ちらりと見えた。私は此の宿へ来てから一度も女の座敷を覗いたことがなかつたのである。私は何となく心に不安を感じた。夜中にうと/\として居ると一しきりどこともなく人声が騒がしく聞えたやうに思つたが私はそれつきり眠つて畢つた。
 明くる朝起きて見ると空は拭つたやうに晴れて居た。港の松魚船はもう一艘も居ない。みんな夜中に漕ぎ出したと見える。がや/\と遠く私の耳にはひつたのは其時の騒ぎであつた。私は洞門をくゞつて又九面まで行つて見た。今朝はもうひつそりとして只干したコマセの臭ひが鼻を衝くばかりであつた。波もさら/\とゆるやかである。散歩からもどつて来ると隣の座敷には客が一人殖えたやうである。聞いたやうな女の声で威勢よく語つては時々笑声も交る。女の声といふのは此の間のお婆さんであつた。女が階子段をおりて行つた時お婆さんは私の座敷の方へ来て
「先日はどうもまあ、あれが飛んだ御厄介になりました相でございまして、どうもねえあなた独りでそんな所迄本当に私もびつくり致しましたよ。どうかするとまあそんな事を致すんでございますから」
 お婆さんはかういつて
「あのお立て換へがあります相ですが」
 と帯の間から巾着を出さうとする。
「いゝえ決してそんなこと、そりやいけません」
 私は無理に押し留めた。
「それぢやどうも相済みませんでございますね」
 お婆さんはすぐに
「ですがね、あれも漸く片がつきましてね」
 と分らぬことをいうて独で悦んで居るやうである。これまでとは違つてそわ/\して居る。女は階子段を昇つて来た。気がついて見ると今日はきりつと晴衣に着換へて居る。髪にも櫛の目が通されてある。
「車はもう来たかい」
 お婆さんは聞いた。
「まだのやうでございますが」
 低い声であるがはつきりと女はいつた。がら/\と表に空車の音がして女中はやがて知らせに来た。
「それではどうもなが/\御厄介になりましたが……」
 お婆さんは私へ挨拶をする。女も後から挨拶する。女は衣物を着換へたせゐか何となくはき/\していつもより美しく見えた。私が店まで送らうとするとお婆さんはたつてとめる。私は態と遠慮して勾欄に近く立つて居た。翳した二つの蝙蝠傘が軒の下から現れて忽ち他の軒へ隠れて畢つた。私は隣の座敷を覗いて見た。火鉢も茶器もちやんと隅にくつゝけてあつて只からりとして居る。番頭はすぐに塵払と箒とを持つて来て隣の座敷を掃除した。
「旦那、こちらはゆるつとして居ますからこちらのお座敷になすつたらどうでござんす。此からもう海水浴のお客さんがそろ/\参りますから、今のうちいゝ座敷をおとんなすつた方がようござんすぜ」
 と番頭は注意してくれた。然し私はそこへ移る気にはなれなかつた。私は女に対して非常に遠慮して居た。座敷にも私は遠慮がない訳には行かなかつた。ひつそりとして居るので隣の座敷は却てまだ女が居るやうな心持がしてならぬ。私は其夜もひどく寂しい隣の座敷を控へてつく/″\と思案した。お婆さんは女の身は片がついたといつて悦んで居た。恐らくもう心配がなくなつたのであらう。女がはき/\として見えたのも其為めではあるまいか。それにしてもおいよさんの方は母がどう運びをつけて居るのであらうか少しも分らないのである。隣の座敷の女に逢つてから私はひどく心が弱くなつておいよさんに対する心配も増して来た。私が遥々此の港まで身を避けて居るのに女は私に苦悶させようとして待つて居たものゝやうであつた。私には他の理由は少しも分らないのに只片がついたといつて悦んで見せて行つて畢つた。私はどこかへ打棄つてしまはれたやうな心持になつた。私は怏々として居た。一日間を隔てゝ母から手紙が届いた。私は心もとなく封を切つた。手紙にはかうあつた。あのことは窃に極りをつけた。帰つて来ても誰に義理をいふ必要もない。只知らぬ顔をして居ればいゝのである。帰りたければ帰るがいゝ、逗留して居たければいつまでゝも居るがいゝといふのであつた。私は此の時つく/″\母の慈愛といふことを感じた。私はすぐに宿を立つことに決心した。其日のうちに上りの列車に乗つたのである。隣の座敷にはまだあとの客は這入らなかつた。
 其後おいよさんはどうなつたか知らぬ。私が帰つた時母は私に何も知らないで居れといつた。私は母に強ひて聞く勇気もなかつた。それでも一年許りの間はおいよさんから何とか六かしいことでもいつて来やしないかと懸念がないではなかつた。私はずつと後になつてふと村の内外に当時おいよさんとの噂が立つて居たことを聞いた。実際あつたことでなければ其噂はいつか消滅して畢ふから後になれば分るといふことを人が一般にいつて居る。私の陋劣な手段は私の噂を葬つてしまつた。さうして今では村の内外に私を疑つて居るものがなくなつた。私はおいよさんとの間の行為を罪悪だと知つて居る。然し
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