交渉もない。私は此の植物に同化されたといつていゝのであらうか、私の一身は極めて櫟林の生態に似て居る処がある。さう自覚した時私は櫟林が懐かしくなつた。随つて櫟林に向つていつも注目を怠らない。春雨が浸み透つた梢の赭い葉が、頭を擡げ出した麦の青さと相映じて居るのに見惚れることすらあるのである。然しこんな下等な樹木を好んで居るといふものは恐らく他にはないであらう。
私は櫟林が春と交渉がないといつた。然しながら長い春の間には櫟も他の樹木の如く皮と幹との間から水分を吸収する生理作用を怠らない。私の一身も春といふ期間に於て索莫たる境涯に在つたのである。それでも櫟が窃に水分を吸収して居るやうに、私にも亦隠れた果敢ない事柄がある。私がはじめて此の世の空気を吸うて泣いた声は私の家では四十八年目に聞かれた声であつた。其時母の乳が乏しかつたので普通ならば「さと子」といつて他の家へ託される筈なのであるが、私の為めには特に乳母が抱へられた。どういふものか私の家へ来る乳母の乳が止つて畢つたので前後十一人の乳母が交代された。其頃はそんなことの出来る程私の家には余裕があつたのである。十一人目の乳母が虚弱な私を育てた。
前へ
次へ
全66ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング