ゝ》んで馬《うま》の荷鞍《にぐら》に括《くゝ》つた。其《その》頃《ころ》は草《くさ》というては悉皆《みんな》薙倒《なぎたふ》して麁朶《そだ》でも縛《しば》るやうに中央《ちうあう》を束《つか》ねて馬《うま》に積《つ》むのであつた。雜木林《ざふきばやし》の間《あひだ》に馬《うま》を繋《つな》いだ儘《まゝ》で彼《かれ》は衣物《きもの》を改《あらた》めてあてどもなくぶらつくのが好《す》きであつた。それでも彼《かれ》の強健《きやうけん》な鍛練《たんれん》された腕《うで》は定《さだ》められた一|人分《にんぶん》の仕事《しごと》を果《はた》すのは日《ひ》が稍《やゝ》傾《かたぶ》いてからでも強《あなが》ち難事《なんじ》ではないのであつた。此《こ》の二つの外《ほか》には別段《べつだん》此《こ》れというて數《かぞ》へる程《ほど》他人《たにん》の記憶《きおく》にも残《のこ》つて居《ゐ》なかつた。それでも彼《かれ》の大《おほ》きな躰躯《からだ》と性來《せいらい》の器用《きよう》とは主人《しゆじん》をして比較的《ひかくてき》餘計《よけい》な給料《きふれう》を惜《をし》ませなかつた。彼《かれ》は其《そ》の奉公《ほうこう》して獲《え》た給料《きふれう》を自分《じぶん》の身《み》に費《つひや》して其《そ》の頃《ころ》では餘所目《よそめ》には疑《うたが》はれる年頃《としごろ》の卅|近《ぢか》くまで獨身《どくしん》の生活《せいくわつ》を繼續《けいぞく》した。其《その》間《あひだ》に彼《かれ》は黴毒《ばいどく》を病《や》んだ。一|時《じ》はぶら/\と懶相《だるさう》な蒼《あを》い顏《かほ》もして居《ゐ》たが、病氣《びやうき》は暫《しばら》くして忘《わす》れたやうに其《そ》の強健《きやうけん》な身體《からだ》の何處《どこ》にか潜伏《せんぷく》して畢《しま》つた。彼《かれ》は勿論《もちろん》それを癒《なほ》つたことゝ思《おも》つて居《ゐ》た。其《そ》の内《うち》に彼《かれ》は娶《よめ》をとつて小《ちひ》さな世帶《しよたい》を持《も》つて稼《かせ》ぐことになつた。娶《よめ》は間《ま》もなく懷姙《くわいにん》したが胎兒《たいじ》は死《し》んでさうして腐敗《ふはい》して出《で》た。自分《じぶん》も他人《ひと》も瘡《かさ》ツ子《こ》だといつた。二三|人《にん》生《うま》れたがどれも發育《はついく》しなかつた。それでも幼兒《えうじ》の死《し》ぬのは瘡《かさ》ツ子《こ》だからといふのみで病毒《びやうどく》の慘害《さんがい》を知《し》る筈《はず》もなく隨《したが》つて怖《おそ》れる筈《はず》もなかつた。お品《しな》の母《はゝ》は非常《ひじやう》な貧乏《びんばふ》な寡婦《ごけ》で、足《あし》が立《た》つか立《た》たぬのお品《しな》を懷《ふところ》にして悲慘《みじめ》な生活《せいくわつ》をして居《ゐ》た。それを卯平《うへい》は心《こゝろ》から哀憐《あはれみ》の情《じやう》を以《もつ》て見《み》て居《ゐ》た。お品《しな》の母《はゝ》は百姓《ひやくしやう》としては格別《かくべつ》の働《はたら》きを有《も》たなかつたから、寡婦《ごけ》として獨立《どくりつ》して行《ゆ》くには非常《ひじやう》な困難《こんなん》でなければ成《な》らぬだけ身體《からだ》の何處《どこ》にか軟《やはら》かな容子《ようす》があつて、清潔好《きれいずき》な卯平《うへい》の心《こゝろ》を惹《ひ》いた。何處《どこ》か人懷《ひとなつ》こい處《ところ》があつて只管《ひたすら》に他人《たにん》の同情《どうじやう》に渇《かつ》して居《ゐ》たお品《しな》の母《はゝ》の何物《なにもの》をか求《もと》めるやうな態度《たいど》が漸《やうや》く二人《ふたり》を近《ちか》づけた。
其《そ》の頃《ころ》彼《かれ》の女房《にようばう》は長《なが》い間《あひだ》病氣《びやうき》に惱《なや》まされて居《ゐ》た。病氣《びやうき》は遂《つひ》に恢復《くわいふく》しなかつた。女房《にようばう》は或《ある》年《とし》復《ま》た姙娠《にんしん》して臨月《りんげつ》が近《ちか》くなつたら、どうしたものか數日《すうじつ》の中《うち》に腹部《ふくぶ》が膨脹《ばうちやう》して一|夜《や》の内《うち》にもそれがずん/\と目《め》に見《み》える。女房《にようばう》は横臥《わうぐわ》することも其《そ》の苦痛《くつう》に堪《た》へないで、積《つ》んだ蒲團《ふとん》に倚《よ》り掛《かゝ》つて僅《わづか》に切《せつ》ない呼吸《いき》をついて居《ゐ》た。胎兒《たいじ》を泛《う》かしめた水《みづ》が餘計《よけい》に溜《たま》つたのである。其《そ》の頃《ころ》は醫者《いしや》の手《て》でさへそれをどうすることも出來《でき》なかつた。加之《それのみでなく》彼《かれ》は醫者《いしや》を聘《よ》ぶことが億劫《おつくふ》で、大事《だいじ》な生命《いのち》といふことを考《かんが》へることさへ心《こゝろ》に暇《いとま》を持《も》たなかつた。僥倖《げうかう》にも卵膜《らんまく》を膨脹《ばうちやう》させた液體《みづ》が自分《じぶん》から逃《に》げ去《さ》る途《みち》を求《もと》めて其《そ》の包圍《はうゐ》を破《やぶ》つた。數升《すうしよう》の液體《みづ》が迸《ほとばし》つて、驚《おどろ》いて横《よこた》へた身《み》を蒲團《ふとん》の上《うへ》に浮《う》かさうとした。それと共《とも》に安住《あんぢう》の場所《ばしよ》を失《うしな》うた胎兒《たいじ》は自然《しぜん》に母體《ぼたい》を離《はな》れて出《で》ねばならなかつた。胎兒《たいじ》は勿論《もちろん》死《し》んでさうして手《て》を出《だ》した。其《そ》の時《とき》女房《にようばう》は非常《ひじやう》に疲憊《ひはい》して居《ゐ》たが、我慢《がまん》をするからといつたばかりに卯平《うへい》はぐつと力《ちから》を入《い》れて引《ひ》き出《だ》した。彼《かれ》の惡意《あくい》を有《も》たぬ手《て》が斯《かく》の如《ごと》く残酷《ざんこく》に働《はたら》かされたのは、夫婦《ふうふ》の間《あひだ》には僅《わづか》でも他人《たにん》の手《て》を藉《か》ることに金錢上《きんせんじやう》の恐怖《おそれ》を懷《いだ》かしめられたからであつた。女房《にようばう》はそれでも死《し》なゝかつた。然《しか》し殆《ほと》んど想像《さうざう》されなかつた疼痛《とうつう》が滿身《まんしん》に沁《し》み渡《わた》つた。軈《やが》て非常《ひじやう》な發熱《はつねつ》が伴《ともな》つた。それからといふものは三|年《ねん》も臥《ふせ》つた儘《まゝ》で季節《きせつ》が暖《あたゝ》かに成《な》れば稀《まれ》には蒲團《ふとん》からずり出《だ》して僅《わづか》に杖《つゑ》に縋《すが》つては軟《やはら》かな春《はる》の日《ひ》をさへ刺戟《しげき》に堪《た》へぬやうに眩《まぶ》しがつて居《ゐ》た。
お品《しな》の母《はゝ》との關係《くわんけい》が餘計《よけい》な告口《つげぐち》から女房《にようばう》の耳《みゝ》に入《はひ》つた。其《そ》の頃《ころ》暑《あつ》さに向《む》いて居《ゐ》た所爲《せゐ》でもあつたが女房《にようばう》はそれを苦《く》にし始《はじ》めてからがつかりと窶《やつ》れたやうに見《み》えた。女房《にようばう》が死《し》んだ時《とき》は卯平《うへい》は枕元《まくらもと》に居《ゐ》なかつた。村落《むら》には赤痢《せきり》が發生《はつせい》した。豫防《よばう》の注意《ちうい》も何《なに》もない彼等《かれら》は互《たがひ》に葬儀《さうぎ》に喚《よ》び合《あ》うて少《すこ》しの懸念《けねん》もなしに飮食《いんしよく》をしたので病氣《びやうき》は非常《ひじやう》な勢《いきほ》ひで蔓延《まんえん》したのであつた。卯平《うへい》も患者《くわんじや》の一|人《にん》でさうしてお品《しな》の家《いへ》に惱《なや》んで居《ゐ》た。お品《しな》の母《はゝ》の懇切《こんせつ》な介抱《かいはう》から彼《かれ》は救《すく》はれた。彼《かれ》はどうしても瀕死《ひんし》の女房《にようばう》の傍《かたはら》に病躯《びやうく》を運《はこ》ぶことが出來《でき》なかつた。其《そ》の窶《やつ》れた目《め》の憂《うれ》へるのを彼《かれ》は見《み》るに忍《しの》びなかつたからである。彼《かれ》のさういふ意志《いし》は長《なが》い月日《つきひ》の病苦《びやうく》に嘖《さいな》まれて僻《ひが》んだ女房《にようばう》の心《こゝろ》に通《つう》ずる理由《わけ》がなかつた。さうして女房《にようばう》は激烈《げきれつ》な神經痛《しんけいつう》を訴《うつた》へつゝ死《し》んだ。卯平《うへい》は有繋《さすが》に泣《な》いた。葬式《さうしき》は姻戚《みより》と近所《きんじよ》とで營《いとな》んだが、卯平《うへい》も漸《やつ》と杖《つゑ》に縋《すが》つて行《い》つた。
其《そ》の秋《あき》の盆《ぼん》には赤痢《せきり》の騷《さわ》ぎも沈《しづ》んで新《あたら》しい佛《ほとけ》の數《かず》が殖《ふ》えて居《ゐ》た。墓地《ぼち》には掘《ほ》り上《あ》げた赤《あか》い土《つち》の小《ちひ》さな塚《つか》が幾《いく》つも疎末《そまつ》な棺臺《くわんだい》を載《の》せて居《ゐ》た。大抵《たいてい》は赤痢《せきり》に罹《かゝ》つて漸《やうや》く身體《からだ》に力《ちから》がついたばかりの人々《ひと/″\》が例年《れいねん》の如《ごと》く草刈鎌《くさかりがま》を持《も》つて六|日《か》の日《ひ》の夕刻《ゆふこく》に墓薙《はかなぎ》というて出《で》た。墓《はか》の邊《ほとり》は生《はえ》るに任《まか》せた草《くさ》が刈拂《かりはら》はれて見《み》るから清潔《せいけつ》に成《な》つた。中央《ちうあう》に青竹《あをだけ》の線香立《せんかうたて》が杙《くひ》のやうに立《た》てられて、石碑《せきひ》の前《まへ》には一《ひと》つづゝ青竹《あをだけ》の簀《す》の子《こ》のやうな小《ちひ》さな棚《たな》が作《つく》られた。卯平《うへい》も墓薙《はかなぎ》の群《むれ》に加《くは》はつた。彼《かれ》のまだ力《ちから》ない手《て》に持《も》つた鎌《かま》の刄先《はさき》が女房《にようばう》の棺臺《くわんだい》の下《した》を覗《のぞ》いてからりと渡《わた》つた時《とき》彼《かれ》は悚然《ぞつ》として手《て》を引《ひ》いた。蛇《へび》が身體《からだ》の後半《こうはん》を彼《かれ》の足《あし》もとに現《あらは》して白《しろ》い腹《はら》を見《み》せた。鎌《かま》の刄先《はさき》が蛇《へび》を切《き》つたのである。蛇《へび》は暫《しばら》く凝然《ぢつ》として居《ゐ》て極《きは》めて徐《おもむ》ろに棺臺《くわんだい》の下《した》に隱《かく》れた。卯平《うへい》の顏《かほ》は黄昏《たそがれ》の光《ひかり》に蒼《あを》かつた。彼《かれ》はそれから他出《たしゆつ》することも稀《まれ》になつた。恢復《くわいふく》しかけた病後《びやうご》の疲勞《ひらう》が夜《よる》は粘《ねば》るやうな汗《あせ》を分泌《ぶんぴ》させた。それから八|日目《かめ》に村落《むら》の者《もの》が佛《ほとけ》を迎《むか》へに提灯《ちやうちん》持《も》つて行《い》つた時《とき》は刈《か》り拂《はら》はれた草《くさ》が暑《あつ》いといつても秋《あき》らしくなつた日《ひ》に其《そ》の生殖作用《せいしよくさよう》を急《いそ》がうとして聳然《すつくり》と首《くび》を擡《もた》げて居《ゐ》た。村落《むら》の人々《ひとびと》は好奇心《かうきしん》に驅《か》られて怖《お》づ/\も棺臺《くわんだい》をそつと揚《あ》げて見《み》た。蛇《へび》は依然《いぜん》としてだらりと横《よこ》たはつた儘《まゝ》であつた。人々《ひとびと》は※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた目《め》を見合《みあは》せた。村落《むら》の者《もの》が去《さ》つた後《あと》には小《ちひ》さな青竹《あをだけ》の線香立《せんかうたて》からそこらの石碑《せきひ》の
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