せんから鯱もそれは知つてるんですね。そこは漁師ですからね、到頭鯨へ綱を挂けて、そいつを船へ継いで曳いて来たんです。鯱も人間には構はなかつたさうです。もう此の港の口へ近づいて来たとなつたらそれでも鯱はすうつと沖へ引つ返して行きました。さうかと思つて居ると其中の一番大きなのが二三匹角を立てゝ戻つて来ましてね、残念だといふんでせう、鯨を一食ひ食ひ取つて行きました。此にはみんな驚きましたね。何しろ鯨といふ奴は大きいものですから、港へはひらないので其儘置いたのですが、それがあなた明日の朝見ると夜鯱が来たと見えて鯨の肉がしたゝか噛じられて居るんです。一口に百五六十貫づゝも食ひ取るんですからね。さうかといつてそこらに其肉が浮いてるんですから食つて畢ふ訳でもないんです。一体鯱といふのは酷い奴ですね。そこら一杯水は赤くなりましてね。その時の騒ぎはお目に挂けたいやうでしたな」
障子の外へ膝をついて番頭は語つた。私も閾の所までずり出して其噺を聞いた。
「番頭さん見たやうなことをいつてどうしたもんだ」
女中はすぐにかういつた。
「何だい私行つたぢやないか交ぜつ返しちやいけないよ」
「それだつて番頭さんは船に弱いんだつて帰つた時は真蒼でしたよ。ようく御覧になつたのはうちの旦那さんでさね。おゝ厭な番頭さんだ」
女中はかういつて笑ひながら遁げて行つた。
「本当に口の悪いおきんどんでしやうがない」
番頭も笑ひながら
「まあどうぞ御ゆつくり」
といつて立つた。
「大分お暑くなつて参りましたな」
私へもお世辞をいうて去つた。それから隣の座敷には別に変つた事もなく女は矢張り滅多に座敷の外へ出ないのであつた。尤も空がすつかり切上つて夏の日が急に暑く照すやうに成つてからは女の座敷も障子が開けてあつた。私は女の座敷を一目見たいと思つたが遂に一足も境の柱を越した事がない。まして障子が開け放しになつてからは私は自分の座敷の前の勾欄から海を見て居る時僅に其座敷を振り返つて見る事にさへ恐怖心を抱いて居た。女は日に幾度も私の座敷の前を通る。女の前には私の座敷は少しの隠す所もない。隣の座敷は私の為めには全く秘密である。私はしをらしい其女が心憎かつた。私は宿の女中にも戯談すらいはなかつた。私は隣の座敷へひどく気兼があつたからである。私にそれだけの慎んだ態度がなかつたならば女は隣の座敷を移したかも知れぬ。私は其時
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