が、彼《かれ》のいひたかつた幾部分《いくぶぶん》を漸《やうや》くに打《う》ち明《あ》けしめた。
「お内儀《かみ》さん、こら運《うん》の惡《わり》い者《も》な仕《し》やうありあんせんね」彼《かれ》は憐《あは》れに聲《こゑ》を投《な》げ掛《か》けた。彼《かれ》の災厄《さいやく》の後《のち》にしみ/″\と斯《か》ういふことを聞《き》いてくれる者《もの》は内儀《かみ》さんの外《ほか》にはまだなかつたのである。
「そんだが此《こ》れお内儀《かみ》さん等《らあ》家《ぢ》からなんぞ見《み》た日《ひ》にや爪《つめ》の垢《あか》だからわし等《ら》なんざ辛《つれ》えも悲《かな》しいもねえ噺《はなし》なんだが」彼《かれ》は自分《じぶん》の不運《ふうん》を訴《うつた》へるのに、自分《じぶん》一|身《しん》のことより外《ほか》は何物《なにもの》も其《そ》の心《こゝろ》に往來《わうらい》しては居《ゐ》なかつた。彼《かれ》はふと自分《じぶん》の火《ひ》が燒《や》いたことを思《おも》つた時《とき》、酷《ひど》く自分《じぶん》のことのみをいつて畢《しま》つたのが濟《す》まないやうな心持《こゝろもち》がしてならなかつた。
「まあ惜《を》しいといへば紙《かみ》一|枚《まい》でも何《なん》だが、これ、家《うち》は直《す》ぐにも建《た》てれば建《た》つんだが、樹《き》が惜《を》しいことをしたつて云《ゆ》つてるのさ、それだが此《こ》れもそんなことを云《ゆ》つたつて仕方《しかた》がないがね」内儀《かみ》さんは聳然《すつくり》と立《たつ》ては居《ゐ》るが到底《たうてい》枯死《こし》すべき運命《うんめい》を持《も》つて居《ゐ》る喬木《けうぼく》の數本《すうほん》を端近《はしぢか》に見上《みあげ》ていつた。遠《とほ》く落《お》ち掛《か》けた日《ひ》が劃然《かつきり》と其《そ》の梢《こずゑ》に光《ひか》つた。勘次《かんじ》の顏《かほ》は蒼《あを》くなつてぐつたりと頭《あたま》を垂《た》れた。彼《かれ》は暫《しばら》く沈默《ちんもく》を保《たも》つた。
「どうしたね、私《わたし》も氣《き》のつかないことをして居《ゐ》たが、お前《まへ》も丸燒《まるやけ》で仕《し》やうあるまいが少《すこ》しは錢《ぜに》でも持《も》つて行《い》くかね」内儀《かみ》さんは勘次《かんじ》の心《こゝろ》を推察《すゐさつ》したやうにいつた。
「へえ」勘次《かんじ》の首《くび》は更《さら》に俛《うなだ》れた。彼《かれ》の目《め》は潤《うる》んだ。
「わしもはあ、そんならなんぼ助《たすか》るかも知《し》れあんせんが、お内儀《かみ》さん處《とこ》ささう云《ゆ》つて來《く》る譯《わけ》にも行《え》がねえで」と勘次《かんじ》は亂《みだ》れた頭髮《かみ》へ手《て》を當《あ》てゝ媚《こ》びるやうな容子《ようす》をしていつた。
「それだがお前《まへ》にやる位《くらゐ》ならどうにか成《な》るから心配《しんぱい》しなくつても好《い》いよ」
「わしも此《こ》れ、罰《ばち》當《あた》つたんでがせう、さう思《おも》ふより外《ほか》有《あ》りあんせんから」勘次《かんじ》は暫《しばら》く間《あひだ》を措《お》いて
「わしも嚊《かゝあ》こと因果《いんぐわ》見《み》せて罪《つみ》作《つく》つたの惡《わ》りいんでがせう」彼《かれ》の聲《こゑ》は沈《しづ》んだ。
「お内儀《かみ》さん、わしどんな形《なり》にか家《うち》も建《た》てなくつちやなんねえから、そん時《とき》や家族《うち》の極《きま》りもつけべと思《おも》つてんですが、お内儀《かみ》さん又《また》わしこと面倒《めんだう》見《み》ておくんなせえ、わし等《ら》野郎《やらう》も其《その》内《うち》はあ大《えか》く成《な》つて來《く》つから學校《がくかう》もあとちつとにして百姓《ひやくしやう》みつしら仕込《しこ》むべと思《おも》つてんでがすがね」
「さうかえ」内儀《かみ》さんは慰《なぐさ》めるやうにいつた。
「お内儀《かみ》さん親不孝《おやふかう》だなんちな、親《おや》が警察《けいさつ》へでも願《ねが》つて出《で》なけりや巡査《じゆんさ》ばかしぢやどうすることも出來《でき》ねえもんでござんせうかね」勘次《かんじ》は先刻《さつき》からの噺《はなし》の内《うち》にも何《なん》だか後《うしろ》から物《もの》に襲《おそ》はれるやうな容子《ようす》が止《や》まなかつたが遂《つひ》に斯《か》ういつた。
「さうさね、巡査《じゆんさ》だつて無闇《むやみ》にどうかするといふこともないんだらうと思《おも》ふやうだがね」内儀《かみ》さんは意外《いぐわい》な面持《おももち》でいつた。
「此《こ》れからはあ、わしも爺樣《ぢいさま》こと面倒《めんだう》見《み》べと思《おも》ふんでがすがね、今《いま》ツからでもお内儀《かみ》さん間合《まにやあ》ねえこたありあんすめえね」
「さうだよ、老人《としより》なんていふものは少《すこ》しの加減《かげん》なんだから、まあ心配《しんぱい》させないやうにした方《はう》が好《い》いよ、さういつちや何《なん》だが後《あと》幾《いく》らも生《い》きるんぢやなしねえ」
「へえさうでがすよ、昨日等《きのふら》ツからちつと柔《やつけ》え言辭《ことば》掛《か》けつとうるしがつて居《ゐ》んですから、それからわし野郎《やらう》げ貰《もら》つて來《き》た火傷《やけど》の藥《くすり》も貼《は》つてやつたんでさ、藥《くすり》足《た》んなく成《な》つちやつたから醫者樣《いしやさま》さ行《い》つて來《く》べと思《おも》つたつけが、今日《けふ》は午後《ひるすぎ》で居《ゐ》めえと思《おも》ふから明日《あした》にすべと思《おも》つて止《や》めたのせ、明日《あした》行《い》つたら水飴《みづあめ》でも買《か》つて來《き》てやれなんておつうも云《い》ふもんでがすからね」
「火傷《やけど》したなんて聞《き》いたつけがそれでも家《うち》へ連《つ》れて來《き》てかね」
「へえ」勘次《かんじ》は其《そ》の佛曉《あけがた》のことをどうしてか内儀《かみ》さんがまだ知《し》らぬらしいのでほつと息《いき》をついたが又《また》自分《じぶん》から恥《は》ぢて、簡單《かんたん》に瞹昧《あいまい》に斯《か》ういつた。
「お内儀《かみ》さん、こうちつとでもよくねえ錢《ぜに》へえつちや末始終《すゑしじう》はどうしてもえゝこたありあんすめえね」勘次《かんじ》は更《さら》にまた酷《ひど》く懸念《けねん》らしい容子《ようす》をして突然《とつぜん》に聞《き》いた。
「さうさねえ」内儀《かみ》さんは勘次《かんじ》の心持《こゝろもち》が明瞭《はつきり》とは分《わか》らないので氣《き》の乘《の》らぬやうにいつた。
「そんだがお内儀《かみ》さんさうえ錢《ぜに》は自分《じぶん》のげ役《やく》に立《た》てせえしなけりやどうしても違《ちげ》えあんすべえね」勘次《かんじ》は内儀《かみ》さんに分《わか》つても分《わか》らなくても、そんなことを考《かんが》へる餘裕《よゆう》がなかつた。彼《かれ》は只《たゞ》自分《じぶん》の心配《しんぱい》だけを底《そこ》から蓋《ふた》から打《ぶ》ち傾《ま》けて畢《しま》はねば堪《た》へられなかつたのである。
「さうだが、それもどういふ筋《すぢ》の錢《ぜに》だか分《わか》らないがそりや使《つか》つちやいかないんだらうさね」
「そんぢやお内儀《かみ》さん他人《ひと》の錢《ぜに》なくしたのなんぞ發見《めつ》けても知《し》らねえ容子《ふり》なんぞして、後《あと》で遣《や》んな盜《と》つた見《み》てえで變《をかし》な時《とき》や、何《なん》でかで落《おつ》ことした丈《だけ》の物《もの》でもやればそれでも違《ちげ》えあんすべね」勘次《かんじ》は少《すこ》し自分《じぶん》のいふことの内容《ないよう》を打《う》ち明《あ》けるやうにいつた。
「默《だま》つて居《ゐ》ればそれつ切《きり》なんだが」彼《かれ》は獨《ひとり》喉《のど》の底《そこ》でいつた。
「そりやそんなことしないで發見《みつ》けた物《もの》なら其儘《そつくり》返《かへ》すのが本當《ほんたう》だよ」内儀《かみ》さんは聲《こゑ》は低《ひく》かつたがきつぱりいつた。勘次《かんじ》の惑《まど》うた心《こゝろ》の底《そこ》にはそれがびりゝと強《つよ》く響《ひゞ》いた。
「そんぢやお内儀《かみ》さんそれ返《けえ》して又《また》其《そ》の外《ほか》にも何《なん》とかしたら冥利《みやうり》の惡《わ》りいやうなことも有《あ》りあんすめえな」彼《かれ》は情《なさけ》なげな目《め》で内儀《かみ》さんをちらりと見《み》ていつた。
「そんなこた仕《し》なくつたつて何《なに》もよかりさうなもんだね」内儀《かみ》さんは勘次《かんじ》の餘《あま》りに懸念《けねん》らしい容子《ようす》に疾《とう》から心《こゝろ》づいたことがあつた。内儀《かみ》さんは暫《しばら》く聞《き》かなかつた彼《かれ》の盜癖《たうへき》に思《おも》ひ至《いた》つた。然《しか》し彼《かれ》が自分《じぶん》から甚《はなは》だしく悔《く》いつゝあるらしいのを心《こゝろ》に確《たしか》めて強《し》ひては追求《つゐきう》しようといふ念慮《ねんりよ》も起《おこ》し得《え》なかつた。勘次《かんじ》は只《たゞ》不便《ふびん》に見《み》えた。内儀《かみ》さんはふと思《おも》ひ出《だ》して少《すこ》しばかりの銀貨《ぎんくわ》を勘次《かんじ》の側《そば》へ竝《なら》べて
「そりやさうと、お前《まへ》も家族《うち》の極《きま》りをつける積《つもり》だつていふんだが、まあどうする積《つもり》なんだね」と靜《しづか》に聞《き》いた。
「さうでござんすね」勘次《かんじ》はぐつたりと俛首《うなだ》れて言辭《ことば》の尻《しり》が聞《き》きとれぬ程《ほど》であつた。深《ふか》い憂《うれひ》が顏面《かほ》の皺《しわ》に強《つよ》く刻《きざ》んだ。
「わしも此《こ》れ……」と彼《かれ》は微《かす》かにいつたのみで沈默《ちんもく》を續《つゞ》けた。彼《かれ》は内儀《かみ》さんの前《まへ》にどうしても述《のべ》なければならないことに其《その》心《こゝろ》が惑亂《わくらん》した。彼《かれ》はぽうつとして目《め》が昏《くら》まうとした。遠《とほ》く喚《よ》ぶやうで然《しか》も近《ちか》い聲《こゑ》の爲《ため》に彼《かれ》が我《われ》に返《かへ》つた時《とき》
「それぢやお前《まへ》、まあ此《この》錢《ぜに》を藏《しま》つたらどうだね」と内儀《かみ》さんが促《うなが》したのであつた。衷心《ちうしん》から困《こま》つたやうな彼《かれ》に向《むか》つて内儀《かみ》さんはもう追求《つゐきう》する力《ちから》を有《もた》なかつた。
「誠《まこと》にどうもお内儀《かみ》さん」彼《かれ》は財布《さいふ》を帶《おび》から解《と》いて出《だ》した時《とき》酷《ひど》く減《へ》つて畢《しま》つたやうに感《かん》じて、其《そ》の財布《さいふ》を外《そと》から一寸《ちよつと》見《み》て首《くび》を傾《かたぶ》けた。彼《かれ》は又《また》財布《さいふ》の底《そこ》の錢《ぜに》を攫《つか》み出《だ》して見《み》た。燒趾《やけあと》の灰《はひ》から出《で》て青銅《せいどう》のやうに變《かは》つた銅貨《どうくわ》はぽつ/\と燒《や》けた皮《かは》を殘《のこ》して鮮《あざや》かな地質《ぢしつ》が剥《む》けて居《ゐ》た。彼《かれ》はそれを目《め》に近《ちか》づけて暫《しばら》く凝然《ぢつ》と見入《みい》つた。彼《かれ》は心《こゝろ》づいた時《とき》俄《にはか》に怖《おそ》れたやうに内儀《かみ》さんを顧《ふりかへ》つてじやらりと其《そ》の錢《ぜに》を財布《さいふ》の底《そこ》へ落《おと》した。(完)
底本:「長塚節名作選 一」春陽堂書店
1987(昭和62)年8月20日発行
底本の親本:「土」春陽堂
1912(明治45)年5月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつ
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