《で》て船《ふね》が現《あら》はれた。渡《わた》し船《ぶね》が深夜《しんや》に人《ひと》を乘《の》せたのでしやぶつといふ響《ひゞき》は舟棹《ふなさを》が水《みづ》を掻《か》つ切《き》る度《たび》に鳴《な》つたのである。おつぎは又《また》土手《どて》へ戻《もど》つて大《おほ》きな川柳《かはやなぎ》の傍《そば》に身《み》を避《さ》けた。二三|語《ご》を交換《かうくわん》して人《ひと》は去《さ》つたやうである。船頭《せんどう》は闇《くら》い小屋《こや》の戸《と》をがらつと開《あ》けて又《また》がらつと閉《と》ぢた。おつぎは暫《しばら》く待《ま》つて居《ゐ》てそれからそく/\と船《ふね》を繋《つな》いだあたりへ下《お》りた。おつぎは直《す》ぐ側《そば》でかさ/\と何《なに》かが動《うご》くのを聞《き》くと共《とも》に、ゐい/\と豚《ぶた》らしい鳴聲《なきごゑ》のするのを聞《き》いた。
「行《え》くのかあ」とまだ眠《ねむ》らなかつた船頭《せんどう》は突然《とつぜん》特有《もちまへ》の大聲《おほごゑ》で呶鳴《どな》つた。おつぎは驚《おどろ》いて又《また》一|散《さん》に土手《どて》を走《はし》つた。船頭《せんどう》はがらつと戸《と》を開《あ》けて、人《ひと》の走《はし》つたやうな響《ひゞ》きが明《あきら》かに耳《みゝ》に感《かん》じたので、遙《はるか》に闇《くら》い土手《どて》を透《すか》して見《み》てぶつ/\いひながら彼《かれ》は更《さら》に豚小屋《ぶたごや》に近《ちか》づいて燐寸《マツチ》をさつと擦《す》つて見《み》て「油斷《ゆだん》なんねえ」と呟《つぶや》いて又《また》戸《と》を閉《と》ぢた。彼《かれ》は内職《ないしよく》に飼《か》つた豚《ぶた》が近頃《ちかごろ》子《こ》を生《う》んだので他人《たにん》が覘《ねらひ》はせぬかと懸念《けねん》しつゝあつたのである。おつぎは何處《どこ》でも構《かま》はぬと土手《どて》の篠《しの》を分《わ》けて一《ひと》つ/\に蜀黍《もろこし》の穗《ほ》を力《ちから》の限《かぎ》り水《みづ》に投《とう》じた。おつぎは空《から》な草刈籠《くさかりかご》を脊負《せお》つて急《いそ》いで歸《かへ》つた。
 おつぎがこと/\と叩《たゝ》いた時《とき》内儀《かみ》さんは直《すぐ》に戸《と》を開《あ》けて
「どうしたい、大變《たいへん》遲《おそ》かつたね」と聞《き》いた。
「お内儀《かみ》さんいふ通《とほり》にしあんしたよ」
「其《そ》の蜀黍《もろこし》は何處《どこ》へ遣《や》つたい」
「わたしやどうしてえゝか知《し》んねえから川《かは》へ持《も》つて行《い》つて打棄《うつちや》りあんした」
「さうかい、能《よ》く行《や》つて來《き》たね、まあ上《あが》りな」内儀《かみ》さんはランプを自分《じぶん》の頭《あたま》の上《うへ》に上《あ》げて凝然《ぢつ》と首《くび》を低《ひく》くしておつぎの容子《ようす》を見《み》た。
「どうしたんだえ、おつぎはまあ、其《そ》の衣物《きもの》は」
「本當《ほんたう》にまあ」おつぎは始《はじ》めて心付《こゝろづ》いたやうで
「先刻《さつき》土手《どて》さ行《え》く時《とき》、堀《ほり》つ子《こ》ん處《とこ》へ辷《すべ》つたんですが、其《そ》ん時《とき》かうえに汚《よご》したんでせうよ」とおつぎは泥《どろ》に成《な》つた腰《こし》のあたりへ手《て》を當《あ》てた。
「お内儀《かみ》さん、わたしや飛《と》んだことを仕《し》あんした」おつぎは又《また》いつた。
「どうしたんだえ」
「わたしや、鎌《かま》何處《どこ》へ遣《や》つちやつたか分《わか》んなく仕《し》つちやつたんでさ」
「今夜《こんや》持《も》つてつたのかえ」
「さうなんでさ、わたしや蜀黍《もろこし》打棄《うつちや》つ時《とき》まで有《あ》つと思《おも》つてたら見《め》えねえんでさ、私等家《わたしらぢ》のおとつつあは道具《だうぐ》つちと酷《ひど》く怒《おこ》んですから」
「草刈鎌《くさかりがま》の一|挺《ちやう》や二|挺《ちやう》お前《まへ》どうするもんぢやない、あつちへ廻《まは》つて足《あし》でも洗《あら》つてさあ」内儀《かみ》さんの口《くち》もとには微《かす》かな笑《わら》ひが浮《うか》んだ。
 次《つぎ》の日《ひ》に漸《やうや》く主人《しゆじん》は歸《かへ》つた。巡査《じゆんさ》へ噺《はなし》をして見《み》たが其《そ》の時《とき》はもう被害者《ひがいしや》からの申報書《しんぱうしよ》が分署《ぶんしよ》へ提出《ていしゆつ》されてあつたので更《さら》に分署長《ぶんしよちやう》へ懇請《こんせい》して見《み》た。さうして被害者《ひがいしや》から事實《じじつ》が相違《さうゐ》したといふ意味《いみ》の取消《とりけし》を出《だ》せばそれで善《い》いといふことにまで運《はこ》びがついた。微罪《びざい》といふので其《その》筋《すぢ》の手加減《てかげん》が出來《でき》たのである。内儀《かみ》さんは復《ま》た被害者《ひがいしや》の家《うち》へ行《い》つて其《そ》れ丈《だけ》の筋道《すぢみち》を聞《き》かせたが、どうしても今度《こんど》はうんといはない。
「どうもわし等《ら》分署《ぶんしよ》へなんぞ出《で》んな、なんぼにも厭《や》でがすかんね、屹度《きつと》怒《おこ》られんでがすからはあ」とのみいふのである。
「さうだがね、此處《ここ》まで噺《はなし》がついて居《ゐ》るんだから此方《こつち》でそれだけのことは仕《し》て呉《く》れなくつちや此《こ》れまでのことが水《みづ》の泡《あわ》なんだからね」と道理《だうり》を聞《き》かせても
「盜《と》らつた上《うへ》に恁《か》うして暇《ひま》潰《つぶ》して、おまけに分署《ぶんしよ》へ出《で》て怒《おこ》られたり何《なに》つかすんぢや、こんな詰《つま》んねえこたあ滅多《めつた》ありあんせんかんね、それに書付《かきつけ》だつてどうしてえゝんだか分《わか》んねえし」彼《かれ》は只《たゞ》嚴《いか》めしく見《み》える警察官《けいさつくわん》が恐《おそ》ろしくてどうしても足《あし》が進《すゝ》まないのである。
「そりや書付《かきつけ》なんぞは、旦那《だんな》が書《か》いて遣《や》るから心配《しんぱい》にや成《な》らないがね」内儀《かみ》さんは漸《やうや》く近所《きんじよ》の者《もの》を一人《ひとり》跟《つ》いてくやうにして遣《や》るといふことにしたので被害者《ひがいしや》も思《おも》ひ切《き》つて出《で》ることに成《な》つた。彼等《かれら》が歸《かへ》つた時《とき》は反對《あべこべ》に威勢《ゐせい》がよかつた。
「どうしたつけね」聞《き》かれて
「髭《ひげ》のかう生《は》えた部長《ぶちやう》さんだつていふ可怖《おつかね》え人《ひと》でがしたがね、盜《ぬす》まつたなんて屆《とゞ》けしてゝさうして警察《けいさつ》へ餘計《よけい》な手間《てま》掛《か》けて不埓《ふらち》な奴《やつ》だなんて呶鳴《どな》らつた時《とき》にやどうすべかと思《おも》つて、そんぢや其《そ》の書付《かきつけ》持《も》つて歸《けえ》りますべつて云《い》ふべかと思《おも》ひあんしたつけ、さうしたら暫《しばら》く書付《かきつけ》見《み》てたつけが此《これ》は誰《た》れが書《か》いたつて聞《き》くから、わし等《ら》方《はう》の旦那《だんな》でがすつて云《ゆ》つたら、さうかそんぢやよし/\歸《けえ》れなんていふもんだからほつと息《いき》つきあんした、瘧《おこり》落《お》ちたやうでさあはあ、そんだからわし等《ら》なんぼにもあゝい處《ところ》へは出《で》んな厭《や》で」
 彼《かれ》は少時《しばし》間《あひだ》を措《お》いて
「そんだが、旦那《だんな》はたいしたもんでがすね、旦那《だんな》書《か》いたんだつて云《ゆ》つたらなあ」と彼《かれ》は更《さら》に跟《つ》いて行《い》つた近所《きんじよ》の者《もの》を顧《かへり》みていつた。
 事件《じけん》は如此《かくのごとく》にして一|見《けん》妙《めう》な然《しか》も最《もつと》も普通《ふつう》な方法《はうはふ》を踏《ふ》んで終局《しうきよく》が告《つ》げられた。被害者《ひがいしや》の損害《そんがい》に對《たい》する賠償《ばいしやう》は僅《わづか》であるとはいひながら一|時《じ》主人《しゆじん》の手《て》から出《で》てそれが被害者《ひがいしや》に渡《わた》された。
「わしも此《こ》れからは決《けつ》して他人《たにん》の物《もの》は塵《ちり》つ葉《ぱ》一|本《ぽん》でも盜《と》りませんからどうぞ」
 と勘次《かんじ》は有繋《さすが》に泣《な》いた。彼《かれ》はまだお品《しな》が死《し》んだ年《とし》の小作米《こさくまい》の滯《とゞこほ》りも拂《はら》つてはないし、加之《それのみでなく》卯平《うへい》から譲《ゆづ》られた借財《しやくざい》の残《のこ》りもちつとも極《きま》りがついて無《な》いのに又《また》今度《こんど》の間違《まちがひ》から僅《わづか》ながら新《あらた》な負擔《ふたん》が加《くは》はつたのである。彼《かれ》が懸命《けんめい》の勞働《らうどう》は舊《きう》に倍《ばい》して著《いちじ》るしく人《ひと》の目《め》に立《た》つた。
 或《ある》日《ひ》主人《しゆじん》の内儀《かみ》さんは偶然《ひよつ》とした機會《はづみ》があつて勘次《かんじ》に噺《はなし》をした。
「あれでなか/\おつぎにも驚《おどろ》いたもんだね」内儀《かみ》さんはいつた。
「はあどうか仕《し》あんしたんべか、お内儀《かみ》さん」勘次《かんじ》は怪訝《けげん》な容子《ようす》をして且《かつ》辛《つら》い厭《いや》なことでもいひ出《だ》されるかと案《あん》ずるやうに怖《お》づ/\いつた。
「どうしたつていふんぢやないが、此《こ》の間《あひだ》の晩《ばん》のことを知《し》つてるかね」
「何《なん》でがせうね、お内儀《かみ》さん」
「夜中《よなか》にあの蜀黍《もろこし》伐《き》らせたことだがね、實《じつ》はあの時《とき》はね、警察《けいさつ》の方《はう》が間《ま》に合《あ》はなければお前《まへ》に盜《と》らないと何處《どこ》までもいはして置《お》いて、さうして旦那《だんな》が歸《かへ》つてからのことと思《おも》つたもんだから、それにやお前《まへ》が白状《はくじよう》して畢《しま》つても困《こま》るし、自分《じぶん》の畑《はたけ》がそつくりして居《ゐ》ても不味《まづ》いからね、それも今《いま》に成《な》つちや何《なに》もそんなこと仕《し》なくつても善《よ》かつたやうなものだが、其《そ》の時《とき》は私《わたし》もどうかしてと思《おも》つてね、それだがおつぎが度胸《どきよう》のあるのぢや私《わたし》も喫驚《びつくり》したよ」内儀《かみ》さんはいつた。
「へえわしもおつうに聞《き》きあんした、鎌《かま》一|挺《ちやう》見《め》えねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀《かみ》さんいふから伐《き》つたんだなんて、そんでも鎌《かま》は笹《さゝ》ん中《なか》に有《あ》りあんしたつけや」
「さうかい、どんな鎌《かま》だかおつぎは心配《しんぱい》して居《ゐ》たからね」
「なあにはあ、減《へ》つちやつた鎌《かま》だから惜《を》しかあねえんですがね」
「おつぎのことはそんなことでは無闇《むやみ》に怒《おこ》らないやうにしなよ、面倒《めんだう》見《み》てね」
「それからわしもお内儀《かみ》さん、恁《か》うして獨《ひとり》で辛抱《しんばう》してんでがすが、わし等《ら》嚊《かゝあ》も死《し》ぬ時《とき》にや子奴等《こめら》こたあ心配《しんぺえ》したんでがすかんね、夫《それ》からわしもおつうが行《い》きてえつちもんだからお針《はり》にも遣《や》りあんすしね、襷《たすき》なんぞも欲《ほし》い/\つちもんだからわし等《ら》見《み》てえな貧乏人《びんばふにん》にや餘計《よけい》なもんぢやありあんすが赤《あけ》えの買《か》つて遣《や》つたんでがさ、此《これ》さうだことしてお内儀
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