《はし》をつけた容子《ようす》がない。おつぎは燒《や》いた握飯《にぎりめし》を一つ枕元《まくらもと》にそつと置《お》いて遁《に》げるやうに歸《かへ》つて來《き》た。老人《としより》の敏《さと》い目《め》が到頭《たうとう》開《ひら》かなかつた。卯平《うへい》は疲《つか》れた心《こゝろ》が靜《しづ》まつて漸《やうや》く熟睡《じゆくすゐ》した處《ところ》なのであつた。
掘立小屋《ほつたてごや》が出來《でき》てから勘次《かんじ》はそれでも近所《きんじよ》で鍋《なべ》や釜《かま》や其《そ》の他《た》の日用品《にちようひん》を少《すこ》しは貰《もら》つたり借《か》りたりして使《つか》つた。おつぎは其《そ》の間《あひだ》一|心《しん》に燒《や》けた鍋釜《なべかま》を砥石《といし》でこすつた。竹《たけ》の床《とこ》へ數《し》く筵《むしろ》が三四|枚《まい》、此《これ》も近所《きんじよ》で古《ふる》いのを一|枚《まい》位《ぐらゐ》づつ呉《く》れた。さうしてから漸《やうや》く蒲團《ふとん》が運《はこ》ばれた。それは彼《かれ》がぎつしりと腰《こし》に括《くゝ》つた財布《さいふ》の力《ちから》であつた。米《こめ》や麥《むぎ》や味噌《みそ》がそれでどうにか工夫《くふう》が出來《でき》た。彼《かれ》は斯《か》うして命《いのち》を繼《つな》ぐ方法《はうはふ》が漸《やつ》と立《た》つた。二三|日《にち》過《す》ぎて與吉《よきち》の火傷《やけど》は水疱《すゐはう》が破《やぶ》れて死《し》んだ皮膚《ひふ》の下《した》が少《すこ》し糜爛《びらん》し掛《か》けた。勘次《かんじ》は心《こゝろ》から漸《やうや》く其《そ》の瘡痍《きず》を勦《いたは》つた。彼《かれ》は平生《いつも》になくそれを放任《うつちや》つて置《お》けば生涯《しやうがい》の畸形《かたわ》に成《な》りはしないかといふ憂《うれひ》をすら懷《いだ》いた。さうして彼《かれ》は鬼怒川《きぬがは》を越《こ》えて醫者《いしや》の許《もと》に與吉《よきち》を連《つ》れて走《はし》つた。醫者《いしや》は微笑《びせう》を含《ふく》んだ儘《まゝ》白《しろ》いどろりとした藥《くすり》を陶製《たうせい》の板《いた》の上《うへ》で練《ね》つて、それをこつてりとガーゼに塗《ぬ》つて、火傷《やけど》を掩《おほ》うてべたりと貼《はつ》てぐる/\と白《しろ》い繃帶《ほうたい》を施《ほどこ》した。手先《てさき》の火傷《やけど》は横頬《よこほゝ》のやうな疼痛《いたみ》も瘡痍《きず》もなかつたが醫者《いしや》は其處《そこ》にもざつと繃帶《ほうたい》をした。與吉《よきち》は目《め》ばかり出《だ》して大袈裟《おほげさ》な姿《すがた》に成《な》つて歸《かへ》つて來《き》た。
與吉《よきち》は繃帶《ほうたい》をしてから疼痛《いたみ》もとれた。繃帶《ほうたい》は又《また》直接《ちよくせつ》他《た》の物《もの》との摩擦《まさつ》を防《ふせ》いで、彼《かれ》に快《こゝろ》よく村落《むら》の内《うち》を彷徨《さまよ》はせた。繃帶《ほうたい》が乾《かわ》いて居《を》れば五六|日《にち》は棄《す》てゝ置《お》いても好《い》いが、液汁《みづ》が浸《し》み出《だ》すやうならば明日《あす》にも直《すぐ》に來《く》るやうにと醫者《いしや》はいつたのであるが、液汁《みづ》は幸《さいは》ひにぱつちりと點《てん》を打《う》つたのみで別段《べつだん》擴《ひろ》がりもしなかつた。
おつぎは燒趾《やけあと》の始末《しまつ》の忙《せは》しい間《あひだ》にも時々《とき/″\》卯平《うへい》を見《み》た。然《しか》し卯平《うへい》を慰《なぐさ》めるに一|錢《せん》の蓄《たくは》へもないおつぎは猶且《やつぱり》何《なん》の方法《はうはふ》も手段《しゆだん》も見出《みいだ》し得《え》なかつたのである。
おつぎは勘次《かんじ》が漸《やうや》くにして求《もと》めた僅《わづか》な米《こめ》を竊《そつ》と前垂《まへだれ》に隱《かく》して持《も》つて行《い》つた。米《こめ》には挽割麥《ひきわり》が交《まじ》つて居《ゐ》る。おつぎは決《けつ》して卯平《うへい》を滿足《まんぞく》させ得《う》ることとは思《おも》はなかつたが、彼《かれ》が喫《た》べて見《み》ようといへば粥《かゆ》にでも炊《た》いてやらうと思《おも》つたのである。然《しか》しおつぎが恥《は》ぢつゝそれでも餘儀《よぎ》なく隱《かく》して持《も》つて行《い》つた米《こめ》の必要《ひつえう》はなかつた。念佛《ねんぶつ》の伴侶《なかま》が交互《かはりがはり》に少《すこ》しづゝの食料《しよくれう》を持《も》つて來《き》てくれるのを卯平《うへい》は屹度《きつと》餘《あま》して居《ゐ》た。
「爺《ぢい》、そんでもちつた鹽梅《あんべえ》よくなつたやうだが、痛《いた》かねえけえ」おつぎは毎度《いつも》のやうに反覆《くりかへ》して聞《き》いた。言辭《ことば》は軟《やはら》かでさうして潤《うる》んで居《ゐ》た。卯平《うへい》の火傷《やけど》へも油《あぶら》が塗《ぬ》られてあつた。水疱《すゐはう》はいつか破《やぶ》れて糜爛《びらん》した患部《くわんぶ》を、油《あぶら》は見《み》るから厭《いと》はしく且《か》つ穢《きたな》くして居《ゐ》た。死《し》んだ細胞《さいぼう》の下《した》から鮮《あざや》かに赤《あか》く見《み》え始《はじ》めた肉芽《にくげ》は外部《ぐわいぶ》の刺戟《しげき》に對《たい》して少《すこ》しの抵抗力《ていかうりよく》も持《も》つて居《ゐ》ない細胞《さいぼう》の集《あつま》りである。朝夕《あさゆふ》の冷《つめ》たさすら其《そ》の過敏《くわびん》な神經《しんけい》を刺戟《しげき》した。卯平《うへい》は何時《いつ》でも右《みぎ》の横頬《よこほゝ》を上《うへ》にして居《ゐ》る外《ほか》はなかつた。
「さうだにかゝんなくつても癒《なほ》んべなあ」おつぎは、油《あぶら》が穢《きたな》くした火傷《やけど》を凝然《ぢつ》と見《み》て居《ゐ》ると自然《しぜん》に目《め》が蹙《しが》められて、寧《むし》ろ自分《じぶん》の瘡痍《きず》の經過《けいくわ》でも聞《き》くやうに卯平《うへい》の枕《まくら》へ口《くち》をつけていつた。
「うむ」と卯平《うへい》の低《ひく》く響《ひゞ》く聲《こゑ》が決《けつ》して其《そ》の言辭《ことば》のやうな簡單《かんたん》な意味《いみ》のものではなかつた。
「そんでもどうにか家《うち》も拵《こせ》えたから、爺《ぢい》ことも連《つ》れてくべよなあ」おつぎの聲《こゑ》は漸次《ぜんじ》に潤《うる》んで低《ひく》くなつた。卯平《うへい》はそれでもおつぎの聲《こゑ》を聞《き》くと目《め》を瞑《つぶ》つた儘《まゝ》、殆《ほとん》ど明瞭《はつきり》とは見《み》られぬやうな微《かす》かな笑《わら》ひが泛《うか》ぶのであつた。
「どうえの建《た》てゝえ」卯平《うへい》は有繋《さすが》に聞《き》きたかつた。
「どうえのつて爺《ぢい》は、燒《や》けた柱《はしら》掘立《ほつた》てたのよ、そんだから壁《かべ》も塗《ぬ》んねえのよ」
「そんぢや、藁《わら》か萱《かや》でおツ塞《ぷて》えたんでもあんびや」
「うむ、さうだあ、そんだから觸《さあ》つとがさ/\すんだよ」斯《か》ういつておつぎの聲《こゑ》は少《すこ》し明瞭《はつきり》として來《き》た。おつぎは羞《はぢ》を含《ふく》んだ容子《ようす》を作《つく》つた。卯平《うへい》は悲慘《みじめ》な燒小屋《やけごや》を思《おも》ふと、自分《じぶん》が與吉《よきち》と共《とも》に失錯《しくじ》つたことが自分《じぶん》を苦《くるし》めて酷《ひど》く辛《つら》かつた。彼《かれ》は俄《にはか》に目《め》を蹙《しか》めた。
「痛《いて》えのか」おつぎは目敏《めざと》くそれを見《み》て心《こゝろ》もとなげにいつた。おつぎは窶《やつ》れて沈《しづ》んだ卯平《うへい》の側《そば》に居《ゐ》ると、遂《つひ》自分《じぶん》も沈《しづ》んで畢《しま》つて只《たゞ》凝然《ぢつ》と悚《すく》んだやうに成《な》つて居《ゐ》るより外《ほか》はなかつた。それでもおつぎは長《なが》い時間《じかん》をさうして空《むな》しく費《つひや》すことは許容《ゆる》されなかつた。
「又《また》來《く》つかんな」とおつぎは沈《しづ》んだ聲《こゑ》でいつて出《で》て行《ゆ》くのを、後《あと》で卯平《うへい》の眥《めじり》からは涙《なみだ》が少《すこ》し洩《も》れて、其《そ》の小《ちひ》さな玉《たま》が暫《しばら》く窶《やつ》れた皺《しわ》に引掛《ひつかゝ》つてさうしてほろりと枕《まくら》に落《お》ちるのであつた。
勘次《かんじ》は一|度《ど》も念佛寮《ねんぶつれう》を顧《かへり》みなかつた。五六|日《にち》過《す》ぎて與吉《よきち》は復《ま》た醫者《いしや》へ連《つ》れられた。醫者《いしや》は穢《きたな》く成《な》つた繃帶《ほうたい》を解《と》いてどろりとした白《しろ》い藥《くすり》を復《ま》た陶製《たうせい》の板《いた》で練《ね》つて貼《は》つた。先頃《さきごろ》のよりも濃《こ》くして貼《は》つたからもう此《こ》れで遠《とほ》い道程《みちのり》を態々《わざ/\》來《こ》なくても此《こ》れを時々《とき/″\》貼《は》つてやれば自然《しぜん》に乾《かわ》いて畢《しま》ふだらうと、其《そ》の白《しろ》い藥《くすり》とそれからガーゼとを袋《ふくろ》へ入《い》れてくれた。與吉《よきち》は俄《にはか》に勢《いきほ》ひづいた。彼《かれ》は時々《とき/″\》卯平《うへい》の側《そば》へも行《い》つた。卯平《うへい》は横臥《わうぐわ》した目《め》に與吉《よきち》の繃帶《ほうたい》を見《み》て其《そ》の心《こゝろ》を痛《いた》めた。
或《ある》日《ひ》與吉《よきち》が行《い》つた時《とき》、先頃《さきごろ》念佛《ねんぶつ》の時《とき》に卯平《うへい》へ酒《さけ》を侑《すゝ》めた小柄《こがら》な爺《ぢい》さんが枕元《まくらもと》に居《ゐ》た。
「おめえ、さうだに力《ちから》落《おと》すなよ、此《こ》らつ位《くれえ》な火傷《やけど》なんぞどうするもんぢやねえ、俺《お》れ癒《なほ》してやつから、どうした彼《あ》ん時《とき》からぢや痛《いた》かあんめえ、彼《あ》の禁厭《まじねえ》で火《ひ》しめしせえすりや奇態《きてえ》だから」さういつて爺《ぢい》さんは佛壇《ぶつだん》の隅《すみ》に置《お》いた燈明皿《とうみやうざら》を出《だ》して其《そ》の油《あぶら》を火傷《やけど》へ塗《ぬ》つた。卯平《うへい》は其《そ》の爲《す》る儘《まゝ》に任《まか》せて動《うご》かなかつた。
「力《ちから》落《おと》しちや駄目《だめ》だから、俺《お》らなんざこんな處《ところ》ぢやねえ、こつちな腕《うで》、馬《うま》に咬《かま》つた時《とき》にや、自分《じぶん》で見《み》ちやえかねえつて云《ゆ》はつたつけが、そんでも俺《お》れ自分《じぶん》で手拭《てねげ》の端《はし》斯《か》う齒《は》で咥《くえ》えてぎいゝつと縛《しば》つて、さうして俺《お》ら馬《うま》曳《ひ》いて來《き》たな、汗《あせ》は豆粒《まめつぶ》位《ぐれえ》なのぼろ/\垂《た》れつけがそんでも到頭《たうとう》我慢《がまん》しつちやつた、何《なん》でも力《ちから》落《おと》しせえしなけりや癒《なほ》んな直《すぐ》だから、年《とし》寄《よ》つちや癒《なほ》りが面倒《めんだう》だの何《なん》だのつてそんなこたあねえから」爺《ぢい》さんは只管《ひたすら》卯平《うへい》の元氣《げんき》を引立《ひきた》てようとした。
「俺《お》らそんだが、さうえ怪我《けが》しても馬《うま》は憎《にく》かねえのよ、馬《うま》に煎《え》れんのが癖《くせ》でひゝんと騷《さわ》いだ處《ところ》俺《お》れ手《てえ》横《よこ》さ出《だ》して抑《おさ》えたもんだから畜生《ちきしやう》見界《みさけえ》もなく噛《かぢ》ツたんだからなあ」と彼《かれ》は酒《さけ》を飮《の》んでは居《ゐ》なかつ
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