じつかん》ぶら/\と遊《あそ》んで居《ゐ》た。忙《いそが》しい麥蒔《むぎまき》の季節《きせつ》が迫《せま》つて百姓《ひやくしやう》は悉《こと/″\》く畑《はたけ》へ出《で》て居《ゐ》るので晝間《ひるま》は彼《かれ》の相手《あひて》になるものがなかつたのみでなく、今《いま》に働《はたら》かずには居《を》られぬからと陰《かげ》で冷笑《れいせう》を浴《あ》びせて居《ゐ》るのであつた。此《こ》の季節《きせつ》を空《むね》しく費《つひや》すことが一|日《にち》でも非常《ひじやう》な損失《そんしつ》であるといふ見易《みやす》い利害《りがい》の打算《ださん》から彼《かれ》は到頭《たうとう》打《う》ち負《まか》されて復《また》一|所懸命《しよけんめい》に勞働《らうどう》に從事《じうじ》した。彼《かれ》はもう卯平《うへい》と一言《ひとこと》も口《くち》を利《き》かなくなつた。寡言《むくち》なむつゝりとした卯平《うへい》は固《もと》より勘次《かんじ》を顧《かへり》みようともしなかつた。おつぎはそれを心《こゝろ》に苦《くる》しんで見《み》たがそれは到底《たうてい》及《およ》ばぬことであつた。村落《むら》の内《うち》には卯平《うへい》との衝突《しようとつ》がぱつと又《また》傳播《でんぱ》された。然《しか》しそれは分別《ふんべつ》ある壯年《さうねん》の間《あひだ》にのみ解釋《かいしやく》し記憶《きおく》された。其《そ》の事件《じけん》の内容《ないよう》は勘次《かんじ》のおつぎに對《たい》する行爲《かうゐ》を猜忌《さいぎ》と嫉妬《しつと》との目《め》を以《もつ》て臆測《おくそく》を逞《たくま》しくするやうに興味《きようみ》を彼等《かれら》に與《あた》へなかつた。誰《だれ》も自分《じぶん》から彼等《かれら》の間《あひだ》に嘴《くちばし》を容《い》れようとはしない。遠《とほ》い以前《いぜん》から紛糾《こゞら》けて來《き》た互《たがひ》の感情《かんじやう》に根《ね》ざした事件《じけん》がどんな些少《させう》なことであらうとも、決《けつ》して快《こゝろ》よく解決《かいけつ》される筈《はず》でないことを知《し》つて居《ゐ》る人々《ひとびと》は幾《いく》ら愚《おろか》でも自《みづか》ら好《この》んで其《そ》の難局《なんきよく》に當《あた》らうとはしないのであつた。
二二
拂曉《よあけ》の光《ひかり》はまだ行《ゆ》き渡《わた》らぬ。薄《うす》い蒲團《ふとん》にくるまつて居《ゐ》る百姓等《ひやくしやうら》の肌膚《はだ》には寒冷《かんれい》の氣《き》がしみ/″\と透《とほ》つて、睡眠《ねむり》に落《お》ちて居《ゐ》ながら、凡《すべ》てが顎《あご》を掩《おほ》ふまでは無意識《むいしき》に蒲團《ふとん》の端《はし》を引《ひ》いてもぢ/\と動《うご》く頃《ころ》であつた。かん/\と凍《こほ》つて鳴《な》る鉦《かね》の音《ね》が沈《しづ》んだ村落《むら》の空氣《くうき》に響《ひゞ》き渡《わた》つた。希望《きばう》と娯樂《ごらく》とに唆《そゝの》かされて待《ま》つて居《ゐ》た老人等《としよりら》は悉皆《みんな》、其《そ》の左《ひだり》の手《て》に提《さ》げて撞木《しゆもく》で叩《たゝ》いて居《ゐ》る鉦《かね》の響《ひびき》を後《おく》れるな急《いそ》げ/\と耳《みゝ》に聞《き》いた。老人《としより》は何處《どこ》の家《うち》からも一|齊《もい》に念佛寮《ねんぶつれう》を指《さ》して集《あつま》つた。彼等《かれら》は孰《いづ》れも、まだぐつすりと眠《ねむ》つて居《ゐ》る家族《かぞく》の者《もの》には竊《そつ》と支度《したく》をして、動《うご》けぬ程《ほど》褞袍《どてら》を襲《かさ》ねて節制《だらし》なく紐《ひも》を締《し》めて、表《おもて》の戸《と》を開《あ》けるとひやりとする曉《あけ》近《ちか》い外氣《ぐわいき》に白《しろ》い息《いき》を吹《ふ》きながら、大《おほ》きな塊《かたまり》が轉《ころ》がつて行《ゆ》くやうに其《そ》の姿《すがた》を運《はこ》んだ。彼等《かれら》は外《そと》の壁際《かべぎは》から麁朶《そだ》の一|把《は》を持《も》つて行《ゆ》く者《もの》も有《あ》つた。舊暦《きうれき》の二|月《ぐわつ》の半《なかば》に成《な》ると例年《れいねん》の如《ごと》く念佛《ねんぶつ》の集《あつま》りが有《あ》るのである。彼等《かれら》はそれが日輪《にちりん》に對《たい》する報謝《はうしや》を意味《いみ》して居《ゐ》るのでお天念佛《てんねんぶつ》というて居《ゐ》る。彼等《かれら》の口《くち》からさうして村落《むら》の一|般《ぱん》から訛《なま》つて「おで念佛《ねんぶつ》」と喚《よ》ばれた。先驅《さきがけ》の光《ひかり》が各自《てんで》の顏《かほ》を微明《ほのあか》るくして日《ひ》が地平線上《ちへいせんじやう》に其《そ》の輪郭《りんくわく》の一|端《たん》を現《あら》はさうとする時間《じかん》を誤《あやま》らずに彼等《かれら》は揃《そろ》つて念佛《ねんぶつ》を唱《とな》へる筈《はず》なので、まだ凡《すべ》てが夜《よ》の眠《ねむり》から離《はな》れぬ内《うち》に皆悉《みんな》口《くち》を嗽《すゝ》いで待《ま》つて居《ゐ》ねばならぬのである。念佛衆《ねんぶつしう》の内《うち》には選《えら》ばれて法願《ほふぐわん》と喚《よ》ばれて居《ゐ》る二人《ふたり》ばかりの爺《ぢい》さんが、難《むづ》かしくもない萬事《ばんじ》の世話《せわ》をした。法願《ほうぐわん》は凍《こほ》り相《さう》な手《て》に鉦《かね》を提《さ》げてちらほらと大《おほき》な塊《かたまり》のやうな姿《すがた》が動《うご》いて來《く》るまでは力《ちから》の限《かぎ》り辻《つじ》に立《た》つてかん/\と叩《たゝ》くのである。念佛寮《ねんぶつれう》の雨戸《あまど》は空洞《からり》と開《あ》け放《はな》たれて、殊更《ことさら》に身《み》に沁《し》む寒《さむ》さに圍爐裏《ゐろり》には麁朶《そだ》の火《ひ》が焔《ほのほ》を立《た》てた。蔓《つる》のある煤《すゝ》けた鐵瓶《てつびん》が自在鍵《じざいかぎ》から低《ひく》く垂《た》れて焔《ほのほ》を臀《しり》で抑《おさ》へた。ぐるりと圍《かこ》んだ老人《としより》の不恰好《ぶかくかう》な姿《すがた》を火《ひ》は明瞭《はつきり》と見《み》せた。軈《やが》て二|番※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《ばんどり》が遠《とほ》く近《ちか》く鳴《な》いて時間《じかん》が來《き》た。法願《ほふぐわん》は閾《しきゐ》の側《そば》に太鼓《たいこ》を据《す》ゑて、其《そ》の後《うしろ》へ段々《だん/\》と一|同《どう》が坐《すわ》つて一|齊《せい》に聲《こゑ》を合《あは》せた。横《よこ》に据《す》ゑた太鼓《たいこ》を兩手《りやうて》に持《も》つた二|本《ほん》の撥《ばち》が兩方《りやうはう》から交互《かうご》に打《う》つて悠長《いうちやう》な鈍《にぶ》い響《ひゞき》を立《た》てた。撥《ばち》に合《あは》せる一|同《どう》の聲《こゑ》は皺《しな》びて痩《や》せた喉《のど》から出《で》る濁《にご》つた聲《こゑ》であつた。雜然《ざつぜん》たる其《そ》の聲《こゑ》が波《なみ》の如《ごと》く沈《しづ》んで復《ま》た起《おこ》つた。太鼓《たいこ》の撥《ばち》は強《つよ》く打《う》ち輕《かる》く打《う》ち、更《さら》に赤《あか》く塗《ぬ》つた胴《どう》をそつと打《う》つて、さうして又《また》だらり/\と強《つよ》く輕《かる》く打《う》つことを反覆《はんぷく》した。念佛《ねんぶつ》が畢《をは》るまでには段々《だん/\》と遠《とほ》い近《ちか》い木立《こだち》の輪郭《りんくわく》がくつきりとして青《あを》い蜜柑《みかん》の皮《かは》が日《ひ》に當《あた》つた部分《ぶぶん》から少《すこ》しづゝ彩《いろど》られて行《ゆ》くやうに東《ひがし》の空《そら》が薄《うす》く黄色《きいろ》に染《そま》つて段々《だん/\》にそれが濃《こ》く成《な》つて、さうして寒冷《ひやゝか》なうちにもほつかりと暖味《あたゝかみ》を持《も》つたやうに明《あか》るく成《な》つた。念佛《ねんぶつ》の濁《にご》つた聲《こゑ》も明《あか》るく響《ひゞ》いた。地上《ちじやう》を掩《おほ》うた霜《しも》が滅切《めつきり》と白《しろ》く見《み》えて寮《れう》の庭《には》に立《た》てられた天棚《てんだな》の粧飾《かざり》の赤《あか》や青《あを》の紙《かみ》が明瞭《はつきり》として來《き》た。中心《ちうしん》に一|本《ぽん》の青竹《あをだけ》が立《た》てられて其《そ》の先端《せんたん》は青《あを》と赤《あか》と黄《き》との襲《かさ》ねた色紙《いろがみ》で包《つゝ》んである。其《そ》の周圍《しうゐ》には此《こ》れも四|本《ほん》の青竹《あをだけ》が立《た》てられてそれには繩《なは》が張《は》つてある。繩《なは》には注連《しめ》のやうに刻《きざ》んだ其《そ》の赤《あか》や青《あを》や黄《き》の紙《かみ》が一|杯《ぱい》にひら/\と吊《つ》られてある。彼等《かれら》は昨日《きのふ》の内《うち》に一|切《さい》の粧飾《かざり》をして※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》の鳴《な》くのを待《ま》つたのである。其《その》天棚《てんだな》は以前《もと》は立派《りつぱ》な木《き》の柱《はしら》を丁度《ちやうど》小《ちひ》さな家《いへ》の棟上《むねあ》げでもしたやうな形《かたち》に組《く》まれたのであつた。現今《いま》ではそれが無《な》く成《な》つたといふのは、一|度《ど》此《こ》の地《ち》を襲《おそ》うた暴風《ばうふう》の爲《ため》に、厚《あつ》い草葺《くさぶき》の念佛寮《ねんぶつれう》はごつしやりと潰《つぶ》された。其《そ》の時《とき》は幾多《いくた》の民家《みんか》が猶且《やつぱり》非常《ひじやう》な慘害《さんがい》を蒙《かうむ》つて、村落《むら》の凡《すべ》ては自分《じぶん》の凌《しの》ぎが漸《やつ》とのことであつたので、殆《ほと》んど無用《むよう》である寮《れう》の再建《さいこん》を顧《かへり》みるものはなかつた。さういふ間《あひだ》に他人《たにん》の林《はやし》に鉈《なた》を入《い》れねば薪《たきゞ》が獲《え》られぬ貧乏《びんばふ》な百姓等《ひやくしやうら》がこそ/\と寮《れう》の木材《もくざい》を引《ひ》いた。漸《やつ》とのことで現今《いま》の寮《れう》が以前《いぜん》の幾分《いくぶん》の一の大《おほ》きさに再建《さいこん》されるまでには其《そ》の棚《たな》も無残《むざん》な鋸《のこぎり》の齒《は》に掛《かゝ》つて居《ゐ》たのである。それでも、老人等《としよりら》は念佛《ねんぶつ》の復活《ふくくわつ》したことに十|分《ぶん》の感謝《かんしや》と滿足《まんぞく》とを有《も》つた。彼等《かれら》はそこに老後《らうご》に於《お》ける無上《むじやう》の娯樂《ごらく》と慰藉《ゐしや》とを發見《はつけん》しつゝあるのである。
太鼓《たいこ》が撥《ばち》と共《とも》にぽつさりと置《お》かれて悉皆《みんな》窮屈《きうくつ》な圍爐裏《ゐろり》の邊《あたり》に聚《あつま》つた。寮《れう》の内《うち》も明《あか》るく成《な》つて立《た》ち騰《のぼ》る焔《ほのほ》の光《ひかり》が稍《やゝ》消《け》されて來《き》た。近所《きんじよ》の百姓《ひやくしやう》の雨戸《あまど》を開《あ》ける音《おと》が性急《せいきふ》にがたぴしと聞《きこ》えた。庭《には》へおりた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》が欠伸《あくび》でもするやうに身體《からだ》を反《そ》らしながら、放心《うつかり》して居《ゐ》てまだ鳴《な》き足《た》らなかつたといふ容子《ようす》をして喉《のど》の痛《いた》い程《ほど》鳴《な》くのが聞《きこ》えた。何處《どこ》の家《いへ》にも青《あを》い煙《けぶり》が廂《ひさし》を偃《は》うて騰《のぼ》つた。
老人等《としよりら》は一先
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