越《てごし》したな爺樣《ぢさま》だつちつたつて、親《おや》のこと謝罪《あやま》れつちことも云《ゆ》はんねえから何氣《なにげ》なしのことにして押《お》つゝけべぢやねえか、なあ」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》はさういつて卯平《うへい》の狹《せま》い戸口《とぐち》に立《た》つて居《ゐ》た。
「こつちのおとつゝあん、わしも此《こ》れ變《へん》な噺《はなし》だが勘次《かんじ》さんに頼《たの》まれたやうな形《かたち》でまあ來《き》たんだがね、昨日《きのふ》の日暮《ひくれ》とかにそれ、そつちこつち仕《し》たつちことだつけが、勘次《かんじ》さんもそんなに惡《わ》りい心持《こゝろもち》で云《ゆ》つたんでもねえ鹽梅《あんべえ》だし、まあ手《てえ》ついて謝罪《あやま》らせんの何《なん》だのつちことでなく、此《こ》ら其《そ》の場《ば》限《かぎ》りとして仲善《なかよ》くやつて貰《もれ》えてえんだがどうしたもんだんべね、腹《はらあ》立《た》たせんなこら惡《わ》りいかも知《し》んねえが、親子《おやこ》と成《な》つてゝ此《こ》れ、ちつとのことで後《あと》で考《かんげ》へて見《み》ちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」仲裁者《ちうさいしや》は軟《やはら》かにさうして然《しか》も厭《いや》といはれぬやうに打《う》ち解《と》けて突《つ》つ込《こ》んだ。
「なあに俺《お》らあどうもかうもねえんだが、彼《あ》の野郎奴《やらうめ》はあ、何《なん》ぢやねえ、俺《お》れこと邪魔《じやま》なんだから、俺《お》らあ俺《お》れだと思《おも》つてつから管《かま》やしねえが、俺《お》れげ食《く》はせる物《もの》惜《を》しくつて仕《し》やうねえんだから、俺《お》れ家《うち》の物《もの》一粒《ひとつぶ》でも減《へ》らさねえやうに外《ほか》に行《い》つてりやえゝんだんべが、俺《お》れえそれから、俺《お》れことさうだに厭《や》なんだら自分《じぶん》で何處《どこ》さでもけつかつた方《はう》がえゝ、厭《や》だら後《あと》から來《き》た者《もの》出《で》ろつち氣《き》なんだから」卯平《うへい》は銜《くは》へた煙管《きせる》を少《すこ》し顫《ふる》へる手《て》に持《も》つて途切《とぎ》れながら漸《やうや》く此《こ》れだけいつた。
「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻《さつき》もいふ通《とほ》り腹《はら》も立《た》つべえが親子《おやこ》となつて見《み》りや此《こ》れ、えゝことも有《あ》るもんだからなあ、さう云《ゆ》はねえでそれ、わしげ任《まか》せて不承《ふしよう》しさつせえね」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は只《たゞ》反覆《くりかへ》していつた。
「斯《か》うだこた此《こ》れ、默《だま》つてりや隣近所《となりきんじよ》でも分《わか》んねえもんだが勘次等《かんじら》えゝ暫《しばら》く味噌《みそ》せえ無《な》くして置《お》くんだから、一杓子《ひとつちやくし》も有《あ》りやしねえんだ。去年《きよねん》の暮《くれ》にや味噌《みそ》搗《つ》くつちんで俺《お》ら働《はたれ》えた錢《ぜね》で鹽《しほ》迄《まで》買《か》つたんだな、俺《お》れも硬《こえ》え物《も》な噛《か》めねえから味噌《みそ》なくつちや仕《し》やうねえな、俺《お》ら壯《さかり》の頃《ころ》つから味噌《みそ》は好《す》きで味噌《みそ》なくつちやなんぼにも身體《からだ》に力《ちから》つかねえで困《こま》り/\したんだから、麥麹《むぎつかうぢ》は鹽《しほ》まで切《き》つて有《あ》んだから豆《まめ》せえ煮《に》りや直《ぢき》なのに、それ今《いま》んなつたつて搗《つ》くべぢやなし、なんでも俺《お》れ死《し》ねばえゝ位《ぐれえ》にして待《ま》つてんだんべが、此《こ》れ、味噌《みそ》なんざ搗《つ》いたからつてさう直《す》ぐに手《てえ》つけらつるもんぢやなし、俺《お》ら明日《あす》が日《ひ》にも死《し》ぬかどうだか分《わか》りやしねえが、そんでも自分《じぶん》の見《み》てつ處《ところ》で搗《つ》きせえすりや明日《あした》死《し》ぬにしたつて心持《こゝろもち》やえゝから」卯平《うへい》は獨《ひと》り呟《つぶや》くやうにしてそれから
「あん時《とき》搗《つき》せえすりや今頃《いまご》ら食《く》へば食《く》へんのに」と彼《かれ》は其《その》癖《くせ》の舌《した》を鳴《な》らした。
「俺《お》れ小忌々敷《こえめえましい》から打《ぶ》つ飛《と》ばしてやつたに」卯平《うへい》は暫《しばら》く措《お》いて又《また》少《すこ》し聲《こゑ》に力《ちから》を入《い》れていつた。
「さうかね、俺《お》らそんなこた知《し》らなかつたつけが、さうえこた幾《いく》ら懇意《こんい》だ近所《きんじよ》だつちつたつて一々《いち/\》他人《ひと》の飯臺《はんだい》まで蓋《ふた》とつちや見《み》られねえから俺《お》らも知《し》らねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌《みそ》でも何《なん》でもさうえ理由《わけ》ぢやこつちのおとつゝあん好《す》きなやうに搗《つ》かせることにしてな、大豆《でえづ》はそれとつたしすつから行《や》る積《つもり》にせえなりや譯《わけ》ねえ噺《はなし》だな、さうしてこつちのおとつゝあん胸《むね》撫《な》でさつせえ、俺《お》れ惡《わ》りいこた云《ゆ》はねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰《だれ》よりも子奴等《こめら》可哀想《かあいさう》だから、それに同《おな》じもんぢや東《ひがし》の旦那等《だんなら》が耳《みゝ》へは入《い》れたくねえから、さうしさつせえよなあ」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》はさういつて心《こゝろ》では段々《だん/\》に臀《しり》ごみするのであつた。卯平《うへい》は再《ふたゝ》び煙管《きせる》を口《くち》にして沈默《ちんもく》した。南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は勘次《かんじ》を卯平《うへい》の狹《せま》い戸口《とぐち》に導《みちび》いた。勘次《かんじ》は平常《いつも》ならば自分《じぶん》の心《こゝろ》から決《けつ》して形式的《けいしきてき》な和睦《わぼく》を希望《きばう》しなかつた筈《はず》である。彼《かれ》は反目《はんもく》して居《ゐ》るだけならば久《ひさ》しく馴《な》れて居《ゐ》た。然《しか》し彼《かれ》は從來《じゆうらい》嘗《かつ》てなかつた卯平《うへい》の行爲《かうゐ》に始《はじ》めて恐怖心《きようふしん》を懷《いだ》いたのであつた。
「そんぢやねえおとつゝあん、お互《たげえ》に斯《か》う根《ね》に持《も》たねえことにしてね、勘次《かんじ》さんおめえも忙《いそが》しくつて手《てえ》つけねえでたかも知《し》んねえが、麹《かうぢ》も鹽《しほ》まで切《き》つて有《あ》るつちんだから、後《あと》は豆《まめ》※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》るだけのことだし、味噌《みそ》は搗《つ》くことにしてな、斯《か》うえゝ鹽梅《あんべえ》にしてくれさつせえね、先刻《さつき》もいふ通《とほ》りそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は二人《ふたり》を見較《みくら》べるやうにしていつた。勘次《かんじ》は卯平《うへい》の前《まへ》へ出《で》ては只《たゞ》首《くび》を俛《うなだ》れた。卯平《うへい》は凝然《ぢつ》と横《よこ》を向《む》いて勘次《かんじ》をちらりとも見《み》なかつた。彼《かれ》は從來《これまで》とは容子《ようす》が幾分《いくぶん》違《ちが》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は其《そ》の癖《くせ》の舌《した》を鳴《な》らして居《ゐ》たが
「畜生奴《ちきしやうめ》」と只《たゞ》一言《ひとこと》いつた。さうして又《また》暫《しばら》く間《あひだ》を措《お》いて
「畜生《ちきしやう》つちはれんの口惜《くや》しけりや、口惜《くや》しいちつて見《み》た方《はう》がえゝ、原因《もと》はつちへば己奴《うの》が手出《てだ》しすんのが惡《わ》りいんだから」と低《ひく》く然《しか》も鋭《するど》く彼《かれ》は呟《つぶや》いて、芒《すゝき》で裂《さ》いたやうに口《くち》をぎつと閉《と》ぢて畢《しま》つた。勘次《かんじ》は刈《か》られた草《くさ》の如《ごと》く悄然《せうぜん》とした。
「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕《し》やうねえよ、先刻《さつき》も俺《お》れそつから不承《ふしよう》してくろうつて堅《かた》しく云《ゆ》つたんだつけな、そんぢや俺《お》れも困《こま》つから其處《そこ》はお互《たげえ》にかう物《もの》は云《ゆ》はねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」と南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は一|旦《たん》橋渡《はしわた》しをすれば後《あと》は再《ふたゝ》びどうならうともそれは又《また》其《そ》の時《とき》だといふ心《こゝろ》から其處《そこ》は加《い》い加減《かげん》に繕《つくろ》うて遁《にげ》るやうに歸《かへ》つた。彼《かれ》はどちらからも依頼《いらい》された仲裁人《ちうさいにん》ではなかつた。彼等《かれら》は漸次《しば/\》家族《かぞく》の間《あひだ》の殊《こと》に夫婦《ふうふ》の爭《あらそ》ひに深入《ふかいり》して却《かへつ》て雙方《さうはう》から恨《うら》まれるやうな損《そん》な立場《たちば》に嵌《はま》つた經驗《けいけん》があるので、壞《こは》れた茶碗《ちやわん》をそつと合《あは》せるだけの手數《てすう》で巧《たくみ》に身《み》を引《ひ》く方法《はうはふ》と機會《きくわい》とを知《し》つて居《ゐ》た。黄昏《たそがれ》が彼《かれ》に其《そ》の機會《きくわい》を與《あた》へた。
 勘次《かんじ》は彼《かれ》の輕微《けいび》な瘡痍《きず》を假令《たとひ》表面《へうめん》だけでも好《い》いから思《おも》ひ切《き》つて重《おも》く見《み》てさうして彼《かれ》に同情《どうじやう》の言葉《ことば》を惜《をし》まないものを求《もと》めたが、彼《かれ》には些少《すこし》でも其《その》顛末《てんまつ》を聞《き》いてくれべきものは醫者《いしや》と南《みなみ》の亭主《ていしゆ》とより外《ほか》はなかつた。然《しか》し餘《あま》りに能《よ》く瘡痍《きず》其《その》物《もの》の性質《せいしつ》を識別《しきべつ》した醫者《いしや》は、彼《かれ》に其《その》果敢《はか》ない心《こゝろ》を訴《うつた》へる餘裕《よゆう》を與《あた》へずに彼《かれ》を頭《あたま》から壓《おさへ》る樣《やう》に揶揄《からか》うた。彼《かれ》は其處《そこ》に何物《なにもの》をも得《え》ないで遁《にげ》るやうに珊瑚樹《さんごじゆ》の木蔭《こかげ》を出《で》た。南《みなみ》の亭主《ていしゆ》も殊更《ことさら》に彼《かれ》に同情《どうじやう》して慰藉《ゐしや》の言辭《ことば》を惜《をし》まぬ程《ほど》其《その》心《こゝろ》が動《うご》かされなかつたのみでなく、彼《かれ》は寧《むし》ろ仲裁者《ちうさいしや》の地位《ちゐ》に立《た》たねば成《な》らぬことに幾分《いくぶん》の迷惑《めいわく》を感《かん》じた。勘次《かんじ》は決《けつ》して仲裁《ちうさい》を依頼《いらい》しなかつた。彼《かれ》は只《たゞ》自分《じぶん》の調子《てうし》に乘《の》つて噺《はなし》をしてくれることに滿足《まんぞく》を求《もと》めようとしたのみであつた。然《しか》しそれは悉《こと/″\》く徒勞《むだ》であつた。勘次《かんじ》は羞恥《しうち》と恐怖《きようふ》と憤懣《ふんまん》との情《じやう》を沸《わか》したが夫《それ》でも薄弱《はくじやく》な彼《かれ》は、それを僻《ひが》んだ目《め》に表現《へうげん》して逢《あ》ふ人《ひと》毎《ごと》に同情《どうじやう》してくれと強《し》ふるが如《ごと》く見《み》えるのみであつた。百姓《ひやくしやう》の凡《すべ》ては彼《かれ》の心《こゝろ》を推測《すゐそく》する程《ほど》鋭敏《えいびん》な目《め》を有《も》つて居《ゐ》なかつた。彼《かれ》は自棄《やけ》に態《わざ》と繃帶《ほうたい》の手《て》を抱《だ》いて數日間《すう
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