと私との間はまた以前に戻つてしまつた。それを私の母は疑はない。母は私にのみは尊い盲目であつた。私は情を通じて居たけれども私の理性の強い抑制は以前よりも冷静な関係を持続させたのである。私はもとからおいよさんに執着しては居なかつた。人目の蔭でおいよさんの目を見る時は私の心は変になるのであつたが、私はどこまでも隠匿しようといふ念慮が強く働いて居た。二人は到底別れねばならぬ筈に極つて居るのだから、愈別れとなつた時は決して私に思を残してはならぬといふことまで数次おいよさんに断つて置いたのである。さういふ口の下から私は其関係を続けて居たのである。此が凡人の浅猿しさである。
 櫟林にも春の光が射し透すやうになつた。私はおいよさんを返す気になつた。私の情が冷かであつたから随つておいよさんにも余所々々しいところが出て来た。さうすればまた私の心にはおいよさんに不快な所が見えて来る。我儘に育つたと思ふやうな所も明かに分かるやうになつたのである。母は後の憂のないやうと窃に貯へて置いた手切の金を私に渡した。私の母は何処までも知らぬ分で其金も私の苦心から出たことにした。別れ噺も私から持ち出した。一ケ月たつうちにおいよさんも其積りになつた。私の家へ来てからおいよさんには衣物が殖えた。いよ/\帰ることになると衣物を包む風呂敷もない。私は他出した時萌黄の木綿を一反買つて来てやつた。おいよさんは一心にそれを縫つた。大きな包がおいよさんの部屋に置かれた。噺がすつかり極つて畢ふと何となく又心が惹かされた。無理に逐ひやるのが気の毒のやうにもあつたのである。私はおいよさんの部屋に忍ぶことを抑制し得なかつた。加之私は手切のことでまだ噺があるからと母を欺いて遠慮もなくおいよさんの部屋へ行つた。其頃おいよさんは加減が悪いからといつては部屋に籠つて居た。私の母は有繋に気が揉めるのだらうといつた。最終の日が来た。雨の降る日であつた。おいよさんはしをらしく母へ挨拶した。母も叮嚀に時儀をした。私は側にそれを見て居た。車の幌を挂けて出たので村の人々には私の村を離れて行くおいよさんの姿は見られなかつた。おいよさんとはそれつ切り逢つたことがない。然しおいよさんの噺はまだ少し残つて居る。其後おいよさんから手紙が来た。封筒には私の友人の名が書いてある。私は心もとなく封を切つて見た。又懐胎したやうに思はれる。先のは幸にこつそりと始末した。此度はもう引き続き身体が悪いので危険なことを冒すことは出来ぬ。それにしても今一度相談がしたいから、こつちへ来て逢つてくれと媾曳の場所まで書いてあつた。私も困却して畢つた。逢つてやらねばなるまいかと思つたが、何だか闇い深い穴へでもはひるやうな気がして恐怖心が私を躊躇させた。手紙がまた来た。一旦手は切つたけれど、其時はかういふ体になつて居ようとは思はなかつた。それをすげなく扱ふのは無情だといつて散々に怨んだ手紙である。私も思案のしようがないので母へ打ち明けた。母も非常に心配した。深い溜息をついた。私は母の容子を見るのがつらかつた。母は幾度も手紙へ目を通した。然しまだ考へやうもある。此の手紙には一旦手を切つたと書いてある。此も後の証拠に保存して置かねばならぬ。それからあれの母といふのが尋常ではないらしいし、又どんな奴が智恵を貸さぬものでもない。能く容子を探つてからにしなければならぬ。それにしても家に居ない方が却ていゝかも知れぬ。何処かの海岸へでも行つて保養かた/″\暫く居て来たがいゝと私の母はいふのであつた。私はそれから常陸の平潟の港へ身を避けた。私はそこで又一人の女を見た。

     六

 其頃は時候も梅雨期の終に属して居たので世間が鬱陶しかつた。障子の紙がゆるんで雨がしと/\と降つて居た。転地した二三日はひどく落付かなかつた。それでも変つた土地の状況がだん/\私を紛らせた。平坦な土地のみを見て居た私にはすべてが目を惹いた。海岸は皆一帯の丘阜である。其丘阜を丸鑿で刳りとつたやうな小さな入江が穿たれてある。入江に添うて港の人家が建てられてあるのである。人工を加へた一筋の街道が此港と丘の後の村々との間を僅に継いで居る。港の町の大部分は其窮屈な海岸から遁げ出したやうに延び出して其街道を挟んで居る。宿は此小さな入江を一目にした三階建であつた。私の案内されたのは二階の中の間である。座敷の障子を開けておけば雨の入江が勾欄から見える。然し小さな入江は窮屈に見えた。入江を抱へた丘の一端は拳のやうに一段高い。其処に立つて居る一簇の老松の梢には夕方になれば鴉が四方から聚つて鬱陶しい雨に打たれながら騒ぐ。梢に棲みつくまでは飛び交し/\騒いで居る。二三日の間は此の鴉の騒ぎが私の心を引き立てた位であつた。一日空の模様がよくなり挂けたので私はすぐに散歩に出た。入江の岸を伝うて臭い漁師町を越して丘の間を小径の導くまゝに行つた。小径は貝殻の白く散らばつた畑の間の窪みである。ぽつ/\と穴が明いたやうに空には青い所が見えて来た。丘の間からところ/″\行手に青い煙の立つて居るのが見える。其煙は空へ明いた穴に吸はれるやうに真直に立ち騰つて行く。空の穴は心持よくずん/\と拡がつて行く。煙がすぐ近くに見えて小径がめぐつたと思つたら丘の上へ出た。畑がひろ/″\と見渡される。目の前には穢い衣物を着た女が其火を燃やして居るのを見た。それは麦の束であつた。穂先へ火のついた麦束を片手に翳して燃やしながら、片手に別の束をとつて其燃やして居る穂先から火を移す。めろ/\と燃えはじめたかと思ふと焦げた麦の穂がぼろ/\と落ちる。短くなつた燃えさしの麦束はぽつと傍へ投げ棄てる。そこにも煙はうすく立つ。女は燃やしては棄て/\非常に忙しげに手を動かして居る。私はふと燃えさしの麦束の散らばつたあたりに地にひつゝいて白い花の簇がつて居るのを見た。それは野茨の花であつた。軟かな長い枝がつやゝかな緑の葉をつけてすつと偃ひ出して居る。燃えさしの火が白い花を焦して居た。高低のある丘にはそこにもこゝにも麦を焼く煙が穏かな空気に浮んで行く。畑の女はたま/\の晴を見定めて麦の仕納をして畢はうといふのらしい。私はかういふ農事の仕方を此時はじめて見た。私は珍らしさに暫く立つて見て居た。空は一杯に晴れた。有繋に日は暑く照つて来た。私は爽快な丘の上を歩いた。海が丘の先に見え出した。海は一足毎に前に拡がつて来る。蟠屈した松が断崖に臨んで居る。私は好奇心から松の枝を攀ぢて見た。瞰おろすと波は唯白い泡である。岸に立つて見る波は大きいのも小さいのも必ず立ちあがつて来る。瞰おろす波は唯白い泡がざわ/\と動いて四方へ拡がるのみである。私は暫く其綺麗な白い泡の変化を見て居た。遠くを見ると褐色の断崖が連つて沖に相対して居る。打ちつける波が描く白い一線が水陸を画して居る。そこを去る時私はふと枝の間から近くに船の泛いてるのを見た。麦を焼いてる女に聞いて見たらそれは松魚船だといつた。こんな所で松魚が釣れるのかといつたら、そこでは松魚を釣る餌にする鰯を網ですくつて居るのだといつた。此から松魚が運ばれるのだと私は心に勇んだ。浜はこれまで不漁であつた。私は此の日はすべてが快かつた。さうしてもう帰らうと思つて見ると一段低い畑に婀娜な女が立つて居た。此の女が沖を遠く見て居たのである。私が小径へおりた時女も畑からおりて来た。私は此の女が私の隣座敷の客であつたことに気がついた。さうして女がどうしてこんな所へ来たものかと不審に思つた。だが私が窮屈な宿の座敷を出て散歩したことの愉快であつたことを思つた時その不審は晴れた。女も退屈まぎれに出たのだらうと思つた。女は私に近よつた時急に両手の袖を重ねて胸を掩うた。さうして余所を向いた。私は其日から隣座敷に心をおいて見るやうになつた。私の座敷は前にもいつたやうに二階の中の間で女の座敷は突き止りであつた。襖一枚が二つの座敷を隔てゝ居る。私は宿へついた時から隣座敷に女の客があることを知つて居た。只婀娜な女だと思つて居た。丘の畑で逢つてから急に私の注意が促されたのである。
 其次の日から空がまた六かしくなつた。私は湿つぽい室にばかり籠つて居た。身体がだるくなつて半日位うと/\と横になつて居ることもあつた。隣座敷の女も滅多に障子の外へさへ出ない。それでふつゝりと音沙汰もない。大方此も臥せつて居るのだらうと思はれるが私には女の座敷を覗く機会がない。一つの柱が両方の座敷を境してどちらの障子も其柱に建てつけてある。私は其柱から先へ理由もないのに一歩でも越えることは出来ない。越えて行つて見たとしても隣の座敷はひつそりと障子が閉てゝあるのであつた。それでも女が二階をおりて用達しに行くのには私の座敷の前を通らねばならぬ。其の時女は屹度袖で胸を掩うて居る。隣の障子がそつと開いた時いつでも私は目を欹てる。どうかすると女は障子を開けた儘私の座敷の前を通らぬことがある。私が障子の外へ出て見ると勾欄に両手をついて入江を見て居たのが障子をはたと締めて引つ込んで畢ふ。其時でも屹度衣物で胸を掩ふのである。散歩から帰つて見ると女は帳場の脇で新聞紙を見て居ることがある。女は隣座敷に只一人である。女一人で居るといふことがどうも私の腑に落ちぬ所であつた。さうかといつて女は決して厭らしい点はなくしをらしい容子であつた。或日隣の座敷では何かさら/\と巻紙でも巻いて居るやうな音が微かに聞えた。やがてばちりと筆を擱く音がしてそれからかたりと硯箱の蓋を落す音がした。ひつそりとした隣の座敷からは茶碗へ湯を汲む音さへはつきりと私の耳に響くのであつた。私の懐疑心は隣の座敷に対して神経を鋭敏にして居たのであつた。やがて女は一封の手紙らしいものを持つて、衣物で胸を掩ひながら私の座敷の前を通つて二階をおりて行つた。二三日たつてから私は少しの雨間を見て散歩に出た。復た此の間の畑へ行つて見た。青い煙も立つて居らなければ百姓の女も見えぬ。燃やして棄てた麦束は此の間の儘ぐつしよりと湿つて居る。僅かの間に白い野茨の花もなくなつた。懶げな海と相接して空がどんよりと低く垂れて居る。私は寂しさに堪へなかつた。宿へもどつたのは正午少し過ぎであつた。隣の座敷には草履が二足脱いであつてひそ/\と噺をして居るのが聞えた。私が自分の座敷の障子を開けてはひつた時噺は少し途切れたやうであつた。軈て又以前よりもひそ/\と語りはじめたやうである。女中が私へ昼餐を持つて来た時、隣の障子が開いて女は一人のお婆さんと階子段をおりて行つた。お婆さんは私の座敷をちらりと見て会釈して行つた。田舎の人としては品のいゝ怜悧相な人であつた。髪は油が乗つて居たが半分程は白いやうであつた。私はあのお婆さんは今日はじめて来た客かと女中に聞いて見た。女中はもう二三度来たことがあるので、隣の女もあのお婆さんが連れて来たのである。女はもう三週間ばかり隣の座敷に居るのである。さうしてお婆さんが来るといつでも此所の主人とお婆さんとで頻りに相談をして居るのだといつた。まだ海水浴といふ時節でもないから客も少ない此の港の宿に保養であるとしてもあの女は不思議である。私は箸をとりながら尚女中に聞いて見た。唯手持無沙汰にして聞くよりもかうして膳に向いて聞くのは私には張合があつた。
「私もよくは知りませんがね、あの方はお気の毒なんですと」
 女中は丸盆を膝に立てゝかういつた。
「お前知つてるかいそれを」
 私は聞かないわけには行かなかつた。
「本当はね、私知らないんですがね、さういふこといつてますんですよ」
「誰がいつてるんだい」
「此所の且那さんが他人でないんですつて、旦那さんがねあのお婆さんと噺しちや困つたなんていつていますよ、それだけですよ」
 私は土瓶から注いだ
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