つゝ吹《ふ》き落《お》ちる北風《きたかぜ》がごつと寒《さむ》さを煽《あふ》つた。勘次《かんじ》は狹《せま》い土間《どま》に掻《か》き集《あつ》めてあつた落葉《おちば》や麁朶《そだ》に火《ひ》を點《つ》けた。烟《けぶり》は低《ひく》い檐《のき》を偃《は》つて、ぐる/\と空間《くうかん》が廻轉《くわいてん》するやうに見《み》えつゝ飛《と》び散《ち》る忙《せは》しい雪《ゆき》の爲《ため》に遁《に》げ行《ゆ》く道《みち》を妨《さまた》げられたやうに低《ひく》く彷徨《さまよ》うて行《ゆ》く。おつぎは外側《そとがは》に置《お》いた手桶《てをけ》を執《と》つた。北風《きたかぜ》の吹《ふ》きつける雪《ゆき》は一《ひと》つの手桶《てをけ》を半分《はんぶん》白《しろ》くして居《ゐ》た。おつぎは低《ひく》い檐《のき》の下《した》を一|歩《ぽ》踏《ふ》み出《だ》したら、北風《きたかぜ》は待《ま》つて居《ゐ》たといふやうに、其《そ》の亂《みだ》れた髮《かみ》の毛《け》を吹《ふ》き捲《まく》つて、大粒《おほつぶ》な雪《ゆき》が爭《あらそ》つて首筋《くびすぢ》へ群《むらが》り落《おち》て瞬間《しゆんかん》に消《き》えた。さうして又《また》衣物《きもの》の上《うへ》に輕《かる》く軟《やはら》かに止《とま》つた。おつぎは釣瓶《つるべ》の竹竿《たけざを》が北《きた》から打《うち》つける雪《ゆき》の爲《ため》に竪《たて》に一條《ひとすぢ》の白《しろ》い線《せん》を描《ゑが》きつゝあるのを見《み》た。ちら/\と目《め》を昏《くらま》すやうな雪《ゆき》の中《なか》に樹木《じゆもく》は悉皆《みんな》純白《じゆんぱく》な柱《はしら》を立《たて》て、釣瓶《つるべ》の縁《ふち》は白《しろ》い丸《まる》い輪《わ》を描《ゑが》いて居《ゐ》る。おつぎは竹竿《たけざを》へ手《て》を掛《か》けると輕《かる》い軟《やはら》かな雪《ゆき》はさらりと轉《こ》けて落《お》ちた。おつぎは一|杯《ぱい》を汲《く》んでひよつと顧《ふりかへ》つた時《とき》後《うしろ》の竹《たけ》の林《はやし》が強《つよ》い北風《きたかぜ》に首筋《くびすぢ》を壓《お》しつけては雪《ゆき》を攫《つか》んでぱあつと投《な》げつけられながら力《ちから》の限《かぎり》は爭《あらそ》はうとして苦悶《もが》いて居《ゐ》るのを見《み》た。おつぎは見《み》るなと吹《ふ》きつける北風《きたかぜ》を當面《まとも》に受《う》けて呼吸《いき》がむつとつまるやうに感《かん》じてふと横手《よこて》を向《む》いた。少《すこ》し離《はな》れた※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》におつぎは吸《す》ひつけられたやうに疑《うたが》ひの目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。おつぎは釣瓶《つるべ》を放《はな》して少《すこ》し※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》に近《ちか》づいた。
「おとつゝあ」とおつぎは底《そこ》の粘《ねば》る草履《ざうり》を捨《す》てゝ激《はげ》しく呼《よ》んで驅《か》け込《こ》んだ。
「大變《たえへん》だよ、おとつゝあ」と今度《こんど》は少《すこ》し聲《こゑ》を殺《ころ》すやうにして勘次《かんじ》を促《うなが》した。勘次《かんじ》は怪訝《けげん》な鋭《するど》い目《め》を以《もつ》ておつぎを見《み》た。
「よう、おとつゝあ」おつぎの節制《たしなみ》を失《うしな》つた慌《あわたゞ》しさが勘次《かんじ》を庭《には》に走《はし》らせた。勘次《かんじ》は戰慄《せんりつ》した。※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》には冷《つめ》たい卯平《うへい》が横《よこ》たはつて居《ゐ》たのである。其《その》大《おほ》きな體躯《からだ》は少《すこ》し※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》に倚《よ》り掛《かゝ》りながら、胸《むね》から脚部《きやくぶ》へ斑《まだら》に雪《ゆき》を浴《あ》びて居《ゐ》た。荒繩《あらなは》が彼《かれ》の手《て》を轉《こ》けて横《よこ》に體躯《からだ》を超《こ》えて居《ゐ》た。
「爺《ぢい》」とおつぎは其《そ》の耳《みゝ》に口《くち》を當《あ》てゝ呶鳴《どな》つた。冷《つめ》たい卯平《うへい》はぐつたりと俛首《うなだ》れた儘《まゝ》である。少《すこ》し傾《かし》げた彼《かれ》の横頬《よこほゝ》に糜爛《びらん》した火傷《やけど》が勘次《かんじ》を悚然《ぞつ》とさせた。勘次《かんじ》は夜《よる》荷車《にぐるま》で運《はこ》んだ後《のち》卯平《うへい》を見《み》るのは始《はじ》めてゞあつた
「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」おつぎは勘次《かんじ》を叱《しか》つて、卯平《うへい》の身體《からだ》を起《おこ》しながら白《しろ》く掛《かゝ》つた雪《ゆき》を手《て》で拂《はら》つた。勘次《かんじ》は怖《お》づ/\手《て》を藉《か》した。卯平《うへい》の力《ちから》ない身體《からだ》は漸《やうや》く二人《ふたり》の手《て》で運《はこ》ばれた。勘次《かんじ》は簀《す》の子《こ》の上《うへ》の筵《むしろ》に横《よこた》へて、喪心《さうしん》したやうに惘然《ばうぜん》として立《た》つた。彼《かれ》は復《ま》た卯平《うへい》の糜爛《びらん》した火傷《やけど》を見《み》た。彼《かれ》は何《なに》を思《おも》つたか忙《いそが》しく雪《ゆき》を蹴立《けた》てゝ、桑畑《くはばたけ》の間《あひだ》を過《す》ぎて南《みなみ》の家《いへ》に走《はし》つた。一|旦《たん》開《あ》けて又《また》そつと閉《とざ》した表《おもて》の戸口《とぐち》から突然《とつぜん》に
「起《お》きめえか」と彼《かれ》は激《はげ》しく呶鳴《どな》つた。彼《かれ》は褞袍《どてら》を着《き》て竈《かまど》の前《まへ》に火《ひ》を焚《た》いて居《ゐ》る女房《にようばう》を見《み》た。
「何《なん》でえ」と亭主《ていしゆ》の驚《おどろ》いていふ聲《こゑ》が近《ちか》く聞《きこ》えた。勘次《かんじ》も驚《おどろ》いて上《あが》り框《がまち》の蒲團《ふとん》から首《くび》を擡《もた》げた亭主《ていしゆ》を見《み》た。
「大變《たえへん》なこと出來《でき》たよ、俺《お》ら家《ぢ》の」と勘次《かんじ》はこそつぱい喉《のど》から漸《やうや》くそれだけを吐《は》き出《だ》した。
「來《き》てくんねえか」と彼《かれ》は簡單《かんたん》にさういつて、思《おも》ひ出《だ》したやうに又《また》雪《ゆき》を蹴《け》つて走《はし》つた。慌《あわ》てた彼《かれ》は閾《しきゐ》も跨《またが》なかつた。南《みなみ》の家《いへ》の亭主《ていしゆ》は勘次《かんじ》の容子《ようす》を見《み》て尋常《じんじやう》でないことを知《し》つた。然《しか》しながら彼《かれ》は極《きは》めて不判明《ふはんめい》な事件《じけん》に赴《おもむ》くには、直《たゞち》に起《おこ》る多少《たせう》の懸念《けねん》が吹《ふ》き捲《まく》る雪《ゆき》に逆《さから》つて、蓑《みの》も笠《かさ》も持《も》たずに走《はし》つて行《ゆ》く程《ほど》慌《あわ》てさせる譯《わけ》には行《ゆ》かなかつた。彼《かれ》は土間《どま》に轉《ころ》がつた下駄《げた》を探《さが》した。非常《ひじやう》な勢《いきほ》ひで積《つも》らうとする雪《ゆき》は、庭《には》から庭《には》を繼《つ》ぐ桑畑《くはばたけ》の間《あひだ》に下駄《げた》の運《はこ》びを鈍《にぶ》くした。彼《かれ》が勘次《かんじ》の小屋《こや》を覗《のぞ》いた時《とき》は低《ひく》く且《かつ》狹《せま》い入口《いりぐち》を自分《じぶん》の身體《からだ》が塞《ふさ》いで内《うち》を薄闇《うすぐら》くした。外《そと》の白《しろ》い雪《ゆき》を見《み》た彼《かれ》の目《め》が暫《しばら》く昏《くら》んだ。彼《かれ》は只《たゞ》勘次《かんじ》が與吉《よきち》を叱《しか》る聲《こゑ》を耳《みゝ》の傍《そば》で聞《き》いた。
勘次《かんじ》が歸《かへ》つた時《とき》卯平《うへい》は横《よこた》へた儘《まゝ》であつた。淺《あさ》く掛《かゝ》つて居《ゐ》た雪《ゆき》が溶《と》けて卯平《うへい》の褞袍《どてら》が少《すこ》し濡《ぬ》れて居《ゐ》た。彼《かれ》は復《ま》た糜爛《びらん》した火傷《やけど》を見《み》ると共《とも》に、卯平《うへい》の懷《ふところ》へ手《て》を入《い》れて居《ゐ》るおつぎを見《み》た。
「おとつゝあ、暖《ぬくて》えんだよ」おつぎはいつて又《また》
「呼吸《いき》つえてんだよ」他《た》を憚《はゞか》るものゝやうに低《ひく》く聲《こゑ》を殺《ころ》していつた。勘次《かんじ》は勢《いきほ》ひづいた。彼《かれ》は突然《とつぜん》與吉《よきち》を起《おこ》した。蒲團《ふとん》を捲《まく》つて與吉《よきち》の腕《うで》を引《ひ》いた。與吉《よきち》は例《いつも》にない苛酷《かこく》な扱《あつか》ひに驚《おどろ》いてまだ眠《ねむ》い目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
「急《かせ》えて、それ、衣物《きもの》」と勘次《かんじ》は只《たゞ》おろ/\して居《ゐ》る與吉《よきち》を叱《しか》りつけた。
「そんぢやまあよかつた。何《なに》しても蒲團《ふとん》へ寢《ね》かせた方《はう》がえゝな、暖《ぬくと》まりせえすりや段々《だん/\》よくなつぺから」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は數分時《すうふんじ》の前《まへ》から二人《ふたり》を衷心《ちうしん》より狼狽《らうばい》せしめた事件《じけん》の簡單《かんたん》な説明《せつめい》を聞《き》いた時《とき》いつた。
「衣物《きもの》濡《ぬ》れたやうだな、脱《ぬが》せたらよかつぺ、それに酷《ひど》く汚《よご》れつちやつたな」亭主《ていしゆ》はいつて捲《まく》つた蒲團《ふとん》へ手《て》を當《あて》て見《み》た。
「此《こ》ら暖《ぬくと》くつてえゝ鹽梅《あんべえ》だ、冷《ひえ》させちやえかねえ」彼《かれ》は掛蒲團《かけぶとん》をとつぷり蓋《ふた》した。
「さうだな衣物《きもの》は焙《あぶ》る間《えゝだ》仕《し》やうねえなそんぢや褞袍《どてら》でも俺《お》ら家《ぢ》から持《も》つて來《く》つとえゝな、此《こ》の蒲團《ふとん》だけぢや暖《ぬくと》まれめえこら」彼《かれ》は少《すこ》し權威《けんゐ》を有《も》つた態度《たいど》でいつた。狹《せま》い小屋《こや》の焚火《たきび》は消《き》えて居《ゐ》た。怪訝《けゞん》な容子《ようす》をして遠《とほ》ざかつて居《ゐ》た與吉《よきち》が落葉《おちば》を足《た》して暫《しばら》く燻《くす》ぶらした。
「汝《われ》また、それ、おつう見《み》てやれ」勘次《かんじ》は與吉《よきち》に注意《ちうい》の言葉《ことば》を殘《のこ》して驅《か》け出《だ》して行《い》つた。
「蒲團《ふとん》も持《も》てらば持《も》つて來《き》た方《はう》がえゝな」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》の聲《こゑ》は段々《だん/\》に大粒《おほつぶ》に成《な》つて飛《と》んで居《ゐ》る雪《ゆき》の亂《みだ》れの中《なか》に消《き》え行《ゆ》く勘次《かんじ》の後《あと》から追《お》ひ掛《か》けた。
勘次《かんじ》は二人《ふたり》を加《くは》へて勢《いきほ》ひづけられた手《て》を敏活《びんくわつ》に動《うご》かして、まだ暖《あたゝ》まつて居《ゐ》る蒲團《ふとん》へそつと卯平《うへい》を横《よこた》へた。卯平《うへい》の冷《つめ》たい身體《からだ》には、落葉《おちば》の火《ひ》でおつぎが焙《あぶ》つた褞袍《どてら》と夫《それ》から餘計《よけい》な蒲團《ふとん》とが蔽《おほ》はれた。卯平《うへい》の微《かす》かな呼吸《いき》が段々《だん/\》と恢復《くわいふく》して來《く》る。勘次《かんじ》はどん/\と落葉《おちば》や麁朶《そだ》を焚《た》いた。彼《かれ》は其《そ》の時《とき》雪《ゆき》の林《はやし》に燃料
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