《てさき》の業《わざ》の器用《きよう》な性來《たち》であつた。それで彼《かれ》は仕事《しごと》に出《で》ると成《な》つてからは方々《はう/″\》へ傭《やと》はれて能《よ》く俵《たわら》を編《あ》んだ。麥俵《むぎだわら》もそれから堆肥《つみごえ》を入《い》れて運《はこ》ぶ肥俵《こやしだわら》も編《あ》んだ。ゆつくりと然《しか》も暇《ひま》なく手《て》を動《うご》かしては時々《とき/″\》好《すき》な煙草《たばこ》を吸《す》うて少《すこ》し口《くち》を開《あ》いた儘《まゝ》煙管《きせる》の吸口《すひくち》をこけた頬《ほゝ》に當《あて》て深《ふか》い考《かんが》へにでも惱《なや》んだ樣《やう》に只《たゞ》凝然《ぢつ》として居《ゐ》る。煙《けぶり》は口《くち》から少《すこ》しづゝ漏《も》れて鼻《はな》を傳《つた》ひて騰《あが》る。彼《かれ》は煙《けぶり》が騰《あが》る度《たび》に窪《くぼ》んだ黄色《きいろ》な目《め》を蹙《しが》めるやうにして、心《こゝろ》づいた樣《やう》に吸殼《すひがら》を手《て》の平《ひら》に吹《ふ》くのである。彼《かれ》はかうして極《きは》めて悠長《いうちやう》に手《て》を動《うご》かす樣《やう》でありながら、それでも傭《やと》はれた先《さき》で其《そ》の日《ひ》の扶持《ふち》はして貰《もら》ふので、相應《さうおう》な錢《ぜに》を獲《え》つゝあるのであつた。
 卯平《うへい》は夏《なつ》になれば何處《どこ》でも忙《いそが》しい麥扱《むぎこき》や陸稻《をかぼ》の草取《くさとり》に傭《やと》はれた。彼《かれ》は自分《じぶん》の村落《むら》を離《はな》れて五|日《か》も六|日《か》も泊《とま》つて居《ゐ》て歸《かへ》らぬことがある。卯平《うへい》には先《さき》から先《さき》と歩《ある》いて居《ゐ》ることが却《かへつ》て幸《さいは》ひであつた。彼《かれ》は鬼怒川《きぬがは》の高瀬船《たかせぶね》の船頭《せんどう》の衣物《きもの》かと思《おも》ふ樣《やう》な能《よ》くも/\繼《つ》ぎだらけな、それも自分《じぶん》の手《て》で膳《つくろ》つて清潔《きれい》に洗《あら》ひ曝《ざら》した仕事衣《しごとぎ》を裾長《すそなが》に着《き》て、手拭《てぬぐひ》を被《かぶ》つて暑《あつ》い庭《には》に小麥《こむぎ》を叩《たゝ》いて居《ゐ》るのを其處《そこ》此處《ここ》に見《み》ることがある。横《よこ》に轉《ころ》がした臼《うす》を前《まへ》に据《す》ゑて小麥《こむぎ》を攫《つか》んでは穗先《ほさき》を其《そ》の臼《うす》の腹《はら》に叩《たゝ》きつけると種《たね》がぼろ/\と向《むかふ》へ落《お》ちる。のつそりとして悠長《いうちやう》な卯平《うへい》は壯時《さうじ》に熟《じゆく》して居《ゐ》た仕事《しごと》の呼吸《こきふ》で大《おほ》きな手《て》が肩《かた》から打《う》ち下《おろ》す時《とき》、まだ相當《さうたう》に捗《はか》どるのであつた。彼《かれ》は恁《か》うしてぐる/\と傭《やと》はれて歩《ある》きながら綺麗《きれい》な花《はな》が咲《さ》いて居《ゐ》るのを見《み》ると種《たね》を貰《もら》つたり根分《ねわ》けをして貰《もら》つたりして庭先《にはさき》の栗《くり》の木《き》の側《そば》や井戸端《ゐどばた》に近《ちか》く植《う》ゑた。
 彼《かれ》は忙《いそが》しい仕事《しごと》が畢《しまひ》になつた時《とき》即《すなは》ち稻刈《いねかり》から稻扱《いねこき》からさうして籾《もみ》すりも濟《す》んで彼《かれ》が得意《とくい》の俵編《たわらあ》みもなくなつて、世間《せけん》がげつそりと寂《さび》しく沈《しづ》んだ時《とき》に彼《かれ》は急《きふ》に勘次《かんじ》と別《べつ》な住《す》まひが仕《し》たくなつた。彼《かれ》は少《すこ》しばかり餘《あま》してあつた蓄《たくは》へから蝕《むしくひ》でも何《なん》でも柱《はしら》になる木《き》やら粟幹《あはがら》やらを求《もと》めて、家《いへ》の横手《よこて》へ小《ちひ》さな二|間《けん》四|方《はう》位《ぐらゐ》な掘立小屋《ほつたてごや》を建《た》てる計畫《けいくわく》をした。彼《かれ》は寒《さむ》い西風《にしかぜ》を厭《いと》うて殆《ほとん》ど勘次《かんじ》の家《うち》と相《あひ》接《せつ》して東脇《ひがしわき》へ建《たて》ようとした。勘次《かんじ》は固《もと》より自分《じぶん》の懷《ふところ》が目《め》に見《み》えて減《へ》るのでもなし、それに就《つい》ては決《けつ》して陰《かげ》で呟《つぶや》くことはなかつた。簡單《かんたん》な普請《ふしん》には大工《だいく》が少《すこ》し鑿《のみ》を使《つか》つた丈《だけ》で其《その》他《た》は近所《きんじよ》の人々《ひと/″\》が手傳《てつだ》つたので仕事《しごと》は只《たゞ》一|日《にち》で畢《をは》つた。長《なが》い嵩張《かさば》つた粟幹《あはがら》で手薄《てうす》く葺《ふ》いた屋根《やね》は此《こ》れも職人《しよくにん》の手《て》を借《か》らなかつた。必要《ひつえう》な繩《なは》は卯平《うへい》が丈夫《ぢやうぶ》に綯《な》つて置《お》いた。それから壁《かべ》を塗《ぬ》るのには間《あひだ》を措《お》いて二三|日《にち》かゝつた。勘次《かんじ》も有繋《さすが》に勞力《らうりよく》を惜《をし》まなかつた。彼《かれ》は粟幹《あはがら》が葺《ふ》き上《あ》げられた次《つ》ぎの日《ひ》から二三|日《にち》近所《きんじよ》の馬《うま》を借《か》りて田《た》の傍《そば》の畑《はたけ》から土《つち》を運搬《つ》けた。畑《はたけ》には其《そ》の時《とき》麥《むぎ》が青《あを》く生《は》えて居《ゐ》たが、それでも持主《もちぬし》は畑《はたけ》が減《へ》るだけ田《た》の面積《めんせき》が増《ま》す理由《わけ》なのと、土《つち》の分量《ぶんりやう》も格別《かくべつ》の事《こと》でないのとで切《き》り取《と》ることを否《いな》まなかつた。庭《には》へ卸《おろ》した土《つち》にはちらり/\と青《あを》い麥《むぎ》の軟《やはら》かな葉《は》が交《まじ》つて居《ゐ》た。勘次《かんじ》は夕方《ゆふがた》に成《な》つて馬《うま》を返《かへ》しながら、一|日《にち》の餌料《ゑさ》としておつぎに煮《に》させた麥《むぎ》を笊《ざる》へ入《い》れて、それから刻《きざ》んだ藁《わら》も添《そ》へてやつた。勘次《かんじ》は其《そ》の序《ついで》に餘計《よけい》な藁《わら》を切《き》つた。土《つち》は畢《しまひ》の日《ひ》の夕方《ゆふがた》に周圍《しうゐ》に土手《どて》のやうな輪《わ》を拵《こしら》へて其處《そこ》に水《みづ》を打《う》つてはぐちや/\と足《あし》で溲《こ》ねながら刻《きざ》んだ藁《わら》を撒《ま》いては踏《ふ》み込《こ》んでさうして一|晩《ばん》置《お》いた。さういふ間《あひだ》に卯平《うへい》は鉈《なた》で篠《しの》を幾《いく》つかに裂《さ》いて柱《はしら》と柱《はしら》との間《あひだ》へ壁《かべ》の下地《したぢ》に細《こま》かな格子目《かうしめ》を編《あ》んで居《ゐ》た。篠《しの》は東隣《ひがしどなり》の主人《しゆじん》から請《こ》うて苦竹《まだけ》に交《まじ》つたのを後《うしろ》の林《はやし》から伐《き》つたのである。次《つぎ》の日《ひ》土《つち》は能《よ》く水《みづ》を引《ひ》いて居《ゐ》て程《ほど》よく溲《こ》ねられた。勘次《かんじ》はおつぎに其《そ》の泥《どろ》を盥《たらひ》へ運《はこ》ばせて置《お》いて不器用《ぶきよう》な手《て》もとで塗《ぬ》つた。卯平《うへい》は猶《なほ》も篠《しの》で編《あ》み残《のこ》した箇所《かしよ》を拵《こしら》へて居《ゐ》た。
 塗《ぬ》りたての壁《かべ》は狹苦《せまくる》しい小屋《こや》の内側《うちがは》を濕《しめ》つぽく且《かつ》闇《くら》くした。壁《かべ》の土《つち》の段々《だん/\》に乾《かわ》くのが待遠《まちどほ》で卯平《うへい》は毎日《まいにち》床《ゆか》の上《うへ》の筵《むしろ》に坐《すわ》つて火《ひ》を焚《たい》た。彼《かれ》は近頃《ちかごろ》に成《な》つてから毎日《まいにち》の樣《やう》に林《はやし》を歩《ある》いては麁朶《そだ》を脊負《せお》つて來《き》て折《を》つては焚《た》き折《を》つては焚《た》きして居《ゐ》た。壁《かべ》を塗《ぬ》る時《とき》格子目《かうしめ》から内側《うちがは》へ捲《ま》くれ出《で》た泥《どろ》の一つ/\がだん/\に白《しろ》つぽく乾《かわ》いて明《あか》るく成《な》つた時《とき》勘次《かんじ》は又《また》内側《うちがは》から塗《ぬ》つて捲《まく》れて出《で》た一つ/\を一|帶《たい》に隱《かく》した。卯平《うへい》は掘立小屋《ほつたてごや》を建《た》てるとなつたら勘次《かんじ》が此《こ》れ迄《まで》になく油《あぶら》が乘《の》つた樣《やう》に威勢《ゐせい》よく仕事《しごと》をしてくれるのを何《なん》となく嬉《うれ》しく思《おも》つて見《み》たが、夫《それ》でも仕事《しごと》をしながらしみ/″\口《くち》を利《き》くのでもなければ、毎日《まいにち》膳《ぜん》を竝《なら》べると屹度《きつと》僻《ひが》んだやうな顏《かほ》をされるので、卯平《うへい》は一|日《にち》も速《はや》く別《べつ》に成《な》つて見《み》たい心《こゝろ》から更《さら》に塗《ぬ》つた壁《かべ》の爲《ため》に再《ふたゝ》び闇《くら》くなつた小屋《こや》の明《あか》るく成《な》るのが遲緩《もどか》しさに堪《た》へぬのであつた。卯平《うへい》は狹《せま》いながらにどうにか土間《どま》も拵《こしら》へて其處《そこ》へは自在鍵《じざいかぎ》を一《ひと》つ吊《つる》して蔓《つる》のある鐵瓶《てつびん》を懸《かけ》たり小鍋《こなべ》を掛《か》けたりすることが出來《でき》る樣《やう》にした。彼《かれ》は勘次《かんじ》から幾《いく》らかづゝの米《こめ》や麥《むぎ》を分《わ》けさせて別居《べつきよ》した當座《たうざ》は自分《じぶん》の手《て》で煮焚《にたき》をした。それが却《かへつ》て氣藥《きらく》でさうして少《すこ》しづゝは彼《かれ》の舌《した》に佳味《うま》く感《かん》ずる程度《ていど》の物《もの》を求《もと》めて來《く》ることが出來《でき》た。
 然《しか》しさうして居《ゐ》ても寒《さむ》さが非常《ひじやう》に嚴《きび》しい時《とき》は彼《かれ》は只《たゞ》狹苦《せまくる》しい小屋《こや》の中《なか》に麁朶《そだ》を少《すこ》しづつ折《を》り燻《く》べるよりも比較的《ひかくてき》廣《ひろ》い竈《かまど》の前《まへ》で横《よこ》に轉《ころ》がした大籠《おほかご》からがさ/\と木《こ》の葉《は》を掻《か》き出《だ》してぼう/\と焔《ほのほ》を立《た》てゝ暖《あたゝ》まりたい心持《こゝろもち》がするのであつた。それで彼《かれ》は勘次《かんじ》の留守《るす》には竈《かまど》の前《まへ》で悠長《いうちやう》に木《こ》の葉《は》を焚《た》いて顏《かほ》や手足《てあし》の皮《かは》の燒《や》けた樣《やう》に赤《あか》くなるまであたつた。勘次《かんじ》は時々《とき/″\》持《も》ち込《こ》んだ麁朶《そだ》や木《こ》の葉《は》が理由《わけ》もなく減《へ》つて居《ゐ》ることを知《し》つて不快《ふくわい》な感《かん》を懷《いど》いてはこつそりと呟《つぶや》きつゝおつぎに當《あた》るのであつた。
 卯平《うへい》は暫《しばら》く隱居《いんきよ》に落付《おちつ》いてからは一|錢《せん》づゝでも懷《ふところ》を拵《こし》らへねばならぬといふ決心《けつしん》から促《うなが》されて、毎日《まいにち》煙管《きせる》を横《よこ》に銜《くは》へては悠長《いうちやう》ではあるが、然《しか》も間斷《かんだん》なく繩《なは》をちより/\と綯《な》つたり、それから草鞋《わらぢ》を作《つく》つたりした。彼《かれ》は原料《げんれう》の藁《わら》を勘次《かんじ》に要求《え
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