る社《やしろ》の祭《まつり》のことである。貧乏《びんばふ》な勘次《かんじ》の村落《むら》でも以前《いぜん》からの慣例《くわんれい》で村落《むら》に相應《さうおう》した方法《はうはふ》を以《もつ》て祭《まつり》が行《おこな》はれた。
 當日《たうじつ》は白《しろ》い狩衣《かりぎぬ》の神官《しんくわん》が獨《ひとり》で氏子《うぢこ》の總代《そうだい》といふのが四五|人《にん》、極《きま》りの惡相《わるさう》な容子《ようす》で後《あと》へ跟《つい》て馬場先《ばゞさき》を進《すゝ》んで行《い》つた。一|人《にん》は農具《のうぐ》の箕《み》を持《も》つて居《ゐ》る。總代等《そうだいら》はそれでも羽織袴《はおりはかま》の姿《すがた》であるが一人《ひとり》でも滿足《まんぞく》に袴《はかま》の紐《ひも》を結《むす》んだのはない。更《さら》に其《そ》の後《あと》から鏡《かゞみ》を拔《ぬ》いた四|斗樽《とだる》を馬《うま》の荷繩《になは》に括《くゝ》つて太《ふと》い棒《ぼう》で擔《かつ》いで跟《つ》いた。四|斗樽《とだる》には濁《にご》つたやうな甘酒《あまざけ》がだぶ/\と動《うご》いて居《ゐ》る。神官《しんくわん》の白《しろ》い指貫《さしぬき》の袴《はかま》には泥《どろ》の跳《は》ねた趾《あと》も見《み》えて隨分《ずゐぶん》汚《よご》れて居《ゐ》た。神官《しんくわん》は埃《ほこり》だらけな板《いた》の間《ま》へ漸《やうや》く蓙《ござ》を敷《し》いた狹《せま》い拜殿《はいでん》へ坐《すわ》つて榊《さかき》の小《ちひ》さな枝《えだ》をいぢつて、それから卓《しよく》の供物《くもつ》を恰好《かつかう》よくして居《ゐ》る間《ま》に總代等《そうだいら》は箕《み》へ入《い》れて行《い》つた注連繩《しめなは》を樅《もみ》の木《き》から樅《もみ》の木《き》へ引《ひ》つ張《ぱ》つて末社《まつしや》の飾《かざり》をした。
 村落《むら》の者《もの》は段々《だん/\》に器量《きりやう》相當《さうたう》な晴衣《はれぎ》を着《き》て神社《じんじや》の前《まへ》に聚《あつま》つた。目《め》に立《た》つのは猶且《やつぱり》女《をんな》の子《こ》で、疎末《そまつ》な手織木綿《ておりもめん》であつてもメリンスの帶《おび》と前垂《まへだれ》とが彼等《かれら》を十|分《ぶん》に粧《よそほ》うて居《ゐ》る。十位《とをぐらゐ》の子《こ》でもそれから廿《はたち》に成《な》るものでも皆《みな》前垂《まへだれ》を掛《か》けて居《ゐ》る。前垂《まへだれ》がなければ彼等《かれら》の姿《すがた》は索寞《さくばく》として畢《しま》はねば成《な》らぬ。彼等《かれら》は足《あし》に合《あ》はぬ不恰好《ぶかつかう》な皺《しわ》の寄《よ》つた白《しろ》い足袋《たび》を穿《は》いて居《ゐ》る。遠國《ゑんごく》の山《やま》から切《き》り出《だ》すのだといふ模擬《まがひ》の重《おも》い臺《だい》へゴム製《せい》の表《おもて》を打《う》つた下駄《げた》を突《つ》つ掛《か》けて居《ゐ》るものもある。彼等《かれら》は其《そ》の年齡《ねんれい》に應《おう》じて三|人《にん》五|人《にん》と互《たがひ》に手《て》を曳《ひ》きながら垣根《かきね》の側《そば》や辻《つじ》の角《かど》に立《た》つて居《ゐ》ては思《おも》ひ出《だ》した時《とき》に其處《そこ》ら此處《ここ》らと移《うつ》つて歩《ある》くのである。彼等《かれら》は只《たゞ》朋輩《ほうばい》と共《とも》に立《た》つて居《ゐ》ることより外《ほか》に「まち」というても別《べつ》に目的《もくてき》もなければ娯樂《ごらく》もないのである。其《そ》れで彼等《かれら》は少《すこ》しでも異《ことな》つた出來事《できごと》を見逃《みのが》すことを敢《あへ》てしないのである。
 神官《しんくわん》は小《ちひ》さな筑波蜜柑《つくばみかん》だの駄菓子《だぐわし》だの鯣《するめ》だのを少《すこ》しばかりづつ供《そな》へた卓《しよく》の前《まへ》に坐《すわ》つて祝詞《のつと》を上《あ》げた。其《そ》れは大《おほ》きな厚《あつ》い紙《かみ》へ書《か》いたので、それを更《さら》に紙《かみ》へ包《つゝ》んだのであつた。包紙《つゝみがみ》は幾度《いくたび》か懷《ふところ》へ出《だ》し入《い》れしたと見《み》えて痛《いた》く擦《す》れて汚《よご》れて居《ゐ》る。祝詞《のつと》は極《きは》めて短文《たんぶん》であつた。神官《しんくわん》はそれを極《きは》めて悠長《いうちやう》に聲《こゑ》を張《は》り上《あ》げて讀《よ》んだがそれでも幾《いく》らも時間《じかん》が要《い》らなかつた。
 それが一|枚《まい》あれば何處《どこ》の神社《じんじや》へ行《い》つても役《やく》に立《た》てゝ居《ゐ》るものと見《み》えて短《みじか》い文中《ぶんちう》に讀上《よみあ》ぐべき神社《じんじや》の名《な》は書《か》いてなくて何郡《なにごほり》何村《なにむら》何神社《なにじんじや》といふ文字《もじ》で埋《うづ》めてある。神官《しんくわん》は其處《そこ》に讀《よ》み至《いた》ると當日《たうじつ》の神社《じんじや》を只《たゞ》口《くち》の先《さき》でいふのである。有繋《さすが》に彼《かれ》は間違《まちが》ふことなしに讀《よ》み退《の》けた。神官《しんくわん》が卓《しよく》の横手《よこて》へ座《ざ》を換《かへ》て一寸《ちよつと》笏《しやく》で指圖《さしづ》をすると氏子《うぢこ》の總代等《そうだいら》が順次《じゆんじ》に榊《さかき》の小枝《こえだ》の玉串《たまくし》を持《も》つて卓《しよく》の前《まへ》に出《で》て其《そ》の玉串《たまくし》を捧《さゝ》げて拍手《はくしゆ》した。彼等《かれら》は只《たゞ》怖《お》づ/\して拍手《はくしゆ》も鳴《な》らなかつた。立《た》ちながら袴《はかま》の裾《すそ》を踏《ふ》んで蹌踉《よろ》けては驚《おどろ》いた容子《ようす》をして周圍《あたり》を見《み》るのもあつた。恁《か》ういふ作法《さはふ》をも見物《けんぶつ》の凡《すべ》ては左《さ》も熱心《ねつしん》らしい態度《たいど》で拜殿《はいでん》に迫《せま》つて見《み》て居《ゐ》た。
 おつぎも與吉《よきち》の手《て》を執《と》つて群集《ぐんしふ》に交《まじ》つて立《た》つて居《ゐ》た。勘次《かんじ》も其處《そこ》に在《あ》つたのであるが然《しか》し彼《かれ》はずつと後《うしろ》の樅《もみ》の木陰《こかげ》にぽつさりとして居《ゐ》たのであつた。簡單《かんたん》乍《なが》ら一|日《にち》の式《しき》が畢《をは》つた時《とき》四|斗樽《とだる》の甘酒《あまざけ》が柄杓《ひしやく》で汲出《くみだ》して周圍《しうゐ》に立《た》つて居《ゐ》る人々《ひと/″\》に與《あた》へられた。主《しゆ》として子供等《こどもら》が先《さき》を爭《あらそ》うて其《その》大《おほ》きな茶碗《ちやわん》を換《か》へた。彼等《かれら》は寧《むし》ろ自分《じぶん》の家《うち》で造《つく》つたものゝ方《はう》が佳味《うま》いにも拘《かゝわ》らず大勢《おほぜい》と共《とも》に騷《さわ》ぐのが愉快《ゆくわい》なので、水許《みづばか》りのやうな甘酒《あまざけ》を幾杯《いくはい》も傾《かたむ》けるのである。當日《たうじつ》からでは數日前《すうじつぜん》に當番《たうばん》の者《もの》が村落中《むらぢう》を歩《ある》いて二|合《がふ》づゝでも三|合《がふ》づゝでも白米《はくまい》を貰《もら》つて、夜《よ》になれば當番《たうばん》の者等《ものら》は集《あつま》つた白米《はくまい》で晩餐《ばんさん》の飯《めし》を十|分《ぶん》に焚《た》いて其《その》他《た》は悉《ことごと》く甘酒《あまざけ》に造《つく》り込《こ》む。甘酒《あまざけ》は時間《じかん》が短《みじか》いのと麹《かうぢ》が少《すくな》いのとで熱《あつ》い湯《ゆ》で造《つく》り込《こ》むのが例《れい》である。それだから忽《たちま》ちに甘《あま》く成《な》るけれども亦《また》忽《たちま》ちに酸味《さんみ》を帶《お》びて來《く》る。彼等《かれら》は當日《たうじつ》の前夜《ぜんや》に口見《くちみ》だといつて近隣《きんりん》の者等《ものら》が寄《よ》つてたかつて、鍋《なべ》で幾杯《いくはい》となく沸《わか》しては飮《の》むので夥《したゝ》か減《へ》らして畢《しま》つて、それへ一|杯《ぱい》に水《みづ》を注《さ》して置《お》くのである。
 子供等《こどもら》の間《あひだ》に交《まじ》つて與吉《よきち》も互《たがひ》の身體《からだ》を掻《か》き分《わ》ける樣《やう》にして飮《の》んだ。村落《むら》の者《もの》が飮《の》んでる後《うしろ》から木陰《こかげ》に佇《たゝず》んで居《ゐ》た乞食《こじき》がぞろ/\と來《き》て曲物《まげもの》の小鉢《こばち》を出《だ》して要求《えうきう》した。
「よき、それえゝ加減《かげん》にするもんだよ汝《わ》りや」おつぎはまだ茶碗《ちやわん》を放《はな》さない與吉《よきち》の手《て》を曳《ひ》いた。
「待《ま》つてろ汝《わ》ツ等《ら》、さうだにさはり出《で》ねえで、小穢《こぎたね》え」
「此奴等《こねやつら》、汝《わ》ツ等《ら》げ呉《く》れはぐつたこた有《あ》りやしねえ、それにさうだに騷《さわ》ぎやがつて、五月繩《うるせ》え奴等《やつら》だ待《ま》つてるもんだ」
「そうれお前等《めえら》注《つ》えで遣《や》んのにそんな小鉢《こばち》なんぞ桶《をけ》の上《うへ》さ突出《つんだ》させちや畢《を》へねえな、それだらだら垂《た》ツらあ、柄杓《ひしやく》そつちへおん出《だ》して行《や》るもんだ」
 下駄《げた》を穿《は》いて立《た》つた氏子《うぢこ》の總代等《そうだいら》が乞食《こじき》を叱《しか》つたり當番《たうばん》に注意《ちうい》したりした。神官等《しんくわんら》が石《いし》の華表《とりゐ》を出《で》て行《い》つた後《のち》は暫《しばら》くして人《ひと》も散《ち》つて、華表《とりゐ》の傍《そば》には大《おほ》きな文字《もじ》を表《あら》はした白木綿《しろもめん》の幟旗《のぼりばた》が高《たか》く突《つ》つ立《た》つてばさ/\と鳴《な》つて居《ゐ》た。散亂《さんらん》した人々《ひと/″\》は其《そ》の癖《くせ》の其處《そこ》にぼつゝり此處《ここ》にぼつゝりと固《かた》まつて立《た》つてるのであつた。
 暫《しばら》くして短《みじか》い日《ひ》が傾《かたむ》いた。社《やしろ》の森《もり》を包《つゝ》んで時雨《しぐれ》の雲《くも》が東《ひがし》の空《そら》一|杯《ぱい》に擴《ひろ》がつた。濃厚《のうこう》な鼠色《ねずみいろ》の雲《くも》は凄《すご》く人《ひと》に迫《せま》つて來《く》るやうで、然《しか》もくつきりと森《もり》を浮《う》かした。かつと横《よこ》に射《さ》し掛《かけ》る日《ひ》の光《ひかり》が其《そ》の凄《すご》い雲《くも》の色《いろ》を稍《やゝ》和《やはら》げて天鵞絨《びろうど》のやうな滑《なめら》かな感《かん》じを與《あた》へた。更《さら》にくすんだ赭《あか》い欅《けやき》の梢《こずゑ》にも微妙《びめう》な色彩《しきさい》を發揮《はつき》せしめて、殊《こと》に其《そ》の間《あひだ》に交《まじ》つた槭《もみぢ》の大樹《たいじゆ》は此《これ》も冴《さ》えない梢《こずゑ》に日《ひ》は全力《ぜんりよく》を傾注《けいちゆう》して驚《おどろ》くべき莊嚴《さうごん》で且《か》つ鮮麗《せんれい》な光《ひかり》を放射《はうしや》せしめた。時雨《しぐれ》の雲《くも》に映《えい》ずる槭《もみぢ》の梢《こずゑ》は確然《かくぜん》と浮《う》き上《あが》つて居《ゐ》ながら天鵞絨《びろうど》の地《ぢ》に深《ふか》く浸《し》み込《こ》んで居《ゐ》る樣《やう》にも見《み》えた。其《そ》の前《まへ》に空《そら》を支《さゝ》へて立《た》つた二|條《でう》の白《しろ》い柱《はしら》は幟旗《のぼりばた》であつた。幟旗《のぼりばた》は止《や》まずばた/\と
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