んじ》も白《しろ》い食鹽《しよくえん》を爪《つめ》の先《さき》で少《すこ》しとつて口《くち》へ入《いれ》た。
「鹽辛《しよつぺ》えやまさか」彼《かれ》は嫣然《につこり》とし乍《なが》ら
「おつう、此《こ》れ藏《しま》つて置《お》け、そんぢや」
といつて更《さら》に
「※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、301−11]等《あねら》も酷《ひど》かんべ野《の》らは」と彼《かれ》はおつたの染《そ》めつゝあつた髮《かみ》が、交《まじ》つた白髮《しらが》をほんのりと見《み》せるまでに藥《くすり》の褪《さ》めて穢《きた》なく成《なつ》つたのを見《み》つゝいつた。
「米《こめ》でも何《なん》でも一粒《ひとつぶ》もとれやしねえのよ」おつたはぽさりとした樣《やう》にいつた。
「汁《しん》の身《み》なんざそんでも、どうにか出來《でき》んのか」
「どうしてよおめえ、青《あを》えもな土手《どて》の草《くさ》ばかしだつて云《ゆ》つてる位《くれえ》だもの、今日《けふ》が今日《けふ》困《こま》つてんだな」
「そんぢや、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、302−2]《あね》げ茄子《なす》か南瓜《たうなす》でもやんべかなあ」勘次《かんじ》は同情《どうじやう》が小《すこ》し動《うご》いたやうにいつた。
「おやそんぢや俺《お》ら家《ぢ》でも葱《ねぎ》の少《すこ》しもあげあんせう」南《みなみ》の女房《にようばう》はいつて桑畑《くはばたけ》の小徑《こみち》を小走《こばし》りに駈《か》けて行《い》つた。
「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに持《も》てやしめえし、米《こめ》でも少《すこ》しやつたらよかんべな、どうせ少《すこ》し經《た》つと陸稻《をかぼ》刈《か》れんだもの」おつぎは口《くち》を添《そ》へた。
「うむさうだなあ」と勘次《かんじ》は南京米《ナンキンまい》の袋《ふくろ》へ米《こめ》を五|升《しよう》ばかり、もう痩《や》せて居《ゐ》る俵《たわら》から量《はか》り出《だ》した。
「挽割麥《ひきわり》もやつたらよかんべな」おつぎは又《また》いつた。
「此《こ》れさ交《ま》ぜてえゝけ」勘次《かんじ》はおつたを顧《かへり》みていつた。
「うむ、一|緒《しよ》にしてくろ」とおつたは軟《やはら》かにいつた。勘次《かんじ》は二《ふた》つを等半《とうはん》に交《ま》ぜてそれから又《また》大《おほ》きな南瓜《たうなす》を三《み》つばかり土間《どま》へ竝《なら》べた。
「そんぢや大層《たえそ》厄介《やつけえ》掛《か》けて濟《す》まねえな、そんぢや俺《お》ら米《こめ》ばかし脊負《しよ》つてつて明日《あした》でも又《また》南瓜《たうなす》はとりに來《く》るとすべえよ、そんぢや此《こ》ら、米《こめ》大變《たいへん》だから俺《お》れが風呂敷《ふろしき》ぢやちつと小《ち》つちえんだが大《え》かえの有《あ》れば貸《か》してくんねえか」おつたはおつぎへいひ掛《か》けた。
「俺《お》ら家《ぢ》にやねえが、爺《ぢい》がな有《あ》つたつけな、おとつゝあ」さういつておつぎは小走《こばし》りに卯平《うへい》の小屋《こや》へ行《い》つた。先刻《さつき》まで見《み》えなかつた卯平《うへい》が何處《どこ》から歸《かへ》つて來《き》たかむつゝりとして獨《ひとり》で煙管《きせる》を噛《かん》で居《ゐ》た。
「爺《ぢい》居《ゐ》たんだな、俺《おら》居《ゐ》ねえけりや默《だま》つて借《か》りてくべと思《おも》つたんだつけが、明日《あした》まで伯母《をば》さん大《え》かえ風呂敷《ふろしき》要《え》るつちから貸《か》してくんねえか、米《こめ》脊負《しよ》つて行《え》くんだから」おつぎは突然《だしぬけ》にいつた。
「うむ」と卯平《うへい》は不器用《ぶきよう》に風呂敷《ふろしき》を出《だ》してさうしておつぎの後《うしろ》からおつたの側《そば》へのつそりと來《き》て立《た》つた。
「此《こ》れまあ、勘次等《かんじら》にも濟《す》まねえつちつてつ處《ところ》さ、わし等《ら》も洪水《みづ》でねえ」おつたは風呂敷《ふろしき》で南京米《なんきんまい》の袋《ふくろ》をきりつと包《つゝ》んだ。
「そんぢや此《こ》の南瓜《たうなす》も俺《お》れ貰《もら》つてえゝんだな、馬鹿《ばか》に大《え》けえ南瓜《たうなす》ぢやねえかな、明日《あした》まで置《お》いてくろうな」おつたは始終《しよつちう》笑顏《えがほ》を作《つく》つて居《ゐ》る處《ところ》へ南《みなみ》の女房《にようばう》は葱《ねぎ》を一束《ひとたば》藁《わら》でくるんだのを抱《かゝ》へて來《き》た。
「どうも濟《す》みませんねこら」おつたは勘次《かんじ》を見《み》て
「どうしたもんだ、たえした葱《ねぎ》ぢやねえか、本當《ほんたう》に濟《す》まねえな、そんぢや此《こ》れも明日《あした》までとつて置《お》いてくろうな」と更《さら》に又《また》臀《しり》を据《す》ゑて一|杯《ぱい》の茶《ちや》を啜《すゝ》つた。
「おやツ、此《こ》の栗《くり》は笑《ゑ》んでんだなはあ」庭先《にはさき》の栗《くり》の梢《こずゑ》に始《はじ》めて目《め》をつけた樣《やう》におつたはいつた。
「此間《こねえだ》からなんでさ、ちつとばかしだが落《お》ちたの有《あ》りあんさ」おつぎは小笊《こざる》の底《そこ》の粒栗《つぶぐり》を出《だ》して
「あつちになけりや持《も》つてつたらようござんせう、大豆《でえづ》もこれ打《ぶ》つた處《ところ》なら持《も》つてくとえゝんでがしたがね」おつぎは快《こゝろよ》くいつた。
「さうだな、そんぢや貰《もら》つて行《え》くかな」おつたは手拭《てぬぐひ》の兩端《りやうはし》へ栗《くり》を括《くゝ》つた。
「こつちのおとつゝあん、此《こ》れわし役場《やくば》から下《さが》つたの持《も》つて來《き》て見《み》たんだが一つ分《わ》けて貰《もら》つたらようがせう、滅多《めつた》ねえ味《あぢ》のもんだから」おつぎが先刻《さつき》藏《しま》ふことを勘次《かんじ》に促《うなが》されてもおつたの手前《てまへ》を憚《はゞか》つた樣《やう》にして其《そ》の儘《まゝ》にして置《お》いた牛肉《ぎうにく》の鑵詰《くわんづめ》の一つをおつたは卯平《うへい》へやつた。卯平《うへい》は窪《くぼ》んだ目《め》を蹙《しか》めるやうにした。勘次《かんじ》は放心《うつかり》した自分《じぶん》の懷《ふところ》の物《もの》を奪《うば》はれた程《ほど》の驚愕《きやうがく》と不快《ふくわい》との目《め》を以《もつ》て卯平《うへい》とおつたとを見《み》た。おつたは重相《おもさう》な風呂敷包《ふろしきづゝみ》をうんと脊負《しよ》つて胸《むね》の結《むす》び目《め》へ兩手《りやうて》を掛《か》けて包《つゝみ》の据《すわ》りを好《よ》くする爲《ため》に二三|度《ど》搖《ゆす》つた。
「そんぢや明日《あした》またお目《め》にかゝりあんせう」おつたは一|同《どう》へ挨拶《あいさつ》して
「此《こ》りやよかつた、本當《ほんたう》にまあ」聞《きこ》えよがしに獨語《どくご》しながらおつたは庭《には》から垣根《かきね》を出《で》た。勘次《かんじ》は自分《じぶん》の側《そば》に牛鑵《ぎうくわん》を手《て》にして立《た》つた卯平《うへい》を改《あらた》めて更《さら》に不快《ふくわい》な目《め》を以《もつ》て凝視《ぎようし》しながら、彼《かれ》の心《こゝろ》の裡《うち》には惜《を》しかつたといふ念慮《ねんりよ》が何《なん》といふことはなしに只《たゞ》ふいと湧《わ》いたのであつた。
「袋《ふくろ》は明日《あした》持《も》つて來《き》てくんなくつちや畢《を》へねえぞ」と勘次《かんじ》はおつたの後《あと》から追《お》ひ掛《か》けるやうにしていつた。
 おつたは垣根《かきね》に添《そ》うて後《うしろ》の林《はやし》の側《そば》から田圃《たんぼ》へ出《で》た。道端《みちばた》の竹《たけ》の梢《こずゑ》には何處《どこ》までも偃《は》うて一|杯《ぱい》に乘《の》り掛《かゝ》らねば止《や》むまいとする毒《どく》なせんにん草《さう》がくつきりと白《しろ》く誇《ほこ》つて居《ゐ》る。小《ちひ》さな身體《からだ》でありながら少《すこ》し鋭《するど》い嘴《くちばし》を持《も》つたばかりに、果敢《はか》ない雀《すゞめ》や頬白《ほゝじろ》の前《まへ》にのみ威力《ゐりよく》を逞《たくま》しくする鵙《もず》が小《ちひ》さな勝利者《しようりしや》の聲《こゑ》を放《はな》つてきい/\と際《きは》どく何處《どこ》かの木《き》の天邊《てつぺん》で鳴《な》いて居《ゐ》た。
 其《そ》の夜《よ》勘次《かんじ》の家《いへ》には突然《とつぜん》一|同《どう》を驚愕《きやうがく》せしめた事件《じけん》が起《おこ》つた。それは事《こと》もなく濟《す》んでさうして餘《あま》りに滑稽《こつけい》な分子《ぶんし》を交《まじ》へて居《ゐ》た。與吉《よきち》は其《そ》の日《ひ》の夕方《ゆふがた》、紙《かみ》へ包《つゝ》んだ食鹽《しよくえん》を一《ひと》つ盜《ぬす》んだ。彼《かれ》は從來《じうらい》見《み》たことのない綺麗《きれい》な菓子《くわし》を發見《はつけん》したと思《おも》つて心《こゝろ》が躍《をど》つた。それでも彼《かれ》は其《そ》の半分《はんぶん》を割《わ》つていきなり嚥《の》み下《くだ》した。彼《かれ》は喉《のど》がぢり/\と焦《こ》げつく程《ほど》非常《ひじやう》な苦惱《くなう》を感《かん》じた。勘次《かんじ》もおつぎも只《たゞ》慌《あわ》てた。勘次《かんじ》は其《そ》の原因《げんいん》を知《し》つて
「汝《わ》りや馬鹿《ばか》だな本當《ほんたう》に、何《なん》ち馬鹿《ばか》だんべなあ」と叱《しか》つて見《み》るだけであつた。勘次《かんじ》が餘《あま》りに叱《しか》るので
「そんなに怒《おこ》つたつて癒《なほ》るめえな、おとつゝあは」と遂《つひ》にはおつぎが勘次《かんじ》を叱《しか》つた。與吉《よきち》は只《たゞ》苦《くる》しんで胸《むね》を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》る樣《やう》にしつゝ顛《ころ》がつて泣《な》いた。卯平《うへい》は騷《さわ》ぎを聞《き》いてのつそりと來《き》た。
「水《みづ》飮《の》ませて見《み》ろ」彼《かれ》は慌《あわ》てるといふことを知《し》らぬものゝ如《ごと》く一|言《ごん》いつた。おつぎは直《すぐ》に柄杓《ひしやく》で水《みづ》を汲《く》んだ。與吉《よきち》は幾《いく》らでも柄《え》に縋《すが》つて飮《の》んだ。
「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にはとり》納豆《なつとう》くつたつて死《し》なねえ内《うち》に水《みづ》飮《の》ませりや何《なん》ともねんだもの、水《みづ》飮《の》ませりやそんなに騷《さわ》ぐにやあたらねえ」卯平《うへい》はいつて自分《じぶん》でも又《また》飮《の》ませた。與吉《よきち》の枕元《まくらもと》に三|人《にん》は徹宵《よつぴて》眠《ねむ》らなかつた。恐《おそ》ろしく多量《たりやう》の水《みづ》を飮《の》んだ與吉《よきち》は遂《つひ》にすや/\と眠《ねむ》つた。さうして翌朝《よくあさ》けそ/\と癒《なほ》つて驅《か》け出《だ》したのであつた。
 次《つぎ》の日《ひ》おつたは復《また》來《き》た。おつたは自分《じぶん》が無意識《むいしき》に種《たね》を蒔《ま》いた昨夜《さくや》の騷《さわ》ぎを知《し》つてる筈《はず》がないので、昨日《きのふ》の如《ごと》く威勢《ゐせい》がよかつた。勘次《かんじ》は睡眠《すゐみん》の不足《ふそく》から更《さら》に餘計《よけい》に不快《ふくわい》の目《め》を蹙《しか》めた。自分《じぶん》の風呂敷《ふろしき》へ軒《のき》の下《した》に竝《なら》べてある三つの南瓜《たうなす》を包《つゝ》まうとしておつたは
「俺《お》れが南瓜《たうなす》は此《こ》れだつけかな」と不審相《ふしんさう》にいつた。
「それだんべな」勘次《か
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