べき所以《ゆゑん》のものではない。彼《かれ》は彼等《かれら》の伴侶《なかま》に在《あ》つては、幾度《いくたび》かいひふらされて居《ゐ》る如《ごと》く水《みづ》に落《おと》した菜種油《なたねあぶら》の一|滴《てき》である。水《みづ》が動《うご》く時《とき》油《あぶら》は隨《したが》つて動《うご》かねば成《な》らぬ。水《みづ》が傾《かたむ》く時《とき》油《あぶら》は亦《また》傾《かたむ》かねば成《な》らぬ。併《しか》し水《みづ》が平靜《へいせい》の度《ど》を保《たも》つ時《とき》油《あぶら》は更《さら》に怖《おそ》れたやうに一|所《しよ》に凝集《ぎようしふ》する。兩者《りやうしや》の間《あひだ》には何等《なんら》其《そ》の性質《せいしつ》を變化《へんくわ》せしむべき作用《さよう》の起《おこ》るでもなく、其《そ》れは水《みづ》が油《あぶら》を疎外《そぐわい》するのか、油《あぶら》が水《みづ》を反撥《はんぱつ》するのか遂《つひ》に溶《と》け合《あ》ふ機會《きくわい》が無《な》いのである。之《これ》を攪亂《かうらん》する他《た》の力《ちから》が加《くは》へられねば兩者《りやうしや》は唯《たゞ》平靜《へいせい》である。村落《むら》の空氣《くうき》が平靜《へいせい》である如《ごと》く、勘次《かんじ》と他《た》の凡《すべ》てとの間《あひだ》も極《きは》めて平靜《へいせい》でそれで相《あひ》容《いれ》ないのである。勘次《かんじ》は其《そ》の菜種油《なたねあぶら》のやうに櫟林《くぬぎばやし》と相《あひ》接《せつ》しつゝ村落《むら》の西端《せいたん》に僻在《へきざい》して親子《おやこ》三|人《にん》が只《たゞ》凝結《ぎようけつ》したやうな状態《じやうたい》を保《たも》つて落付《おちつい》て居《ゐ》るのである。
偶然《ぐうぜん》に起《おこ》つた彼《かれ》の破廉耻《はれんち》な行爲《かうゐ》が俄《にはか》に村落《むら》の耳目《じもく》を聳動《しようどう》しても、兎《と》にも角《かく》にも一|家《か》を處理《しより》して行《ゆ》かねばならぬ凡《すべ》ての者《もの》は、彼等《かれら》に共通《きようつう》な聞《き》きたがり知《し》りたがる性情《せいじやう》に驅《か》られつゝも、寧《むし》ろ地味《ぢみ》で移氣《うつりぎ》な心《こゝろ》が際限《さいげん》もなく一《ひと》つを逐《お》ふには年齡《ねんれい》が餘《あまり》に彼等《かれら》を冷靜《れいせい》な方向《はうかう》に傾《かたむ》かしめて居《ゐ》る。それでなくても其《そ》の知《し》りたがり聞《き》きたがる性情《せいじやう》を刺戟《しげき》すべきことは些細《ささい》であるとはいひながら相《あひ》尋《つい》で彼等《かれら》の耳《みゝ》に聞《きこ》えるので勘次《かんじ》のみが問題《もんだい》では無《な》くなるのである。然《しか》しながら若《わか》い衆《しゆ》と稱《しよう》する青年《せいねん》の一|部《ぶ》は勘次《かんじ》の家《いへ》に不斷《ふだん》の注目《ちうもく》を怠《おこた》らない。其《そ》れはおつぎの姿《すがた》を忘《わす》れ去《さ》ることが出來《でき》ないからである。苟且《かりそめ》にも血液《けつえき》の循環《じゆんくわん》が彼等《かれら》の肉體《にくたい》に停止《ていし》されない限《かぎ》りは、一|旦《たん》心《こゝろ》に映《うつ》つた女《をんな》の容姿《かたち》を各自《かくじ》の胸《むね》から消滅《せうめつ》させることは不可能《ふかのう》でなければならぬ。然《しか》し彼等《かれら》は一|方《ぱう》に有《いう》して居《ゐ》る矛盾《むじゆん》した羞耻《しうち》の念《ねん》に制《せい》せられて燃《も》えるやうな心情《しんじやう》から竊《ひそか》に果敢《はか》ない目《め》の光《ひかり》を主《しゆ》として夜《よ》に向《むか》つて注《そゝ》ぐのである。
夜《よ》は彼等《かれら》の世界《せかい》である。
熟練《じゆくれん》な漁師《れふし》は大洋《たいやう》の波《なみ》に任《まか》せて舷《こべり》から繩《なは》に繼《つ》いだ壺《つぼ》を沈《しづ》める。其《そ》の繩《なは》を探《さぐ》つて沈《しづ》めた赤《あか》い土燒《どやき》の壺《つぼ》が再《ふたゝ》び舷《こべり》に引《ひ》きつけられる時《とき》、其處《そこ》には凝然《ぢつ》として蛸《たこ》が足《あし》の疣《いぼ》を以《もつ》て内側《うちがは》に吸《す》ひついて居《ゐ》る。恁《か》うして漁師《れふし》は烱眼《けいがん》を以《もつ》て獲物《えもの》を過《あやま》たぬ道《みち》を波《なみ》の間《あひだ》に窮《きは》めて居《ゐ》るのである。僅《わづか》な村落《むら》の内《うち》で毎日《まいにち》凡《すべ》ての目《め》に熟《じゆく》して居《ゐ》る女《をんな》の所在《ありか》を覘《ねら》ふことは、蛸壺《たこつぼ》を沈《しづ》めるやうな其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》寧《むし》ろあてどもないものではない。木《こ》の葉《は》が陰翳《かげ》を落《お》として呉《く》れぬ冬《ふゆ》の夜《よ》には覘《ねら》うて歩《ある》く彼等《かれら》は自分《じぶん》の羞耻心《しうちしん》を頭《あたま》から褞袍《どてら》で被《おほ》うて居《ゐ》る。短《みじか》い夜《よ》の頃《ころ》でも、朝《あさ》の眠《ねむ》たさが覿面《てきめん》に自分《じぶん》を窘《たしな》めるにも拘《かゝ》はらずうそ/\と歩《ある》いて見《み》ねば臭《くさ》い古《ふる》ぼけた蚊帳《かや》の中《なか》に諦《あきら》めて其《その》身《み》を横《よこ》たへることが出來《でき》ないのである。彼等《かれら》が女《をんな》の所在《ありか》を覘《ねら》ふのは極《きは》めて容易《ようい》なものの樣《やう》ではありながら蛸壺《たこつぼ》が少《すこ》しの妨《さまた》げもなく沈《しづ》められる樣《やう》ではなく、父母《ふぼ》の目《め》が闇《やみ》の夜《よ》にさへ光《ひかり》を放《はな》つて女《をんな》を彼等《かれら》から遮斷《しやだん》しようとして居《ゐ》る。彼等《かれら》はそれで目《め》の光《ひかり》の及《およ》ぶ範圍内《はんゐない》には自分《じぶん》の身《み》を表《あら》はさないで目的《もくてき》を遂《と》げようと苦心《くしん》する。譬《たとへ》て見《み》れば彼等《かれら》は狹《せば》いとはいひながら跳《はね》ては越《こ》せぬ堀《ほり》を隔《へだ》てゝ、然《し》かも繁茂《はんも》した野茨《のばら》や川楊《かはやなぎ》に身《み》を沒《ぼつ》しつゝ女《をんな》の軟《やはら》かい手《て》を執《と》らうとするのである。其《そ》れは到底《たうてい》相《あひ》觸《ふ》れることさへ不可能《ふかのう》である。焦燥《あせ》つて堀《ほり》を飛《と》び越《こ》えようとしては野茨《のばら》の刺《とげ》に肌膚《はだ》を傷《きずつ》けたり、泥《どろ》に衣物《きもの》を汚《よご》したり苦《にが》い失敗《しつぱい》の味《あぢ》を嘗《な》めねばならぬ。其《そ》れ故《ゆゑ》彼等《かれら》は隱約《いんやく》の間《あひだ》に巧妙《かうめう》な手段《しゆだん》を施《ほどこ》さうとして其處《そこ》に工夫《くふう》が凝《こら》されるのである。
既《すで》に漁師《れふし》の手《て》に生命《せいめい》を握《にぎ》られて居《ゐ》る蛸《たこ》は力《ちから》を極《きは》めて壺《つぼ》の内側《うちがは》に緊着《きんちやく》すれば什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》強《つよ》い手《て》の力《ちから》が袋《ふくろ》のやうな其《そ》の頭《あたま》を持《も》つて曳《ひ》かうとも、蛇《へび》が身體《からだ》の一|部《ぶ》を穴《あな》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入《さうにう》したやうに拗切《ちぎれ》るまでも離《はな》れない。刄物《はもの》を以《もつ》て突《つ》つ刺《つあ》しても同《どう》一である。蛸壺《たこつぼ》の底《そこ》には必《かなら》ず小《ちひ》さな穴《あな》が穿《うが》たれてある。臀《しり》からふつと息《いき》を吹《ふ》つ掛《か》けると蛸《たこ》は驚《おどろ》いてすると壺《つぼ》から逃《に》げる。それでも猶旦《やつぱり》騙《だま》されぬ時《とき》は小《ちひ》さな穴《あな》から熱湯《ねつたう》をぽつちりと臀《しり》に注《そゝ》げば蛸《たこ》は必《かなら》ず慌《あわ》てゝ漁師《れふし》の前《まへ》に跳《をど》り出《だ》す。熱《あつ》い一|滴《てき》によつて容易《ようい》に蛸《たこ》は騙《だま》されるのである。假令《たとひ》監視《かんし》の目《め》から※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れて女《をんな》に接近《せつきん》したとしても、打《う》ち込《こ》んだ女《をんな》の情《じやう》が強《こは》ければ蛸壺《たこつぼ》の蛸《たこ》が騙《だま》される樣《やう》にころりと落《おと》す工夫《くふう》のつくまでは男《をとこ》は忍耐《にんたい》と寧《むし》ろ危險《きけん》とを併《あわ》せて凌《しの》がねば成《な》らぬ。さうして纔《わづか》に相《あひ》接《せつ》した兩性《りやうせい》が心《こゝろ》から相《あひ》曳《ひ》く時《とき》相《あひ》互《たがひ》に他《た》の凡《すべ》てに對《たい》して恐怖《きようふ》の念《ねん》を懷《いだ》きはじめるのである。
空《そら》が夕日《ゆふひ》の消《き》え行《ゆ》く光《ひかり》を西《にし》の底《そこ》深《ふか》く鎖《とざ》して畢《しま》つて、薄《うす》い宵《よひ》が地《ち》を低《ひく》く掩《おほ》うて夜《よ》が到《いた》つた時《とき》女《をんな》は井戸端《ゐどばた》で愉快《ゆくわい》に唄《うた》ひながら一|種《しゆ》の調子《てうし》を持《も》つた手《て》の動《うご》かし樣《やう》をして米《こめ》を研《と》ぐ。女《をんな》は研桶《とぎをけ》と唄《うた》との二つの聲《こゑ》が錯綜《さくそう》しつゝある間《あひだ》にも木陰《こかげ》に佇《たゝず》む男《をとこ》のけはひを悟《さと》る程《ほど》耳《みゝ》の神經《しんけい》が興奮《こうふん》して居《ゐ》る。其《そ》れが凉《すゞ》しい夏《なつ》の夜《よ》で女《をんな》が男《をとこ》を待《ま》つ時《とき》には毎日《まいにち》汗《あせ》に汚《よご》れ易《やす》いさうして其《そ》の飾《かざ》りでなければ成《な》らぬ手拭《てぬぐひ》の洗濯《せんたく》に暇《ひま》どるのである。庭《には》の木陰《こかげ》に身《み》を避《さ》けてしんみりと互《たがひ》の胸《むね》を反覆《くりかへ》す時《とき》繁茂《はんも》した※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》や栗《くり》の木《き》は彼等《かれら》が唯《ゆゐ》一の味方《みかた》で月夜《つきよ》でさへ深《ふか》い陰翳《かげ》が安全《あんぜん》に彼等《かれら》を包《つゝ》む。空《そら》に冴《さ》えた月《つき》は放棄《はうき》してある手水盥《てうづだらひ》を覗《のぞ》いては冷《ひやゝ》かに笑《わら》うて居《ゐ》る。彼等《かれら》が餘《あま》りに暇《ひま》どつて居《ゐ》れば月《つき》はこつそりと首《くび》を傾《かたむ》けて木《こ》の葉《は》の間《あひだ》から覗《のぞ》いて見《み》る。其《そ》れでも猶《なほ》彼等《かれら》が屈託《くつたく》して居《を》れば、彼等《かれら》を庇護《ひご》して居《ゐ》る木《き》が※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》であれば梢《こずゑ》からまだ青《あを》い實《み》を投《な》げて、其《そ》の瞬間《しゆんかん》驚《おどろ》き易《やす》い彼等《かれら》が欺《あざむ》かれて、彼等《かれら》の伴侶《なかま》の惡戯《あくぎ》であるかを疑《うたが》うては慌《あわ》てゝ周圍《しうゐ》を見《み》る時《とき》、繁茂《はんも》した大《おほ》きな葉《は》が凉《すゞ》しい風《かぜ》にさや/\と微笑《びせ
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