桶《をけ》で洗《あら》つた青菜《あをな》は、地《ち》べたへ横《よこた》へた梯子《はしご》の上《うへ》に一|枚《まい》外《はづ》して行《い》つて載《の》せた其《その》戸板《といた》へ積《つ》まれた。菜《な》が洗《あら》ひ畢《をは》つた時《とき》枯葉《かれは》の多《おほ》いやうなのは皆《みな》釜《かま》で茹《ゆ》でゝ後《うしろ》の林《はやし》の楢《なら》の幹《みき》へ繩《なは》を渡《わた》して干菜《ほしな》に掛《か》けた。自分等《じぶんら》の晝餐《ひる》の菜《さい》にも一釜《ひとかま》茹《ゆ》でた。お品《しな》は僅《わづか》な日數《ひかず》を横《よこ》に成《な》つて居《ゐ》たばかりに目《め》が衰《おとろ》へたものか日《ひ》の稍《やゝ》眩《まぶし》いのを感《かん》じつゝ其《そ》の日《ひ》の光《ひかり》を全身《ぜんしん》に浴《あ》びながら二人《ふたり》のするのを見《み》て居《ゐ》た。さうして茹菜《ゆでな》の一皿《ひとさら》が幾《いく》らか渇《かつ》を覺《おぼ》えた所爲《せゐ》か非常《ひじやう》に佳味《うま》く感《かん》じた。
青菜《あをな》の水《みず》が切《き》れたので勘次《かんじ》は桶《をけ》へ鹽《しほ》を振《ふ》つては青菜《あをな》を足《あし》でぎり/\と蹂《ふ》みつけて又《また》鹽《しほ》を振《ふ》つては蹂《ふ》みつける。お品《しな》は鹽《しほ》の加減《かげん》やら何《なに》やら先刻《さつき》から頻《しき》りに口《くち》を出《だ》して居《ゐ》る。勘次《かんじ》はお品《しな》のいふ通《とほ》りに運《はこ》んで居《ゐ》る。
お品《しな》は起《お》きて居《ゐ》ても別《べつ》に疲《つか》れもしないのでそつと草履《ざうり》を穿《は》いて後《うしろ》の戸口《とぐち》から出《で》て楢《なら》の木《き》へ引《ひ》つ張《ぱ》つた干菜《ほしな》を見《み》た。それから林《はやし》を斜《なゝめ》に田《た》の端《はた》へおりて又《また》牛胡頽子《うしぐみ》の側《そば》に立《た》つて其處《そこ》をそつと踏《ふ》み固《かた》めた。それから暫《しばら》く周圍《あたり》を見《み》て立《た》つて居《ゐ》た。お品《しな》は庭先《にはさき》から喚《よ》ぶ勘次《かんじ》の大《おほ》きな聲《こゑ》を聞《き》いた。竹《たけ》や木《き》の幹《みき》に手《て》を掛《か》けながら斜《なゝ》めに林《はやし》をのぼつて後《うしろ》の戸口《とぐち》から家《うち》へもどつた時《とき》更《さら》に叫《さけ》んだ勘次《かんじ》の聲《こゑ》を聞《き》くと共《とも》に、天秤《てんびん》を擔《かつ》いだ儘《まゝ》ぼんやり立《た》つて居《ゐ》る商人《あきんど》の姿《すがた》を庭葢《にはぶた》の上《うへ》に見《み》た。
「お品《しな》卵《たまご》欲《ほ》しいと」勘次《かんじ》は次《つぎ》の桶《をけ》の青菜《あをな》に鹽《しほ》を振《ふ》り掛《か》けながらいつた。
「幾《いく》らか有《あ》つたつけな」お品《しな》は戸棚《とだな》の抽斗《ひきだし》から白《しろ》い皮《かは》の卵《たまご》を廿ばかり出《だ》した。
「おつう、四五日|見《み》ねえで居《ゐ》たつけが塒《とや》にも幾《いく》らか有《あ》つたつけべ、あがつて見《み》ねえか」おつぎに吩附《いひつ》けた。おつぎは米俵《こめだはら》へ登《のぼ》つて其《その》上《うへ》に低《ひく》く釣《つ》つた竹籃《たけかご》の塒《とや》を覗《のぞ》いた時《とき》、牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《めんどり》が一|羽《は》けたゝましく飛《と》び出《だ》して後《うしろ》の楢《なら》の木《き》の中《なか》へ鳴《な》き込《こ》んだ。他《た》の鷄《にはとり》も一しきり共《とも》に喧《やかま》しく鳴《な》いた。おつぎは手《て》を延《の》ばしては卵《たまご》を一つ/\に取《と》つて袂《たもと》へ入《い》れた。おつぎは袂《たもと》をぶら/\させて危相《あぶなさう》に米俵《こめだはら》を降《お》りた。其處《そこ》にも卵《たまご》は六つばかりあつた。商人《あきんど》は卸《おろ》した四|角《かく》なぼて笊《ざる》から眞鍮《しんちう》の皿《さら》と鍵《かぎ》が吊《つる》された秤《はかり》を出《だ》した。
「掛《かけ》は幾《いく》らだね」お品《しな》は聞《き》いた。
「十一|半《はん》さ、近頃《ちかごろ》どうも安《やす》くつてな」商人《あきんど》はいひながら淺《あさ》い目笊《めざる》へ卵《たまご》を入《い》れて萠黄《もえぎ》の紐《ひも》のたどり[#「たどり」に傍点]を持《も》つて秤《はかり》の棹《さを》を目《め》八|分《ぶ》にして、さうして分銅《ふんどう》の絲《いと》をぎつと抑《おさ》へた儘《まゝ》銀色《ぎんいろ》の目《め》を數《かぞ》へた。玩具《おもちや》のやうな小《ちひ》さな十露盤《そろばん》を出《だ》して商人《あきんど》は
「皆掛《みながけ》が四百廿三|匁《もんめ》二|分《ぶ》だからなそれ」秤《はかり》の目《め》をお品《しな》に見《み》せて十露盤《そろばん》の玉《たま》を彈《はじ》いた。
「風袋《ふうたい》を引《ひ》くと四百八|匁《もんめ》二|分《ぶ》か、どうした幾《いく》つだ廿六かな、さうすると一《ひと》つが」商人《あきんど》のいひ畢《をは》らぬうちにお品《しな》は
「幾《いく》らなんでえ、此《こ》の風袋《ふうたい》は」と聞《き》いた。
「十五|匁《もんめ》だな」
「大概《てえげえ》十|匁《もんめ》ぢやねえけえ」
「そんだら見《み》さつせえそれ、十五|匁《もんめ》だんべ、俺《おら》がな他人《たにん》のがよりや大《え》けえんだかんな」商人《あきんど》は目笊《めざる》の目《め》を掛《か》けて見《み》せて
「はて、一つ十五|匁《もんめ》七|分《ぶ》づゝだ、粒《つぶ》は小《ちひ》せえ方《はう》だな」商人《あきんど》はゆつくり十露盤《そろばん》の玉《たま》を彈《はじ》いて
「四十六|錢《せん》八|厘《りん》六|毛《まう》三|朱《しゆ》と成《な》るんだが、此《こ》りや八|厘《りん》として貰《もら》つてな」と商人《あきんど》は財布《さいふ》から自分《じぶん》の手《て》へ錢《ぜに》を明《あ》けた。
「お品《しな》おめえ自分《じぶん》でも喰《く》つたらよかねえけ、幾《いく》つでも取《と》つて置《お》けな」勘次《かんじ》は鹽《しほ》だらけにした手《て》を止《と》めて遠《とほ》くから呶鳴《どな》つた。
「此《こ》の錢《ぜに》で外《ほか》の物《もの》買《か》つて喰《く》つた方《はう》がえゝから此《こ》れ丈《だけ》は遣《や》るとすべえよ、折角《せつかく》勘定《かんぢやう》もしたもんだからよ、俺《お》ら大層《たえそ》よくなつたんだから大丈夫《だえぢよぶ》だよ」お品《しな》はいつた。
「そんなこといはねえで幾《いく》つでも取《と》つて置《お》けよ、癒《なほ》り際《ぎは》が氣《き》を附《つ》けねえぢやえかねえもんだから」勘次《かんじ》は漬菜《つけな》の手《て》を放《はな》して檐下《のきした》へ來《き》た。手《て》も足《あし》も茹《ゆ》でたやうに赤《あか》くなつて居《ゐ》る。
「それぢやちつとも殘《のこ》したものかな」お品《しな》は小《ちひ》さなのを二つ取《と》つた。
「そんなんぢやねえのとれな」勘次《かんじ》は大《おほ》きなのを選《えら》んで三つとつた。卵《たまご》の皮《かは》には手《て》の鹽《しほ》が少《すこ》し附《つ》いた。
「そんぢやそれ掛《か》けてんべ」商人《あきんど》は今度《こんど》は眞鍮《しんちう》の皿《さら》へ卵《たまご》を乘《の》せて
「こつちなんぞぢや、後《あと》幾《いく》らでも出來《でき》らあな」といひながらたどり[#「たどり」に傍点]を持《も》つた。卵《たまご》が少《すこ》し動《うご》くと秤《はかり》の棹《さを》がぐら/\と落付《おちつ》かない。
「誤魔化《ごまくわ》しちや厭《や》だぞ」お品《しな》は寂《さび》しく笑《わら》ひながらいつた。
「どうしておめえ、此《こ》の秤《はかり》なんざあ檢査《けんさ》したばかりだもの一|分《ぶ》でも此《こ》の通《とほ》り跳《は》ねたり垂《た》れたりして、どうして飛《と》んだ噺《はなし》だ」商人《あきんど》は分銅《ふんどう》の手《て》を抑《おさ》へて又《また》目《め》を讀《よ》んだ。
「五十|匁《もんめ》一|分《ぶ》だな、さうすつと一《ひと》つ十六|匁《もんめ》七|分《ぶ》づゝだ、大《え》けえからな」
「鹽《しほ》がくつゝいてつから鹽《しほ》の目方《めかた》もあんぞ」勘次《かんじ》は側《そば》からいつて笑《わら》つた。商人《あきんど》は平然《へいぜん》として居《ゐ》る。
「五|錢《せん》五|厘《りん》六|毛《まう》幾《いく》らつていふんだ、さうすつと先刻《さつき》のは幾《いく》らの勘定《かんぢやう》だつけな」
「四十六|錢《せん》八|厘《りん》幾《いく》らとか言《いつ》たつけな」お品《しな》は直《すぐ》にいつた。
「それぢや差引《さしひき》四十一|錢《せん》三|厘《りん》小端《こばし》か、こつちのおつかさま自分《じぶん》でも商《あきねえ》してつから記憶《おべえ》がえゝやな」商人《あきんど》は十露盤《そろばん》を持《も》つて
「どうしたえ、鹽梅《あんべえ》でも惡《わり》いやうだが風邪《かぜ》でも引《ひ》いたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、少《すこ》し惡《わる》くつて仕《し》やうねえのよ」お品《しな》はいつて
「小端《こばし》は幾《いく》らになんでえ」と更《さら》に聞《き》いた。
「勘定《かんぢやう》にや成《な》んねえなどうも、近頃《ちかごろ》は仕《し》やうねえよ文久錢《ぶんきうせん》だの青錢《あをせん》だのつちうのが薩張《さつぱり》出《で》なくなつちやつてな、それから何處《どこ》へ行《い》つても恁《かう》して置《お》くんだ」商人《あきんど》がぼて笊《ざる》から燐寸《マツチ》を出《だ》さうとすると
「又《また》燐寸《マツチ》ぢやあんめえ」お品《しな》は微笑《びせう》した。
「こまけえ勘定《かんぢやう》にや近頃《ちかごろ》燐寸《マツチ》と極《き》めて置《お》くんだが、何處《どこ》の商人《あきんど》もさうのやうだな」商人《あきんど》は卵《たまご》を笊《ざる》へ入《い》れながらいひ續《つゞ》けた。
「酷《ひど》く安《やす》くなつちやつたな、寒《さむ》く成《な》つちや保存《もち》がえゝのに却《けえつ》て安《やす》いつちうんだから丸《まる》で反對《あべこべ》になつちやつたんだな」勘次《かんじ》は青菜《あをな》を桶《をけ》へ並《なら》べつゝいつた。
「上海《シヤンハイ》がへえつちやぐつと値《ね》が下《さが》つちやつてな、あつちぢやどれ程《ほど》安《やす》いもんだかよ、品《しな》が少《すく》ねえ時《とき》に安《やす》くなるつちうんだから商人《あきんど》も儲《まう》からねえ」天秤《てんびん》を擔《かつ》いで彼《かれ》は又《また》更《さら》に
「相場《さうば》が下《さ》げ氣味《ぎみ》の時《とき》にやうつかりすつと損物《そんもの》だかんな、なんでも百姓《ひやくしやう》して穀《こく》積《つ》んで置《お》く者《もの》が一|等《とう》だよ、卵拾《たまごひろ》ひもなあ、赤痢《せきり》でも流行《はや》つて來《き》てな、看護婦《かんごふ》だの巡査《じゆんさ》だの役場員《やくばゐん》だのつちう奴等《やつら》病人《びやうにん》の口《くち》でもひねつてみつしり喰《く》つてゞも呉《く》んなくつちや商人《あきんど》は駄目《だめ》だよ」商人《あきんど》は行《ゆ》き掛《か》けて
「また溜《た》めて置《お》いておくんなせえ」今度《こんど》は少《すこ》し叮寧《ていねい》にいひ捨《す》てゝ去《さ》つた。
お品《しな》は錢《ぜに》を蒲團《ふとん》の下《した》の巾着《きんちやく》へ入《い》れた。さうして※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]棚《わくだな》からまるめ[#「まるめ」に傍点]箱を卸《おろ》して三つの白《しろ》い卵《たまご》を入《い》れた。以前《いぜん
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