利根川の一夜
長塚節

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)今坂餅《いまさかもち》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)益※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うねり/\行く
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 叔父の案内で利根川の鮭捕を見に行くことになつた、晩飯が濟んで勝手元もひつそりとした頃もうよからうといふので四人で出掛けた、
 叔父は小さな包を背負つて提灯をさげる、それから河は寒いと可かないからと叔母が出して呉れた二枚のどてらを、うしろのちやんと呼ばれて居る五十格恰の男が引つ背負つてお供をする、これは提灯と二升樽とをさげる、從弟の十になる兒と自分とは手ぶらで蹤いて行く、
 荷物を背負つた二人の樣子が才藏か何かのやうだといふので下婢供が頻りに笑ひこけるのである、うらのとぼ口を出て、落葉した梅の樹の下を木戸口へ出る頃までそれが聞えた、
 木戸を出ると桑畑のよせのやうな小徑をうねり/\行く、提灯の導く儘に唯足許に心を配りながら二丁ばかりも來たと思ふと、坂垂れになつた大きな往來へ出た、この間の降りつゞきなのでよく/\のぬかるみである、坂を下りて四五軒ばかりならんだ家のところを出拔けると、闇いは闇いがひろ/″\として來た、道は一際ひどい泥濘で、はじの方の漸く下駄だけ位に人の踏んだ足跡を探つては行くのである、道の脇はぢき溝になつてあるので、一歩誤れば墜ち相である、提灯二つがたよりで辿つて行つたがとう/\動きのとれないぬかるみへ出つくはした、叔父と自分とは思ひ切つて跣足になつた、從弟はうらのちやんが抱いて越えた、これから先はもつとひどいだらうといひながら行くと案外ぬかるみも少ないので馬鹿な目に逢つて仕舞つたと大笑ひをしながら、それからは急ぎ足に進んだ、四五丁もきたと思ふ頃利根川の渡しのところへついた、汪洋たる水は淀んで居るかと思ふ程に靜かである、藁葺の船頭小屋は薄明りがさして居るが話聲も聞えない、叔父と自分とは提げて來た下駄を置いて足を洗つて居るうちに、うしろのちやんの提灯は遙に川下の方へ行つた、やがて自分等もあとを追つて土手の上を歩いて行く、末枯の蓼の穗や背丈にも延びた唐人草がザラ/\と提灯にさはる、この土手のすぐ内側は畑でずつとさきはみんな原野になつて居る、土手といつてもこんなに低いのだから水が出るとすぐに越し相になる、土手を水が越すと耕地はみんな洗はれて仕舞ふのでこんなに土俵を積んで置くのだといふやうなことを叔父から聞きつゝ行くうちに、さきの提灯はぢき間近になつた、そこに止まつて居たのである、サツパ舟が一艘岸へ漕ぎ付けんとしつゝある、うらのちやんと舟とで何か話をして居る、それと同時にボー/\となまぬるいやうな汽笛を鳴らしながら通運丸が上つて來た、舳の灯の青い光や赤い光が長い影を波の上に引つ張つてさうしてバツサ/\と水を掻き分けながら、牛のやうに遲行しつゝある、岸へついたサツパ舟は艫のところへぐつと棹を突つ立てた儘とまつて居る、「引き波がえら來るかんな下手にすつと波くふかんなと舟でいつた、汽船はずん/\上つて行くのであるが、引き波はなか/\こない、岸を十間ばかりも離れたところに黒く船らしいものが見える、あれが鮭捕船だと叔父が自分に話して聞かせた、サツパ舟の中では「追つかけ引つかけよ、四本ちふんだからなといつてる、うしろのちやんとの問答のつゞきでゝもあらうと思はれる、そのうちに岸を打つ波がバシヤリ、バシヤリと一仕切り騷ぐと、さあこんだ乘つてもいゝといふのでさきの舟へ漕ぎつけた、舟のなかには三人の男が居たが自分等がついたので、みんな艫の方へ堅まつた、「こん夜はお客さま案内してきたといひながら叔父がさきへ乘り移る、舳の方へ漸く四人が座つた、この舟もやつぱりサツパ舟であるから八人の乘合では隨分窮屈である、それに苫が切つてあるのだから頭から押へ付けられるやうな心持で何だか落付かないで居ると、「どうですサヤ立てるの見ませんかといはれて、何をするのか分らないが見たいといふと、「それぢやこれへお乘んなせえといはれてさつきの舟へ乘る、こんどは二人で漕ぎ出した、一人はずんぐりした男で一人はさつきの奴である、さうしてそれはもうよつぽどの爺さんであつた、舟は再び岸の方へつけられた、一人が陸へ上つて竹棒の束へ繩をくるんだやうなものを抱いてきた、舟はすぐに遙かの下手へ漕ぎくだつて行つた、河のおもての白々ひかりで見ると、そこには苫舟の傍から末になる程開くやうに二筋に竹の棒が建てならべてある、丁度八の字髭が生へたやうなものだ、その右の方に舟を止めたと思
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