たので聲《こゑ》は低《ひく》かつたが、それでも漸々《だん/\》に勢《いきほ》ひを加《くは》へて居《ゐ》た。
「俺《お》ら白《しれ》え藥《くすり》貼《は》つたんだぞ」與吉《よきち》は先刻《さつき》から油《あぶら》を塗《ぬ》つた卯平《うへい》の瘡痍《きず》に目《め》を注《そゝ》いで居《ゐ》てかう突然《とつぜん》にいつた。
「なあに、さうだ物《もん》なんざ貼《は》んねえツたつて汝《わ》ツ等《ら》がよりやこつちの方《はう》が早《はや》く癒《なほ》つから」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは暫《しばら》く手《て》もとへ置《お》いた油《あぶら》の皿《さら》を再《ふたゝ》び佛壇《ぶつだん》の隅《すみ》へ藏《しま》つた。
「そんでも俺《お》れこたはあ、來《き》なくつても癒《なほ》つからえゝつて藥《くすり》よこしたんだぞ」與吉《よきち》は少《すこ》し間《あひだ》を隔《へだ》てゝ怖《お》づ/\いつた。
「癒《なほ》るもんかえ、汝等《わツら》が」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは揶揄《からか》ふやうにして呶鳴《どな》つた。
「癒《なほ》らあえ、そんだつて痛《いた》かねえ俺《お》ツ等《ら》」與吉《よきち》は驚《おどろ》いたやうにいつた。
「其《そ》の白《しれ》え藥《くすり》だツちのよこしたのか」卯平《うへい》は微《かす》かな聲《こゑ》で聞《き》いた。
「さうなんだわ」
「汝《わ》りや、それ※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、394−15]《ねえ》にでも貼《は》つてもらあのか」
「俺《お》ら貼《は》んねえ」
「そんぢや藥《くすり》はどうしたんでえ、汝《わ》りやあ」
「おとつゝあ持《も》つてんだから俺《お》ら知《し》んねえ」與吉《よきち》は上《あが》り框《がまち》に胸《むね》を持《も》たせて下駄《げた》の爪先《つまさき》で土間《どま》の土《つち》を叩《たゝ》きながら卯平《うへい》と斯《か》うして數語《すうご》を交換《かうくわん》した時《とき》
「えゝからそんな藥《くすり》なんぞのこと構《かめ》えたてんなえ、此《こ》れで癒《なほ》つから」と小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは傍《そば》から打《う》ち消《け》した。
「乞食野郎奴《こちきやらうめ》、汝《わ》ツ等《ら》が親爺《おやぢ》は見《み》やがれ、汝《われ》こた醫者《いしや》さ連《つ》れてく錢《ぜに》持《も》つてけつかつて、此處《ここ》さは一|度《ど》でも來《き》やがんねえ畜生《ちきしやう》だから、見《み》ろう。其《そ》のツ位《くれえ》だから罰《ばち》當《あた》つて丸燒《まるやけ》に成《な》つちやあんだ」と爺《ぢい》さんは更《さら》に獨《ひとり》憤《いきどほ》つた語勢《ごせい》を以《もつ》ていつた。
「おとつゝあは爺《ぢい》に燒《や》かつたツちツてんだあ」與吉《よきち》は勢《いきほ》ひに壓《あつ》せられて羞《はにか》むやうにしながら漸《やつ》といつた。
「汝等《わツら》親爺奴《おやぢめ》云《ゆ》つたのか」爺《ぢい》さんは更《さら》に
「汝《わ》りや何《なん》ちつたそんで」と呶鳴《どな》つた。與吉《よきち》は悄《しを》れて暫《しばら》く沈默《ちんもく》した。
「俺《お》ら火《ひい》あたつてたら木《き》の葉《は》さくつゝえたんだつて云《ゆ》つたんだあ」
「さう云《ゆ》はつても仕方《しかた》ねえよ」與吉《よきち》のいひ畢《をは》らぬ内《うち》に卯平《うへい》は言辭《ことば》を挾《はさ》んだ。
「箆棒《べらぼう》、つん燃《も》したくつて、つん燃《も》すもの有《あ》るもんか」爺《ぢい》さんは少《すこ》し激《げき》して
「過失《えゝまち》だもの後《あと》で何《なん》ちつたつて仕《し》やうあるもんぢやねえ」と獨《ひとり》で力《りき》んだ。
「そんでも氣《き》の毒《どく》で來《き》らんめえつて云《ゆ》つたあ」與吉《よきち》はぽさりといつた。稍《やゝ》大《おほ》きく成《な》つた彼《かれ》は呶鳴《どな》る爺《ぢい》さんの前《まへ》に恐怖《おそれ》を懷《いだ》いたが又《また》壓《おさ》へられることに微《かす》かな反抗力《はんかうりよく》を持《も》つて居《ゐ》た。
「爺《ぢい》こと來《き》らんめえつて云《ゆ》つたのか、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、396−5]《ねえ》も云《ゆ》つたのかあ」
「※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、396−6]《ねえ》は云《ゆ》はねえ、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、396−6]《ねえ》爺《ぢい》が處《とこ》さ行《え》ぐつちとおとつゝあ怒《おこ》んだ、さうしたら※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、396−6]《ねえ》に怒《おこ》らつたんだあ」與吉《よきち》は自分《じぶん》の心《こゝろ》に少《すこ》しの隔《へだ》てをも有《いう》して居《を》らぬ卯平《うへい》の前《まへ》に知《し》つてることを矜《ほこ》るやうにいつた。
「汝《われ》こた怒《おこ》んねえのか」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは與吉《よきち》の隱《かく》さぬ言辭《ことば》に少《すこ》し力《りき》んだ勢《いきほ》ひが拔《ぬ》けたやうになつて斯《か》ういつた。
「俺《お》れこた怒《おこ》んねえ、俺《お》ら怒《おこ》つたつ位《くれえ》遁《に》げつちやあから」與吉《よきち》のいふのを聞《き》いて爺《ぢい》さんの憤《いか》りは和《やはら》げられた。卯平《うへい》は蒼《あを》い顏《かほ》をして凝然《ぢつ》と瞑《つぶ》つた目《め》を蹙《しが》めて聞《き》いて居《ゐ》た。圍爐裏《ゐろり》には麁朶《そだ》の一|枝《えだ》も燻《く》べてなかつた。三|人《にん》は暫《しばら》くぽさりとした。
「爺《ぢい》くんねえか」與吉《よきち》は危《あやぶ》むやうにいつた。
「汝《わ》りや何《なに》欲《ほ》しいつちんだ」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは底力《そこぢから》の有《あ》る聲《こゑ》を低《ひく》くしていつた。
「俺《お》ら一錢《ひやく》もねえから」と卯平《うへい》はこそつぱい或《ある》物《もの》が喉《のど》へ支《つか》へたやうにごつくりと唾《つば》を嚥《の》んだ。彼《かれ》の目《め》の皺《しわ》が餘計《よけい》にぎつと緊《しま》つた。
「俺《お》らまあだ、ちつた有《あ》つたんだつけが、煙草入《たぶこれ》と同志《どうし》に燒《や》えつちやつたから」彼《かれ》はぽさりと投《な》げ出《だ》していつた。
「煙草入《たぶこれ》は燒《や》けたつて錢《ぜね》だら灰《へえ》掻掃《かつぱ》けば有《あ》る筈《はず》だ、外《ほか》に盜《と》る奴《や》ざ有《あ》りやすめえし」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんの目《め》は光《ひか》つた。
「なあに分《わか》んねえよ、おつう等《ら》毎日《まいんち》來《き》てゝも其《そ》の噺《はなし》やねえんだから、俺《お》らどうせ癒《なほ》つか何《なん》だか分《わか》りやすめえし、要《え》らねえな」
「なあに、俺《お》れ聞《き》いて見《み》なくつちやなんねえ、出《だ》すも出《だ》さねえも有《あ》るもんか」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは呟《つぶや》いて
「行《え》けはあ、汝《わ》りや大《え》けえ姿《なり》して、呉《く》ろうの何《なん》だのつて」と與吉《よきち》を呶鳴《どな》りつけた。與吉《よきち》は悄々《すご/\》と出《で》て行《い》つた。卯平《うへい》は少《すこ》し目《め》を開《ひら》いて與吉《よきち》の後姿《うしろすがた》を見《み》た。涙《なみだ》が止《と》めどもなく出《で》た。彼《かれ》はそれを拭《ぬぐ》はうともしなかつた。

         二七

 其《そ》の夜《よ》温度《をんど》が著《いちじ》るしく下降《かかう》した。季節《きせつ》は彼岸《ひがん》も過《す》ぎて四|月《ぐわつ》に入《はひ》つて居《ゐ》るのであるが、寒《さむ》さは地《ち》に凝《こ》りついたやうに離《はな》れなかつた。夜半《やはん》に卯平《うへい》はのつそりと起《お》きて圍爐裏《ゐろり》に麁朶《そだ》を燻《く》べた。ちろちろと鐵瓶《てつびん》の尻《しり》から燃《も》えのぼる火《ひ》は周圍《しうゐ》の闇《やみ》に包《つゝ》まれながら窶《やつ》れた卯平《うへい》の顏《かほ》にほの明《あか》るい光《ひかり》を添《そ》へた。彼《かれ》は勢《いきほ》ひない焔《ほのほ》の前《まへ》に目《め》を瞑《つぶ》つた儘《まゝ》只《たゞ》沈鬱《ちんうつ》の状態《じやうたい》を保《たも》つた。彼《かれ》は殆《ほと》んど動《うご》かぬやうにして棄《す》てゝ置《お》けばすつと深《ふか》く沈《しづ》んで畢《しま》つたやうに冷《さ》めて行《ゆ》く火《ひ》へぽちり/\と麁朶《そだ》を足《た》して居《ゐ》た。彼《かれ》は暫《しばら》く自失《じしつ》したやうにして居《ゐ》て麁朶《そだ》の火《ひ》が周圍《しうゐ》の闇《やみ》に壓《お》しつけられようとして僅《わづか》に其《そ》の勢《いきほ》ひを保《たも》つた時《とき》彼《かれ》はすつと立《た》ち上《あが》つた。彼《かれ》の糜爛《びらん》した横頬《よこほゝ》はもう火《ひ》の氓《ほろ》びようとして居《ゐ》る薄明《うすあか》りにぼんやりとした。火《ひ》はげつそりと落《お》ちて彼《かれ》の姿《すがた》が消《き》え入《い》らうとした。彼《かれ》は戸《と》を開《あ》けて踉蹌《よろ》けながら出《で》た。寒《さむ》い風《かぜ》が冷《つめ》たい刄《やいば》を浴《あ》びせた。卯平《うへい》は悚然《ぞつ》とした。
 勘次等《かんじら》三|人《にん》は其《そ》の夜《よ》も凝集《こご》つて薄《うす》い蒲團《ふとん》にくるまつた。勘次《かんじ》は足《あし》に非常《ひじやう》な冷《つめ》たさを感《かん》じて、うと/\として居《ゐ》た眠《ねむり》から醒《さ》めた。手足《てあし》を伸《のば》せば括《くゝ》りつけた萱《かや》や篠《しの》の葉《は》に觸《ふ》れてかさ/\と鳴《な》る程《ほど》狹《せま》い室内《しつない》を、寒《さむ》さは束《たば》ねた松葉《まつば》の先《さき》でつゝくやうに徹宵《よつぴて》其《その》隙間《すきま》を狙《ねら》つて止《や》まなかつた。勘次《かんじ》は目《め》が冴《さ》えて畢《しま》つた。彼《かれ》は北《きた》に枕《まくら》して居《ゐ》た。後《うしろ》の林《はやし》が性急《せいきふ》に騷《さわ》いでは又《また》靜《しづ》まつてさうしてざわ/\と鳴《な》つた。北風《きたかぜ》が立《た》つたのだ。低《ひく》い粟幹《あはがら》の屋根《やね》から其《その》括《くゝ》りつけた萱《かや》や篠《しの》の葉《は》には冴《さ》えた耳《みゝ》に漸《やつ》と聞《きゝ》とれるやうなさら/\と微《かす》かに何《なに》かを打《う》ちつけるやうな響《ひゞき》が止《や》まない。漸次《だん/\》に其《そ》の響《ひゞき》を消滅《せうめつ》して、隙間《すきま》を求《もと》めて侵入《しんにふ》する寒《さむ》さの度《ど》が加《くは》はつた。何處《どこ》かで凍《こほつ》てた土《つち》へ響《ひゞ》くやうな※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》の聲《こゑ》が疳走《かんばし》つて聞《きこ》えると夜《よる》は檐《のき》の隙間《すきま》から明《あか》るくなつた。勘次《かんじ》はおつぎを起《おこ》した。彼《かれ》は夜《よ》が明《あ》ければ蒲團《ふとん》に堅《かた》くなつて居《ゐ》るよりも火《ひ》にあたつた方《はう》が遙《はるか》によかつた。彼《かれ》は明《あ》けるのを待遠《まちどほ》にして居《ゐ》た。おつぎは外《そと》へ出《で》ようとした。外《そと》は意外《いぐわい》に積《つも》り掛《か》けた雪《ゆき》が白《しろ》かつた。更《さら》に積《つも》りつゝある大粒《おほつぶ》な雪《ゆき》が北《きた》から斜《なゝめ》に空間《くうかん》を掻亂《かきみだ》して飛《と》んで居《ゐ》る。おつぎは少時《しばし》立《た》ち悚《すく》んだ。大粒《おほつぶ》な雪《ゆき》を投《な》げ
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