例の如く針仕事に挂つた。おいよさんの態度は私にはちつとも変つて居るやうに見えなかつた。私も二三日して体の工合か心持がせい/\として来た。さうしてそれから私等二人は屡人目を忍ぶやうになつたのである。数月は経過した。其間おいよさんは私にさへ能くかう平気で居られると思はれる程素振には出さなかつた。後になつて見ると私も随分匿情といふことではおいよさんに劣らなかつたと思はれる。世間に隠さうといふ念慮が私の心に強かつたからである。私は其間どういふものかおいよさんに対して熱烈な情を燃やしては居なかつた。唯おいよさんを遠ざけることは私に悲しかつた。長い月日の間には各欠点が分つて来る。心の遠慮のとれた間柄になつてからはおいよさんに我儘な所もあつた。窮迫した家庭に成長したからだと思はれるだけ野卑な処もあつた。私はすべてを心に承知して居て厭にもならずに関係を続けて居たのである。一種の惰性であつたといはねばならぬ。
五
おいよさんの父なる教師の身には必然の運命が来た。其職を罷められたのである。憐むべき教師は自分の妻の郷里に身を落ち付けるといふことになつた。私の母へはくれ/″\もおいよさんを頼んだ。おいよさんの一身は私の家でどんなにしても処理してくれるやうにといふのであつた。其後もおいよさんは別段変つたこともなく私の家に在つた。季節はだん/\寒くなつた。葉鶏頭も其他の秋草も霜でぐつたりとして畢つた。落葉が喬木の梢から飛んでどこの庭にも散らばつた。干藁や籾の筵にも夕日の射す頃には小さな欅の葉が軽く転がつて居る。落葉が大抵掃き竭されて秋草は刈り去られて冬らしくなつた庭が蒼い空のもとにからりとして来た。世間は改まつた。おいよさんは自分の家から持つて来た古い綿入羽織を引つ挂けて居た。私の母から与へられた唐桟の袷の上へ其古ぼけた羽織を着るのは不恰好で又憐れげであつた。私の母はまた羽織の材料を見つけてやつた。それが仕立て上げられた時おいよさんの容子がきりゝとなつた。櫟林には到る処藁が吊された。此は落葉を猥りに採るなといふ印である。萵雀《あをじ》が其乾いた落葉を軽く踏んで冬は村へ行き渡つた。おいよさんと私との間には人知れず苦悩が起つた。おいよさんの身体の工合が変に成つたといふのである。半信半疑のうちに一ケ月待つて見た。どうしても懐胎したらしいとおいよさんも心配な顔をして私に語つた。私も自分の身の破綻であるやうに思はれて窃に其処分を考究した。おいよさんは時々朝から臥せることがある。私は心配になるからだらうと思つてそつと枕元に行つて見るとおいよさんは其一塊肉のために私に訴へるのであつた。さうしてかうなるのもあなたが悪いのだと私を責めることもあつた。けれどもおいよさんの臥せつて居ることは例の加減が悪いからだらうと人は思つて居るのだからそんな疑を抱かれることはないと私は思つて居た。私はそれとはなしにそこらで懐胎した女の思ひ切つた身の処分法を聞いた。其度毎に私はおいよさんに告げて其ぢつと目を据ゑて身にしみた聞きやうをするのを見た。一ケ月はまた経過した。けれどもおいよさんの体は常態には復さなかつた。其内に田舎の正月が近づいて来た。おいよさんは正月になつたら母の郷里へ行つて来たいといつた。おいよさんは或日人の居らぬ処で私に銭をくれといつた。それは小遣としては少し多過ぎた請求であつたが、衣服一枚拵へたいのだといふのを聞いてそれにしては余りに少ないのではないかと思つた。私はせがまれては快くはなかつた。然し物蔭に立つてぢつとおいよさんの目を見る時は変な心持になつて畢ふので私は此の請求もすぐに容れたのであつた。おいよさんは近いといつても河を渡つて行かなければならぬ或町へ反物を買ひに行つ[#底本では「っ」]た。私はおいよさんが行くことに就いて苦心した。さうして口実を授けた。私にもずるい考が起るのであつた。おいよさんの妹で看護婦に成つて居るのがあつてそれが遠くへ行つて居る。其妹から数日前に封状が届いて居る。それで其中に封じてあつた為替を取りに行くのだと私の母へはいつて行けとかう教へたのであつた。おいよさんの反物は柄は絣であつたが翳せば先が見え透くやうな安物であつた。おいよさんは仕立を近所の少しは針仕事の出来る女へ頼んだ。これが二人の間を疑はしめる材料を提供したのであつた。おいよさんには冬衣のさつぱりしたものは一枚もなかつた。有繋によごれた着物で郷里へ行くことを羞ぢたのであつた。おいよさんは正月の上旬に霜の解けないうちといつて未明に人力車で出て行つた。おいよさんが行つてからも私はひどく不安の念に駆られて居た。おいよさんは出て行く前に私の腹は私がどうにかします、私も知つて居ますからといふのであつた。どうする積かと私は聞いて見たら、知合の女に窃に処分をしたものがある。其女の家へ客に
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