女はいつものやうに沈んで居る。もとより慌てた態度はなくしつとりと落付いて居る。私は却て此の女に対して心がおづ/\として居た。さうして私は別に何にもいはなかつた。何とか女に重い口を開かせるだけのことが出来たのだと後には思はれるのであるが其時は只堅くなつて居た。其日散歩に出て見た時浜で搗布《かちめ》を焼いて居る煙が重相に靡いて居た。穢い漁師の女房等は海から搗布を刈つて来てはぶつ/\と火で焼く。其灰が沃度の原料である。空の模様が幾らか変になつたやうに思はれた。夜に成つたら入江のうちには船が一杯に詰つた。宵の口どの船からも小さな松明の火がともされた。舳に立つた漁師が手に翳してぐる/\と廻転させてやがて其火を水に投じた。其夜は闇かつた。空には幾らか雲が飛ぶやうに見えた。沖は「シケ」であるといつていつもよりどう/\と騒がしい響をおくつて来る。入江の口に打ちつける波が只白く見えた。私はランプの下にごろりと成つた儘大地の底からゆすつて鳴る様な濤の響を聞いて居た。ふと表にがや/\と人声がしてやがて遠くなつて畢ふのを聞いた。帳場へおりて見ると主人は居なかつた。何でも難船があつたといふのである。店先を人が忙しく走せ違つて居る。どこがどうして居るのか私にはちつとも分らなかつた。暫く店先を出て立つて居ると港の磯にどつと篝が燃えあがつた。然し篝は其光の及ぶ範囲内に動いて居る人々を明かに見せる丈で一向にあてどもない。篝に近く行つて見た時船が一艘おろされるやうであつた。私は漁師町の方へ駈けて行つて見た。行き止りが闇くなつて居るばかりでそこには何の容子もない。引つ返して駈けて来ると提灯が洞門の方へ向つて走せる。洞門からも提灯が走つて来る。提灯と提灯と何か罵るやうにいつて走せ違つた。私も洞門に向つて進んだ。下駄の音が洞門の内側に響いてこん/\と鳴るのを聞いた。九面の漁村へ出た。白い波が窮屈な入江の口から押し込んで来るのが見えた。がや/\と人声が騒がしい。ほつかりと火の光が空へぬけて居る。私は凸凹の道を曲折しつゝ漁師の家の間を過ぎて行つた。闇のなかに人とぶつからうとする。行つて見ると庭に篝が焚いてあつて人が一杯に其火を取り捲いてがや/\と騒いで居る。人越しに見ると裸になつて居る四五人が筵の上に腰をおろして慄へ乍ら焚火に手を翳して居る。難破船の漁師が此所へ救はれたのだといつた。其なかに十三四の男の子が交つて居る。焚火に手を翳しながら哀れな顔をして周囲の人だかりを見まはして居る。他の漁師共はさまで驚いた容子もない。皆茜の褌をしめて居る。私は意外に感じた。私の側に立つて居る漁師の女房らしい女が噺をして居る。土地に特有な荒い言葉で罵るやうに語つて居る。私もそこへ口を出して聞いて見た。これは小名浜から今朝船を出した漁師であつた。平潟の港にはひらうとしたのであつたが夕方から波が荒かつたしそれに闇かつたので遂船底が暗礁へさはつた。船は暗礁へ障つたらもうすぐにばら/\に成つて畢ふ。漁師はそれでも皆板子を持つて波に突きのめされつゝ泳いだ。一人やつと上陸したので此村からも救ひの船が出た。声をたよつて救ひ上げた。皆救はれたが只一人見えぬ。十三四の子でさへ命を拾つたのに其漁師はどうしても此処へ上陸せぬ。平潟へも上陸せぬといふ。波を避け損つて深く捲き込まれたものであるかも知れぬ。其漁師は此の子の父であつた。救はれた時少年は口が聞けなかつた。庭へ焚火をして漸く温めてやつた時彼は頻りに其父のことばかり聞いて居たといふのであつた。焚火には薪が投げられた。焔がばつと燃えあがる。ぼう/\と音をたてゝ燃えあがる。焔の光は周囲に人が描いて居る丸い輪の内側を明かに照して居る。人々の顔が赤く恐ろしげである。私は後に居てさへ顔の熱いのを感じた。私が戻つて来た時平潟の篝は既になくなつて只どう/\と濤の響を聞くのみであつた。主人はまだ帰らぬと見えて宿の帳場も寂しかつた。
 座敷へもどつた時女は一枚細目にあけた雨戸の隙間から暗い入江を見て居る所であつた。女は私を振り向いて今夜の模様を聞いた。女はこれまで私と口を聞いたことが一度しかないのであつた。私は其時女に近づいた。さうして悉皆私の見たことを語つた。閾に近いランプの光が浴衣姿の女を美しく見せた。今夜も女はきりゝと帯を締めて居た。
「可哀想な人もあるものでございますね」
 女はいつた。女の※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた目には涙の漲るのを見た。さうして女は暫く横を向いてしまつた儘であつた。難破船の噺ばかりでそんなに悲しくなる筈はないと私は不審に思はれた。私は立つて雨戸の隙間から外を見た。一杯につまつた松魚船が暗の底にぼんやりと眠つて居る外何にも目に入るものがない。私は気がついて自分の座敷へもどらうとした時ふと女の座敷を見た。蒲団の上に枕の倒れて居るのが
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