ての襖へ耳をつけ聞いても聞きとれぬ程女は静にものいふのである。私はいつでもぢれつたい心持になるのであつた。番頭は威勢よくものをいふ。蔭で聞いて居ても女の気を引き立てゝやらうといふのらしかつた。
「先頃こゝへ鯨があがりましてね。それが鯱に攻められたんですがね、此時は大騒ぎでした」
 女中は私の座敷の前で柱へつかまりながら勾欄へ腰を挂けた。
「港の船は残らず出払ひです。この沖で見つけたんですから私も乗つて行つて見ました、が其時は鯨はまだ死にきりませんでした。鯨といふ奴はあれでみじめなもので何も防ぎ道具といふ物がないんですから、鯱に攻められた日にやどうすることも出来ないんですね。只まあ遁げる丈けなんですね。鯱の方は何百匹だか分りやしません。斯う背中に角のやうな鰭があるんですがそいつを水の上に出して一杯に鯨を取巻いて居るんです。あれを見ちや鯱もなか/\大きなもんです。鯱鉾とは丸つきり違ひまさあね。其内に潜水器をかぶつてむぐつて見た奴があるんですが、鯱はみんな鯨の頭の方へばかり聚つて居て鯨の肉を食ひ取るんだ相です。それで尻尾の方へは決して行かないんですからね。尻尾で一つ弾かれたら何でもまた堪りま
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