器《はりき》の水《みづ》を日《ひ》に翳《かざ》して發見《はつけん》した一|點《てん》の塵芥《ごみ》であつた。
 勘次《かんじ》は田圃《たんぼ》が竭《つ》きた時《とき》村落《むら》を過《す》ぎて臺地《だいち》へ出《で》た。村落《むら》の垣根《かきね》には稻《いね》を掛《か》けて居《ゐ》る人々《ひとびと》があつた。道《みち》行《ゆ》く人《ひと》を見《み》たがる癖《くせ》の彼等《かれら》は皆《みな》忙《いそが》しげな勘次《かんじ》を見《み》た。勘次《かんじ》は他人《ひと》が自分《じぶん》を見《み》ることを知《し》つた時《とき》肘《ひぢ》を復《ま》た叮嚀《ていねい》に抱《だ》いた。臺地《だいち》には林《はやし》の間《あひだ》に陰氣《いんき》な畑《はたけ》が開墾《かいこん》されてあつた。彼《かれ》は開墾地《かいこんち》の土質《どしつ》と作物《さくもつ》とを非常《ひじやう》な注意《ちうい》で見《み》た。又《また》村落《むら》があつて廣《ひろ》い畑《はたけ》が展開《てんかい》した。畑《はたけ》は陸稻《をかぼ》を刈《か》つた儘《まゝ》の處《ところ》が幾《いく》らもあつた。彼《かれ》は陸稻《をかぼ》の刈株《かりかぶ》を叮嚀《ていねい》に草鞋《わらぢ》の先《さき》で蹂《ふ》んで見《み》た。百姓《ひやくしやう》がちらほらと動《うご》いて麥《むぎ》を蒔《ま》くべき土《つち》が清潔《せいけつ》に耕《たがや》されつゝある。畑《はたけ》の黒《くろ》い土《つち》は彼等《かれら》の技巧《ぎかう》を發揮《はつき》して叮嚀《ていねい》に耕《たがや》されゝば日《ひ》がまだそれを乾《ほ》さない内《うち》は只《たゞ》清潔《せいけつ》で快《こゝろ》よい感《かん》じを見《み》る人《ひと》の心《こゝろ》に與《あた》へるのである。
 さういふ村落《むら》を包《つゝ》んで其處《そこ》にも雜木林《ざふきばやし》が一|帶《たい》に赭《あか》くなつて居《ゐ》る。他《た》に先立《さきだ》つて際《きは》どく燃《も》えるやうになつた白膠木《ぬるで》の葉《は》が黒《くろ》い土《つち》と遠《とほ》く相《あひ》映《えい》じて居《ゐ》る。勘次《かんじ》は自分《じぶん》の麥《むぎ》を蒔《ま》くべき畑《はたけ》の用意《ようい》がまだ十|分《ぶん》でないことを思《おも》つた。彼《かれ》は前年《ぜんねん》寒《さむ》さが急《きふ》に襲《おそ》うた時《とき》、種《たね》蒔《ま》く日《ひ》が僅《わづか》に二日《ふつか》の相違《さうゐ》で後《おく》れた麥《むぎ》の意外《いぐわい》に收穫《しうくわく》の減少《げんせう》した苦《にが》い經驗《けいけん》を忘《わす》れ去《さ》ることが出來《でき》なかつた。彼《かれ》は標準《へうじゆん》として教《をし》へられた其《そ》の日《ひ》を外《はづ》すことなく麥《むぎ》は蒔《ま》かねばならぬものと覺悟《かくご》をして居《ゐ》るのである。それと共《とも》に一|日《にち》でも斯《か》うして時間《じかん》を空費《くうひ》する自分《じぶん》の瘡痍《きず》に就《つ》いて彼《かれ》は深《ふか》く悲《かな》しんだ。然《しか》しそれで居《ゐ》ながら彼《かれ》は悲痛《ひつう》から來《く》る憤懣《ふんまん》の情《じやう》が、只《たゞ》其《その》瘡痍《きず》を何人《なんぴと》にも實際《じつさい》以上《いじやう》に重《おも》く見《み》せもし見《み》られもしたい果敢《はか》ない念慮《ねんりよ》を湧《わ》かしむることより外《ほか》に何物《なにもの》をも有《も》たなかつた。彼《かれ》は殆《ほと》んど絶對《ぜつたい》に同情《どうじやう》と慰藉《ゐしや》とに渇《かつ》して居《ゐ》たのである。
 畑《はたけ》の黒《くろ》い土《つち》にはぽつ/\と大根《だいこん》の葉《は》が繁《しげ》つて居《ゐ》る。周圍《しうゐ》に冴《さ》えた青《あを》い物《もの》は大根《だいこん》の葉《は》のみである。大根《だいこん》の葉《は》は、一|旦《たん》地上《ちじやう》の緑《みどり》を奪《うば》うて透徹《とうてつ》した空《そら》が其《そ》の濃厚《のうこう》な緑《みどり》を沈澱《ちんでん》させて地上《ちじやう》に置《お》いた結晶體《けつしやうたい》でなければならぬ。晩秋《ばんしう》の氣《き》は只管《ひたすら》に沈《しづ》まうとのみして居《ゐ》る。生殖作用《せいしよくさよう》を畢《をは》つた凡《すべ》ての作物《さくもつ》の穗先《ほさき》は悉皆《みんな》もう俛首《うなだ》れて居《ゐ》る。蟲《むし》の聲《こゑ》も地《ち》に沁《し》み入《い》らうとして居《ゐ》る。獨《ひと》り爽《さわや》かな緑《みどり》を與《あた》へられた大根《だいこん》の葉《は》も、幾《いく》ら成長《せいちやう》しても強《つよ》く引《ひ》き締《し》める晩秋《ばんしう》の氣《き》を受《う》けて地《ち》にひつゝくやうにして漸《やつ》と斜《なゝめ》に廣《ひろ》がるのみで、毫《すこし》でも高《たか》く立《た》ち昇《のぼ》ることを許容《ゆる》されて居《を》らぬ。恁《か》うして畑《はたけ》の土《つち》は只《たゞ》冷《つめ》たく凍《こほ》るのを待《ま》つて居《ゐ》るのである。
 勘次《かんじ》は漸《やうや》く整骨醫《せいこつい》の門《もん》に達《たつ》した。整骨醫《せいこつい》の家《いへ》はがら竹《たけ》の垣根《かきね》に珊瑚樹《さんごじゆ》の大木《たいぼく》が掩《おほ》ひかぶさつて陰氣《いんき》に見《み》えて居《ゐ》た。戸板《といた》を三|角形《かくけい》に合《あは》せて駕籠《かご》のやうに拵《こしら》へたのが垣根《かきね》の内《うち》に置《お》かれてあつた。誰《たれ》か重《おも》い怪我人《けがにん》が運《はこ》ばれたのだと勘次《かんじ》は直《す》ぐに悟《さと》つてさうして何《なん》だか悚然《ぞつ》とした。彼《かれ》は業々《げふ/\》しい自分《じぶん》の扮裝《いでたち》に恥《は》ぢて躊躇《ちうちよ》しつゝ案内《あんない》を請《こ》うた。ぽつさりとして玄關《げんくわん》に待《ま》つて居《ゐ》るのは悉皆《みんな》怪我人《けがにん》ばかりである。首《くび》から白《しろ》い布片《きれ》を吊《つ》つて此《こ》れも白《しろ》く繃帶《ほうたい》した手《て》を持《も》たせたものもあつた。其處《そこ》に蒼《あを》い顏《かほ》をしてぐつたりと横《よこた》はつて居《ゐ》るものもあつた。勘次《かんじ》は怪我人《けがにん》の後《うしろ》に隱《かく》れるやうにして自分《じぶん》の番《ばん》になるのを待《ま》ちながら周邊《あたり》が何《なん》となく藥臭《くすりくさ》くて恐《おそ》ろしいやうな感《かん》じに囚《とら》はれた。醫者《いしや》は一人《ひとり》の患部《くわんぶ》を軟《やはら》かに柔《も》んでやつて居《ゐ》たが勘次《かんじ》をちらと見《み》た。勘次《かんじ》は何《なん》だか睨《にら》まれたやうに感《かん》じた。醫者《いしや》は爼板《まないた》のやうな板《いた》の上《うへ》に黄褐色《くわうかつしよく》な粉藥《こぐすり》を少《すこ》し出《だ》して、白《しろ》い糊《のり》と煉《ね》り合《あは》せて、罎《びん》の酒《さけ》のやうな液體《えきたい》でそれを緩《ゆる》めてそれから長《なが》い鋏《はさみ》で白紙《はくし》を刻《きざ》んで、眞鍮《しんちう》の箆《へら》で其《その》藥《くすり》を紙《かみ》へ塗抹《ぬ》つて患部《くわんぶ》へ貼《は》つてやつた。怪我人等《けがにんら》は只《たゞ》凝然《ぢつ》として醫者《いしや》の熟練《じゆくれん》した手《て》もとを凝視《ぎようし》した。勘次《かんじ》は他人《ひと》の後《うしろ》から爪立《つまだて》をした。二三|人《にん》小《ちひ》さな療治《れうぢ》が濟《す》んで十二三の男《をとこ》の子《こ》が仕事衣《しごとぎ》の儘《まゝ》な二十四五の百姓《ひやくしやう》に負《お》はれて醫者《いしや》の前《まへ》に据《す》ゑられた。醫者《いしや》は縁側《えんがは》の明《あか》るみへ座蒲團《ざぶとん》を敷《し》いて出《で》た。怪我人《けがにん》は醫者《いしや》の前《まへ》へ出《で》ると恐怖《きようふ》に襲《おそ》はれたやうに俄《にはか》に鳴咽《をえつ》した。醫者《いしや》は横《よこ》に膨《ふく》れた大《おほき》な身體《からだ》でゆつたりと胡坐《あぐら》をかいた儘《まゝ》怪我人《けがにん》の左《ひだり》の手《て》を捲《まく》つて見《み》た。怪我人《けがにん》の上膊《じやうはく》が挫折《ざせつ》してぶらりと垂《た》れて居《ゐ》た。醫者《いしや》は怪我人《けがにん》の患部《くわんぶ》に手《て》を觸《ふ》れて見《み》て
「お前《まへ》そつち持《も》つて」と簡單《かんたん》に顎《あご》で百姓《ひやくしやう》へ指圖《さしづ》した。百姓《ひやくしやう》は怖《お》づ/\怪我人《けがにん》の後《うしろ》へ廻《まは》つて蒼《あを》い顏《かほ》をして抱《だ》いた。
「えゝか、ぎつと抱《だ》いてるんだぞ」醫者《いしや》は足《あし》を怪我人《けがにん》の腹部《ふくぶ》に當《あ》てゝ兩手《りやうて》に挫折《ざせつ》した手《て》を持《も》つて曳《ひ》かうとした。怪我人《けがにん》は恐《おそ》ろしさにわつと聲《こゑ》を放《はな》つて泣《な》いた。醫者《いしや》は手《て》を止《と》めた。
「お前《まへ》兄貴《あにき》だな、そんぢやえゝ、徒勞《むだ》だ」と抱《だ》いた手《て》を放《はな》たしめた。百姓《ひやくしやう》は骨肉《こつにく》の勦《いたは》りが泣《な》き號《さけ》ぶ子《こ》をぎつと力《ちから》を籠《こ》めて曳《ひ》かせない。そんな思《おも》ひきつた手段《しゆだん》に加《くは》はることは出來《でき》ないのであつた。百姓《ひやくしやう》は泣《な》けば泣《な》く程《ほど》手《て》を緩《ゆる》めた。醫者《いしや》はそれで徒勞《むだ》だといつた。百姓《ひやくしやう》は只《たゞ》蒼《あを》い顏《かほ》をしてぼつとして居《ゐ》るのみであつた。
 醫者《いしや》は更《さら》に家族《かぞく》に命《めい》じて近所《きんじよ》の壯者《わかもの》を喚《よ》びにやつた。
「木《き》から落《おつこ》つたな」醫者《いしや》は百姓《ひやくしやう》に聞《き》いた。
「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか分《わか》んねえから畑《はたけ》耕《うな》つてた儘《まゝ》衣物《きもの》も着《き》ねえで斯《か》うして負《おぶ》つて來《き》たんだが」と百姓《ひやくしやう》はいつて、それから
「わし※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》さ登《のぼ》んな見《み》てたんだつけが、落《おつこ》つたから驅《か》けてつて見《み》たら、目《めえ》引《ひ》つゝけつちやつて、そんでも暫《しばら》く經《た》つたら泣《な》き出《だ》したんでわし抱《だ》き起《おこ》して手《て》へ觸《さは》つたら、痛《い》てえ/\つちから捲《まく》つて見《み》たら、斯《か》うぶらんと成《な》つたつ切《きり》でわしもはあ、魂消《たまげ》つちやつて」百姓《ひやくしやう》は只管《ひたすら》に慌《あわ》てゝいつた。
「本當《ほんたう》に此處《こゝ》へ來《き》て居《ゐ》ちや毎日《まいんち》のやうに木《き》から落《おつこ》つたつち怪我人《けがにん》が來《く》んだよまあ、椎《しひ》の木《き》から落《おつこ》つたの栗《くり》の木《き》から落《おつこ》つたのつて、子供《こども》の怪我《けが》は大概《てえげえ》さうなんだから、男《をとこ》つ子《こ》持《も》つちや心配《しんぺえ》さねえ、そんだがこれ、怪我《けが》つちや過《えゝまち》だから、わし等《ら》も下駄《げた》穿《は》きながらひよえつと轉《ころ》がつた丈《だけ》で手《て》つ首《くび》折《をつちよ》れたんだなんて」と側《そば》に居《ゐ》た婆《ばあ》さんがいつた。
「わし等《ら》がも毎日《まいんち》のやうに※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》さ登《のぼ》つてゝ木登《きのぼ》りは上手《じやうず》なんだから、それも雨《あめ》でも降《ふ
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