れど、草葉《くさば》の陰《かげ》で……」婆《ばあ》さんが自分《じぶん》の聲《こゑ》に乘《の》つて來《き》た時《とき》勘次《かんじ》はぼろ/\と涙《なみだ》を零《こぼ》した。おつぎもそつと涙《なみだ》を拭《ぬぐ》つた。
「ほんの假座《かりざ》のことなれば、此《こ》れにて俺《お》れは歸《かへ》るぞよう……」それから又《また》
「鴉《からす》の鳴《な》きがそでなくもう……」と反覆《くりかへ》しつゝ巫女《くちよせ》の婆《ばあ》さんの聲《こゑ》は輕《かる》く引《ひ》いてそつと拔《ぬ》いたやうに止《や》んだ。
「俺《お》れ濟《す》まねえ」勘次《かんじ》はぽつさりといつて又《また》涙《なみだ》を横《よこ》に拭《ぬぐ》つた。
「本當《ほんたう》に出《で》たんだよ、可怖《おつかね》えやうだな」其處《そこ》に居《ゐ》た若《わか》い女房《にようばう》はしみ/″\といつた。それから續《つゞ》いて他《た》の二三|人《にん》が身《み》の上《うへ》やら生口《いきぐち》やらを寄《よ》せた。さうして座敷《ざしき》の隅《すみ》に居《ゐ》た瞽女《ごぜ》が代《かは》つて三味線《さみせん》の袋《ふくろ》をすつと扱《こ》きおろした時《とき》巫女《くちよせ》は荷物《にもつ》の箱《はこ》を脊負《しよ》つて自分《じぶん》の泊《とま》つた宿《やど》へ歸《かへ》つて行《い》つた。
三味線《さみせん》の撥《ばち》が一|度《ど》絃《いと》に觸《ふ》れるとしんみりとした座敷《ざしき》が急《きふ》に勢《いきほ》ひづいてランプの光《ひかり》が俄《にはか》に明《あか》るいやうに成《な》つた。勘次《かんじ》はそれを聞《き》くに堪《た》へないで、彼《かれ》は其《そ》の夜《よ》に限《かぎ》つて自分《じぶん》で與吉《よきち》の手《て》を曳《ひ》いて自分《じぶん》の家《うち》へと闇《やみ》の中《なか》へ身《み》を沒《ぼつ》した。若《わか》い衆《しゆう》は三|人《にん》の後姿《うしろすがた》を見《み》て
「蛬《きりぎりす》ぢやねえが、口《くち》鳴《な》らさねえぢや居《ゐ》らんねえな」といつた。
「そんだが、今夜《こんや》はしみ/″\泣《な》いたんぢやねえけ、あんでもお品《しな》さんこた何程《なんぼ》惜《を》しいか知《し》んねえのがだかんな」
「今《いま》だつて其《その》噺《はなし》すつと幾《いく》らでもしてんだかんな」
「そんだがよ、先刻《さつき》見《み》てえに泣《な》いてんのに惡口《わるくち》なんぞいふな罪《つみ》だよなあ」と若《わか》い女房等《にようばうら》はそれでもしんみりといつた。
其《そ》の夜《よ》から暫《しばら》くの間《あひだ》勘次《かんじ》は以前《いぜん》とは異《かは》つておつぎを獨《ひと》り放《はな》して出《だ》すことが有《あ》る樣《やう》に成《な》つた。さうかと思《おも》つて居《ゐ》る内《うち》に村落中《むらぢう》が復《ま》た勘次《かんじ》のおつぎに對《たい》する態度《たいど》の全《まつた》く以前《いぜん》に還《かへ》つたことを認《みと》めずには居《ゐ》られなくなつた。村落《むら》の目《め》は勢《いきほ》ひ嫉妬《しつと》と猜忌《さいぎ》とそれから新《あらた》に起《おこ》つた事件《じけん》に對《たい》するやうな興味《きようみ》とを以《もつ》て勘次《かんじ》の上《うへ》に注《そゝ》がれねばならなかつた。
十六
勘次《かんじ》は殆《ほと》んど事毎《ことごと》に冷笑《れいせう》の眼《まなこ》を以《もつ》て見《み》られて居《ゐ》るのであつたが然《しか》しそれが厭《いや》な感情《かんじやう》を彼《かれ》に與《あた》へるよりも、彼《かれ》は彼《かれ》の懷《ふところ》に幾分《いくぶん》の餘裕《よゆう》を生《しやう》じて來《き》たことが凡《すべ》ての不滿《ふまん》を償《つぐな》うて猶《なほ》餘《あまり》あることであつた。お品《しな》がまだ生《い》きて居《ゐ》る頃《ころ》隣《となり》の主人《しゆじん》の内儀《かみ》さんに向《むか》つて
「お内儀《かみ》さん等《ら》何《なん》にも心配《しんぺえ》なんざ無《な》くつて晴々《せい/\》として居《え》んでござんせうね」お品《しな》はつく/″\といつたことがある。
「何故《なぜ》そんなこといふんだい」内儀《かみ》さんは怪《あや》しんで聞《き》いたら
「そんでもお内儀《かみ》さん等《ら》喰《た》べる心配《しんぺえ》なんざちつともねえんだから、わたしやさうだと思《おも》つてせえ」お品《しな》はいつた。内儀《かみ》さんは成程《なるほど》さういふ心持《こゝろもち》で居《ゐ》るのかと、それから種々《いろ/\》と身分《みぶん》相應《さうおう》な苦勞《くらう》の止《や》まぬことを噺《はなし》て聞《き》かせると
「さうでござんせうかねお内儀《かみ》さん、わたし等《ら》また明《あ》けても暮《く》れても無《ね》え足《た》んねえの心配《しんぺえ》ばかしゝてんだから、さういことねえ人《ひと》は心配《しんぺえ》なんちやねえんだとばかし思《おも》つてたんでござんすよ、ねえ本當《ほんたう》に」お品《しな》は感《かん》に堪《た》へたやうにいつたのであつた。お品《しな》がそれ程《ほど》苦勞《くらう》した米※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、234−7]《べいこく》の問題《もんだい》が其《そ》の死後《しご》四五|年間《ねんかん》の惨憺《さんたん》たる境遇《きやうぐう》から漸《やうや》く解決《かいけつ》が告《つ》げられようとしたのである。彼《かれ》は毎年《まいねん》冬《ふゆ》からまだ草木《さうもく》の萌《も》え出《だ》さぬ春《はる》までの内《うち》に彼等《かれら》にしては驚《おどろ》くべき巨額《きよがく》の四五十|圓《ゑん》を贏《か》ち得《う》るのであつた。其《そ》れは古《ふる》い創痍《さうい》の穴《あな》に投《とう》ぜられるにしても彼《かれ》は土間《どま》の鷄《にはとり》の塒《とや》の下《した》に三|人《にん》が安心《あんしん》して居《ゐ》るだけの食料《しよくれう》を求《もと》めて置《お》くことが出來《でき》る樣《やう》に成《な》つた。おつぎは二十《はたち》の聲《こゑ》を聞《き》いて與吉《よきち》は學校《がくかう》へ出《で》る樣《やう》に成《な》つた。彼《かれ》は絶《た》えず或《ある》物《もの》を探《さが》すやうな然《しか》も隱蔽《いんぺい》した心裏《しんり》の或《ある》物《もの》を知《し》られまいといふやうな、不見目《みじめ》な容貌《ようばう》を村落《むら》の内《うち》に曝《さら》す必要《ひつえう》が漸《やうや》く減《げん》じて來《き》た。彼《かれ》は段々《だん/\》彼等《かれら》の伴侶《なかま》に向《むか》つて以前《いぜん》の如《ごと》くこせ/\と徒《いたづ》らに遠慮《ゑんりよ》した態度《たいど》がなくなつた。彼《かれ》は村落《むら》の凡《すべ》てに向《むか》つて拂《はら》つた恐怖《きようふ》の念《ねん》を悉《ことごと》く東隣《ひがしどなり》の家族《かぞく》にのみ捧《さゝ》げて畢《しま》つた。
其《そ》の間《あひだ》彼《かれ》と卯平《うへい》とは只《たゞ》一|回《くわい》逢《あ》つたのみである。卯平《うへい》はお品《しな》が三|年目《ねんめ》の盆《ぼん》にふいと來《き》てふいと立《た》つたのである。卯平《うへい》は八十に近《ちか》く成《な》つて居《ゐ》ながら恐《おそ》ろしい岩疊《がんでふ》な身體《からだ》が髮《かみ》は白《しろ》く且《かつ》少《すくな》く成《な》つたが肌膚《はだ》には潤澤《じゆんたく》があつた。卯平《うへい》は夜《よる》は火《ひ》の番《ばん》をしても暑《あつ》い日《ひ》には庭《には》の草※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《くさむしり》をしたり、他《た》の藏々《くら/″\》への使《つか》ひに行《い》つたり、幾分《いくぶん》の忙《いそが》しさを感《かん》じても、使《つか》ひに行《ゆ》けば屹度《きつと》茶菓子《ちやぐわし》を包《つゝ》まれたり、手拭《てぬぐひ》を貰《もら》つたり、それから主人《しゆじん》からは給料《きふれう》以外《いぐわい》の賞與《しやうよ》があつたりするので少《すこ》し堅固《けんご》にすれば、懷《ふところ》には小錢《こぜに》を蓄《たくは》へて置《お》くことも出來《でき》るのであつたが彼《かれ》は能《よ》くコツプ酒《ざけ》を傾《かたむ》けたので彼《かれ》の懷《ふところ》は決《けつ》して餘裕《よゆう》を存《そん》しては居《ゐ》なかつた。野田《のだ》は郷里《きやうり》からは比較的《ひかくてき》近《ちか》いので醤油藏《しやうゆぐら》が段々《だん/\》發達《はつたつ》して行《ゆ》くに連《つ》れて傭《やと》はれて行《ゆ》く壯丁《わかもの》が殖《ふ》えて來《き》た。郷里《きやうり》では傭人《やとひにん》の給料《きふれう》が暴騰《ばうとう》して來《き》た程《ほど》どの村落《むら》からも壯丁《わかもの》が行《い》つた。其《そ》れが頻《しき》りに交代《かうたい》されるので、卯平《うへい》は一|度《ど》しか郷里《きやうり》の土《つち》を踏《ふ》まなくても種々《しゆ/″\》の變化《へんくわ》を耳《みゝ》にした。彼《かれ》は一|番《ばん》おつぎのことが念頭《ねんとう》に浮《うか》ぶ。十七の秋《あき》に見《み》たおつぎの姿《すがた》がお品《しな》に能《よ》くも似《に》て居《ゐ》たことを思《おも》ひ出《だ》しては、他人《ひと》の噂《うはさ》も聞《き》いて見《み》て時々《とき/″\》は逢《あ》つても見《み》たい心持《こゝろもち》がした。然《しか》しお品《しな》が死《し》んだ時《とき》野田《のだ》への立《た》ち際《ぎは》がよくなかつたことを彼自身《かれじしん》の心《こゝろ》にも悔《く》ゆる處《ところ》があつたので強《し》ひて厭《いや》な勘次《かんじ》へ挨拶《あいさつ》をして一時《いつとき》なりとも肩身《かたみ》を狹《せま》くせねばならないのを厭《いと》うて遂《つひ》憶劫《おくくふ》に成《な》るのであつた。年齡《とし》を積《つ》むに從《したが》つて短《みじか》く感《かん》ずる月日《つきひ》がさういふ間《あひだ》に循環《じゆんくわん》して、くすんで見《み》えることの多《おほ》い江戸川《えどがは》の水《みづ》を往復《わうふく》する通運丸《つううんまる》の牛《うし》が吼《ほ》えるやうな汽笛《きてき》も身《み》に沁《し》みて、冬《ふゆ》の寒《さむ》さが酷《ひど》くなると以前《いぜん》からの癖《くせ》で腰《こし》に疼痛《いたみ》を感《かん》ずることがあつた。藏《くら》の傭人《やとひにん》の爲《ため》に抱《かゝ》へてある醫者《いしや》に見《み》て貰《もら》つても、老病《らうびやう》だから藥《くすり》を飮《の》んで見《み》た處《ところ》で、さう效驗《きゝめ》が見《み》えるのではないがそれでも、飮《の》みたけりや飮《の》むが善《い》いといふのみで別段《べつだん》身《み》に沁《し》みていつてくれるのでもない。卯平《うへい》は幾《いく》ら飮《の》んでも自分《じぶん》の懷《ふところ》が痛《いた》まないのだからと思《おも》つて見《み》ても醫者《いしや》のいふ通《とほ》りどうもはき/\としないので晝間《ひるま》は成《な》るべく蒲團《ふとん》にくるまる樣《やう》にして居《ゐ》た。
卯平《うへい》は年末《ねんまつ》の出代《でがはり》の季節《きせつ》になれば其《そ》の持病《ぢびやう》を苦《く》にして、奉公《ほうこう》もどうしたものかと悲觀《ひくわん》することもあるが、我慢《がまん》をすれば凌《しの》げるので遂《つひ》居据《ゐすわ》りに成《な》つて居《ゐ》るうちに何時《いつ》でも春《はる》の季節《きせつ》に還《かへ》つて、郊外《かうぐわい》に際涯《さいがい》もなく植《うゑ》られた桃《もゝ》の花《はな》が一|杯《ぱい》に赤《あか》くなると其《そ》の木陰《こかげ》の麥《むぎ》が青《あを》く地《ち》を掩《おほ》うて、江戸川《えどがは》の水《みづ》を溯《さかのぼ》る高瀬船《たかせぶね》
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