頃女は障子の外を通るやうであつたがそれからはひつそりとして居るか居ないか分らぬやうであつた。私が起きた時女中は隣の座敷へ来て女の容子を聞いて居る様であつた。軈て女中は階子段から番頭を喚ぶと番頭は小綺麗な蒲団を抱えて上つて来た。隣の座敷では番頭と女中とが其蒲団を敷き換へて居る様であつた。私が障子の外へ出て見た時女は座敷を出て勾欄に近く入江を見て立つて居た。寝くたれた浴衣に肉色の扱帯をしどけなく垂れて居る。髪もさらりと耳のあたりへこけていつもより顔が蒼味を帯びて見えた。私を見て慌てゝ座敷へもどつて障子の蔭へあちら向に立つた。しどけない姿が少し障子の外へ出て見えて居た。番頭はお世辞をいうて居る。
「昨日はあの臭ひで大分お困りでござんしたらう。酷いものでござんすからね。それでも夜のうちに片付けて畢ひましたからもう臭いやうなことはありません。今日は海も凪がようござんすから誠にせい/\致して居ります。此分では後に又松魚船が参ります」
女はそれに対して何とかいうて居るがそれが極めて低い声である。私は耳を峙てゝ聞くのであるが、いつでも女のいふことが能く分つたことはない。丁度私は磁石に吸はれたやうに隔ての襖へ耳をつけ聞いても聞きとれぬ程女は静にものいふのである。私はいつでもぢれつたい心持になるのであつた。番頭は威勢よくものをいふ。蔭で聞いて居ても女の気を引き立てゝやらうといふのらしかつた。
「先頃こゝへ鯨があがりましてね。それが鯱に攻められたんですがね、此時は大騒ぎでした」
女中は私の座敷の前で柱へつかまりながら勾欄へ腰を挂けた。
「港の船は残らず出払ひです。この沖で見つけたんですから私も乗つて行つて見ました、が其時は鯨はまだ死にきりませんでした。鯨といふ奴はあれでみじめなもので何も防ぎ道具といふ物がないんですから、鯱に攻められた日にやどうすることも出来ないんですね。只まあ遁げる丈けなんですね。鯱の方は何百匹だか分りやしません。斯う背中に角のやうな鰭があるんですがそいつを水の上に出して一杯に鯨を取巻いて居るんです。あれを見ちや鯱もなか/\大きなもんです。鯱鉾とは丸つきり違ひまさあね。其内に潜水器をかぶつてむぐつて見た奴があるんですが、鯱はみんな鯨の頭の方へばかり聚つて居て鯨の肉を食ひ取るんだ相です。それで尻尾の方へは決して行かないんですからね。尻尾で一つ弾かれたら何でもまた堪りま
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