》つたばかしならつる/\して足《あし》引《ひ》つ掛《かゝ》んねえもんだが雨《あめ》は降《ふ》んねえし、そんなこたねえ筈《はず》なんだが、攫《つかま》つてた枝《えだ》ん處《とこ》に蛇《へび》居《ゐ》たとかつて慌《あわ》くつておりべと思《おも》つたつちんだから、いつでもはあ枝《えだ》なんざがさがさやつて天邊《てつぺん》の方《はう》で呶鳴《どな》つたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが酷《ひど》く變《へん》な音《おと》だと思《おも》つて見《み》る内《うち》にや落《おつこち》んな早《は》えゝもんで、困《こま》つたこと出來《でき》たのせ」百姓《ひやくしやう》は乘地《のりぢ》になつていひ續《つゞ》けた。勘次《かんじ》は恐怖《きようふ》の目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて耳《みゝ》を傾《かたむ》けた。
「※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》さ蛇《へび》があがるやうぢや雨《あめ》でもまた降《ふ》らなけりやえゝが、百姓《ひやくしやう》にや大事《でえじ》な處《ところ》なんだからまあ、ちつと續《つゞ》けさせてえもんだが」側《そば》から又《また》一人《ひとり》の怪我人《けがにん》が口《くち》を添《そ》へた。勘次《かんじ》は又《また》其《そ》の噺《はなし》を聞《き》きながら定《さだ》まりない天候《てんこう》の變化《へんくわ》を案《あん》じた。
 軈《やが》て近所《きんじよ》の壯者《わかもの》が來《き》て以前《いぜん》の如《ごと》く怪我人《けがにん》を懷《だ》いた。醫者《いしや》は先刻《さつき》のやうにして怪我《けが》人の恐怖《きようふ》した顏《かほ》を見《み》ながら口《くち》を締《し》めてぎつと其《そ》の手《て》を曳《ひ》いた。怪我人《けがにん》の手《て》はぼぎつと恐《おそ》ろしい音《おと》を立《たて》た。怪我人《けがにん》は只《たゞ》泣《な》き號《さけ》んだ。
「よし/\癒《なほ》つちやつた」醫者《いしや》は手《て》を放《はな》つて、太《ふと》い軟《やは》らか相《さう》な指《ゆび》の腹《はら》で暫《しばら》く揉《も》むやうにしてそれから藥《くすり》を塗《ぬ》つた紙《かみ》を一|杯《ぱい》に貼《は》つて燭奴《つけぎ》のやうな薄《うす》い木《き》の板《いた》を當《あ》てゝぐるりと繃帶《ほうたい》を施《ほどこ》した。
「どのつ位《くれえ》で癒《なほ》つたもんでござんせうね、先生《せんせい》さん」百姓《ひやくしやう》は懸念《けねん》らしく聞《き》いた。
「さう直《す》ぐにや癒《なほ》らねえな」醫者《いしや》は無愛想《ぶあいそ》にいつた。百姓《ひやくしやう》は依然《いぜん》として蒼《あを》い顏《かほ》をしながら怪我人《けがにん》を脊負《しよ》つて歸《かへ》つて行《い》つた。それから二三|人《にん》の療治《れうぢ》が濟《す》んで勘次《かんじ》の番《ばん》に成《な》つた。
「此《こ》りや大層《たいそう》大事《だいじ》にしてあるな」醫者《いしや》は穢《きたな》い手拭《てぬぐひ》をとつて勘次《かんじ》の肘《ひぢ》を見《み》た。鐵《てつ》の火箸《ひばし》で打《う》つた趾《あと》が指《ゆび》の如《ごと》くほのかに膨《ふく》れて居《ゐ》た。
「どうしたんだえ此《こ》ら、夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》でもしたか」醫者《いしや》は毎日《まいにち》百姓《ひやくしやう》を相手《あひて》にして碎《くだ》けて交際《つきあ》ふ習慣《しふくわん》がついて居《ゐ》るので、どつしりと大《おほ》きな身體《からだ》からかういふ戯談《じようだん》も出《で》るのであつた。
「なあにわしやはあ、嚊《かゝあ》に死《し》なれてから七八|年《ねん》にもなんでがすから」勘次《かんじ》は少《すこ》し苦笑《くせう》していつた。
「さうか、そんぢや誰《だれ》に打《ぶ》たれたえ、まあだ壯《さかり》だからそんでも何處《どこ》へか拵《こしら》えたかえ」輕微《けいび》な瘡痍《きず》を餘《あま》りに大袈裟《おほげさ》に包《つゝ》んだ勘次《かんじ》の容子《ようす》を心《こゝろ》から冷笑《れいせう》することを禁《きん》じなかつた醫者《いしや》はかう揶揄《からか》ひながら口髭《くちひげ》を捻《ひね》つた。
「先生《せんせい》さん戯談《じやうだん》いつて、なあにわしや爺樣《ぢいさま》に打《ぶ》たれたんでさ」勘次《かんじ》は只管《ひたすら》に醫者《いしや》の前《まへ》に追求《つゐきう》の壓迫《あつぱく》から遁《のが》れようとするやうにいつた。
 醫者《いしや》はそれからはもう默《だま》つて藥《くすり》を貼《は》つて形《かた》ばかりの繃帶《ほうたい》をした。
「先生《せんせい》さん、わしやまあだ來《き》なくつちやなりあんすめえか」勘次《かんじ》は懸念《けねん》らしい目《め》を以《もつ》て聞《き》いた。
「此《こ》の藥《くすり》をやるから、自分《じぶん》で貼《は》つた方《はう》がえゝ、此《こ》れで癒《なほ》るから」と醫者《いしや》は一袋《ひとふくろ》の藥《くすり》を與《あた》へた。勘次《かんじ》は一|度《ど》整骨醫《せいこつい》の門《もん》を潜《くゞ》つてからは、世間《せけん》には這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に怪我人《けがにん》の數《かず》が有《あ》るものだらうかと絶《た》えず驚愕《おどろき》と恐怖《おそれ》との念《ねん》に壓《あつ》せられて居《ゐ》たが、珊瑚樹《さんごじゆ》の繁茂《はんも》した木蔭《こかげ》から竹《たけ》の垣根《かきね》を往來《わうらい》へ出《で》た時《とき》彼《かれ》は身《み》も心《こゝろ》も俄《にはか》に輕《かる》くなつたことを感《かん》じた。彼《かれ》は小《ちひ》さな怪我人《けがにん》から聯想《れんさう》して此《こ》れも毎日《まいにち》庭《には》の木《き》を覘《ねら》つて居《ゐ》る與吉《よきち》を憂《うれ》へ出《だ》した。彼《かれ》は脚力《きやくりよく》の及《およ》ぶ限《かぎ》り歸途《きと》を急《いそ》いだ。彼《かれ》は行《ゆ》く/\午前《ごぜん》に見《み》て暫《しばら》く忘《わす》れて居《ゐ》た百姓《ひやくしやう》の活動《くわつどう》を再《ふたゝ》び目前《もくぜん》に見《み》せ付《つけ》られて隱《かく》れて居《ゐ》た憤懣《ふんまん》の情《じやう》が復《ま》た勃々《むか/\》と首《くび》を擡《もた》げた。彼《かれ》は自分《じぶん》の瘡痍《きず》が輕《かる》く醫者《いしや》から宣告《せんこく》された時《とき》は何《なん》となく安心《あんしん》されたのであつたが、然《しか》し又《また》漸次《だんだん》道程《みちのり》を運《はこ》びつゝ種々《いろいろ》な雜念《ざふねん》が湧《わ》くに連《つ》れて、失望《しつばう》と不滿足《ふまんぞく》を心《こゝろ》に懷《いだ》きはじめた。彼《かれ》は家《いへ》に歸《かへ》つた後《のち》瘡痍《きず》を重《おも》く見《み》せ掛《か》けようとするのには醫者《いしや》の診斷《しんだん》が寸毫《すんがう》も彼《かれ》に味方《みかた》して居《ゐ》なかつたからである。
 彼《かれ》の家《いへ》に歸《かへ》つたのは日《ひ》が西《にし》に連《つらな》つた雜木林《ざふきばやし》の上《うへ》に傾《かたむ》かうとした頃《ころ》であつた。彼《かれ》は只《たゞ》其《その》儘《まゝ》に自分《じぶん》の怪我《けが》と其《その》事實《じじつ》とを掩《おほ》うて置《お》くのが残《のこ》り惜《をし》い心持《こゝろもち》がした。それで彼《かれ》は其《そ》の足《あし》で直《すぐ》に南《みなみ》の家《いへ》へ行《い》つた。脚絆《きやはん》と草鞋《わらぢ》とで身《み》を堅《かた》めた勘次《かんじ》の容子《ようす》を不審《ふしん》に思《おも》つた南《みなみ》の亭主《ていしゆ》へ勘次《かんじ》は突然《とつぜん》訴《うつた》へるやうにいつた。
「俺《お》ら、爺樣《ぢいさま》に鐵火箸《かなひばし》で打《ぶ》つ飛《と》ばさつて、骨接《ほねつぎ》へ行《い》つて來《き》た處《とこ》だが、忙《いそが》し處《ところ》酷《ひで》え目《め》に逢《あ》つちやつた」勘次《かんじ》はそれでも口《くち》が澁《しぶ》つて思《おも》ふ樣《やう》にいへなかつた。南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は態々《わざ/\》來《き》て噺《はなし》をされては棄《す》てゝ顧《かへり》みぬことも出來《でき》なかつた。
「どうしたつちんでえまあ、勘次《かんじ》さん」幾《いく》らか態《わざ》とらしく驚《おどろ》いたやうに聞《き》いた。
「昨日《きのふ》の日暮《ひぐれ》に俺《お》れ野《の》らから歸《けえ》つて來《き》たら爺樣《ぢさま》※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》げ餌料《ゑさ》撒《ま》えてやつてつから見《み》たら、米《こめ》交《ま》ぜて置《お》いた食稻《けしね》の方《ほう》掻《か》ん出《だ》して撤《ま》いてんぢやねえけ、夫《それ》から俺《お》らもそれ遣《や》つたんぢや畢《をへ》ねつちつたな、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》げやんなそつちに別《べつ》にして有《あ》んだから撒《ま》いてやんだらそつちのがにして呉《く》ろつちつたのよ、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》げなんざ勿體《もつてい》ねえな、さうしたらいきなり鐵火箸《かなひばし》で俺《お》れこと打《ぶ》つ飛《と》ばして、汝《わ》りや俺《おれ》げ食《く》はせんのせえ惜《をし》いつ位《くれえ》だから※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》げやつてせえ其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》こと云《ゆ》へやがんだんべなんて、※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《お》ら放心《うつかり》してたもんだから逃《に》げ間《ま》にやあねえで、此《こ》れかうえに怪我《けが》しつちやつたな、今《いま》蒔物《まきもの》の忙《いそが》しい處《ところ》へ打《ぶ》つ込《こ》んで、何處《どこ》までも癒《なほ》んねえやうでもしやうねえから朝《あさ》つ稼《かせ》ぎに骨接《ほねつぎ》へ行《え》つたんだが、遠《とほ》いのにそれに行《え》つて見《み》つと怪我人《けがにん》が來《き》て居《ゐ》てちよつくらぢやねえもんだから、隨分《ずいぶん》急《えそ》えだ積《つもり》だつけがこんなに遲《おそ》くなつちやつて、何《なん》ちつても日《ひ》は短《みじか》くなつたかんな、さう云《ゆ》つても怪我人《けがにん》ちや有《あ》るもんだな、」勘次《かんじ》は漸《やうや》くさうして仔細《しさい》に事《こと》の顛末《てんまつ》を打《う》ち明《あ》けた。
「そんだが怪我《けが》は大變《たいへん》なこたねえのか」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》はそれも義理《ぎり》だといふやうに聞《き》いた。
「うむ」と勘次《かんじ》はいひ淀《よど》んだ。南《みなみ》の亭主《ていしゆ》は其《そ》の理由《わけ》を覺《さと》ることは出來《でき》ないのみでなく、其《そ》のいひ澱《よど》んだことを不審《ふしん》に思《おも》ふ心《こゝろ》さへ起《おこ》さぬ程《ほど》放心《うつかり》と聞《き》いて居《ゐ》た。
「そんで爺樣《ぢさま》はどうしたつちんでえ」南《みなみ》の亭主《ていしゆ》はそれから先《さき》を聞《き》いた。
「俺《お》ら朝《あさ》つぱら出掛《でかけ》つちやつてまあだ行逢《えきや》えもしねえから、どうするつちんだか分《わか》んねえが、どうせ甘《うめ》え面付《つらつき》もしちや居《え》らんめえな、此《こ》んで怪我《けが》なんぞさせてえゝ心持《こゝろもち》ぢやあんめえな、さうぢやねえけ」勘次《かんじ》はだん/\勢《いきほ》ひがついていつた。
「そんぢや噺《はなし》はどうゆ姿《なり》にもして置《お》かなくつちやしやうあんめえな、俺《お》れまあ噺《はなし》はして見《み》つから、どつちがどうのかうのつちつたつて仕《し》やうねえし、まさかおめえ手
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