は百姓《ひやくしやう》は大抵《たいてい》控《ひか》へ目《め》にして出《で》なかつた。
 勘次《かんじ》は黄昏《たそがれ》近《ちか》くなつてから獨《ひとり》で草刈籠《くさかりかご》を背負《せお》つて出《で》た。彼《かれ》は何時《いつ》もの道《みち》へは出《で》ないで後《うしろ》の田圃《たんぼ》から林《はやし》へ、それから遠《とほ》く迂廻《うくわい》して畑地《はたち》へ出《で》た。日《ひ》はまだほんのりと明《あか》るかつたので勘次《かんじ》はそつちこつちと空《から》な草刈籠《くさかりかご》を背負《せお》つた儘《まゝ》歩《ある》いた。彼《かれ》は其《そ》れでも良心《りやうしん》の苛責《かしやく》に對《たい》して編笠《あみがさ》で其《そ》の顏《かほ》を隔《へだ》てた。日《ひ》がとつぷりと暮《く》れた時《とき》彼《かれ》は道端《みちばた》へ草刈籠《くさかりかご》を卸《おろ》した。其處《そこ》には畑《はたけ》の周圍《まはり》に一畝《ひとうね》づつに作《つく》つた蜀黍《もろこし》が丈《たけ》高《たか》く突《つ》つ立《た》つて居《ゐ》る。草刈籠《くさかりかご》がすつと地上《ちじやう》にこける時《とき》蜀黍《もろこし》の大《おほき》な葉《は》へ觸《ふ》れてがさりと鳴《な》つた。更《さら》に其《その》葉《は》は何處《どこ》にも感《かん》じない微風《びふう》に動搖《どうえう》して自分《じぶん》のみが怖《おぢ》たやうに騷《さわ》いで居《ゐ》る。穗《ほ》は何《なに》を騷《さわ》ぐのかと訝《いぶか》るやうに少《すこ》し俯目《ふしめ》に見《み》おろして居《ゐ》る。勘次《かんじ》は菜切庖丁《なきりばうちやう》を取出《とりだ》して、其《その》高《たか》い蜀黍《もろこし》の幹《みき》をぐつと曲《まげ》ては穗首《ほくび》に近《ちか》く斜《なゝめ》に伐《き》つた。穗《ほ》は勘次《かんじ》の手《て》に止《とま》つて幹《みき》は急《きふ》に跳《は》ね返《かへ》つた。さうして戰慄《せんりつ》した。勘次《かんじ》は重《おも》く成《な》つた草刈籠《くさかりかご》を背負《せお》つて今度《こんど》は野《の》らの道《みち》を一散《いつさん》に自分《じぶん》の家《うち》へ歸《かへ》つた。次《つぎ》の朝《あさ》勘次《かんじ》は軒端《のきばた》へ横《よこ》に竹《たけ》を渡《わた》して、ゆつさりとする其《そ》の穗《ほ》を縛《しば》つて打《ぶ》つ違《ちが》ひに掛《か》けた。南《みなみ》へ低《ひく》くなつた日《ひ》が其《そ》れを覗《のぞ》くやうに射《さ》し掛《か》けた。
 其《そ》の日《ひ》は孰《いづ》れもいひ合《あは》せたやうに畑《はたけ》へ出《で》た。一|日《にち》照《て》つたので畑《はたけ》は大抵《たいてい》ぱさ/\に乾《かわ》いて居《ゐ》る。蜀黍《もろこし》の穗《ほ》を伐《き》りに出《で》た村《むら》の一人《ひとり》は自分《じぶん》の畑《はたけ》がぞつくりと荒《あら》されて居《ゐ》るのを發見《はつけん》して驚《おどろ》いた。彼《かれ》は畑《はたけ》へ來《き》たなり穗《ほ》は一|本《ぽん》も伐《き》らないで其《そ》の儘《まゝ》駐在所《ちうざいしよ》へ驅《か》けつけた。巡査《じゆんさ》はそれでも直《す》ぐに官服《くわんぷく》を着《き》て被害者《ひがいしや》と一|緒《しよ》に現場《げんぢやう》へ來《き》て見《み》て伐《き》られた穗《ほ》の數《かず》を改《あらた》めて手帖《ててふ》へ止《と》めた。被害者《ひがいしや》が駐在所《ちうざいしよ》へ驅《か》けつける間《ま》に、畑《はたけ》の遠《とほ》くに離《はな》れ/″\に散《ち》らばつて居《ゐ》る百姓等《ひやくしやうら》は悉《ことごと》く其《そ》れを知《し》つた。被害者《ひがいしや》は途次《みちみち》大聲《おほごゑ》を出《だ》して呶鳴《どな》つて行《い》つたからである。なんでも昨夜《さくや》遲《おそ》く野《の》らから歸《かへ》るものが有《あ》つたといふがそれぢや其《そ》れに相違《さうゐ》ないだらうといふことが傳《つた》へられた。勘次《かんじ》も畑《はたけ》へ出《で》て居《ゐ》て騷《さわ》ぎに成《な》りはじめたのを知《し》つた。彼《かれ》は直《すぐ》に飛《と》んで歸《かへ》つて悉《ことごと》く蜀黍《もろこし》の穗《ほ》を外《はづ》して、そつと近《ちか》くの林《はやし》へ隱《かく》して筵《むしろ》を二|枚《まい》ばかり掩《おほ》うた。
「癖《くせ》になつから、みつしら懲《こ》りらかした方《はう》がえゝ、俺方《おらはう》は畑《はたけ》が五月蠅《うるさ》くつて本當《ほんたう》に仕《し》やうねえ」
「見《み》せしめに行《や》つ時《とき》にや、こつぴどく行《や》んなくつちやえかねえよ」
「村落《むら》の内《うち》ようく見《み》せえすりや直《すぐ》に分《わか》らな、蜀黍《もろこし》なんぞ何處《どこ》へ隱《かく》せるもんぢやねえ」
抔《など》と近《ちか》い畑同士《はたけどうし》は呶鳴《どな》り合《あ》つた。其《そ》の聲《こゑ》は被害者《ひがいしや》の耳《みゝ》にも這入《はひ》つてむか/\と激《げき》した其《そ》の心《こゝろ》に勢《いきほ》ひを附《つ》けた。
「數《かず》が分《わか》つたらもう後《あと》へ手《て》を附《つ》けてもえゝ」巡査《じゆんさ》は畑《はたけ》を去《さ》つた。
「わしも行《い》つて見《み》あんせう、自分《じぶん》の畑《はたけ》のがは一目《ひとめ》見《み》りや分《わか》りあんすから」恁《か》ういつて被害者《ひがいしや》は蜀黍《もろこし》の穗《ほ》を二三|本《ぼん》持《も》つて村落《むら》へ戻《もど》つた。巡査《じゆんさ》は其處《そこ》ら此處《ここ》らと二三|軒《げん》見《み》て歩《ある》いて勘次《かんじ》の庭《には》へ立《た》つた。それは勘次《かんじ》は二三の者《もの》と共《とも》に巡査《じゆんさ》の注意人物《ちういじんぶつ》であつたからである。然《しか》し彼《かれ》の貧《まづ》しい建物《たてもの》の何處《どこ》にも隱匿《いんとく》される餘地《よち》を發見《はつけん》することが出來《でき》なかつた。其《そ》の時《とき》は勘次《かんじ》が餘所《よそ》へ運《はこ》んだ後《あと》なのである。巡査《じゆんさ》は檐《のき》に渡《わた》した竹《たけ》の棒《ぼう》を見《み》て
「此《こ》りやどうするんだい」と聞《き》いた。被害者《ひがいしや》は先刻《さつき》から雨垂《あまだれ》の水《みづ》で土《つち》の窪《くぼ》んだあたりを見《み》て居《ゐ》たが
「はてな」と首《くび》を傾《かたぶ》けて
「蜀黍粒《もろこしつぶ》落《おつこ》つてあんすぞ、さうすつと此處《ここ》へ引《ひ》つ懸《か》けたの又《また》何處《どこ》へか持《も》つてつちやつたな」被害者《ひがいしや》はいつた。巡査《じゆんさ》は首肯《うなづ》いた。
「此《こ》の粒《つぶ》でがすから、わしがに相違《さうゐ》ありあんせん、彼等《あつら》がな此《こ》んなに出來《でき》つこねえんですから、それ證據《しようこ》にや屹度《きつと》自分《じぶん》の畑《はたけ》のがな一《ひと》つ穗《ぽ》でも伐《と》つちやねえから見《み》さつせ、わしが此《こ》んでも〆粕《しめかす》入《せ》えて作《つく》つたんでがすから」被害者《ひがいしや》は熱心《ねつしん》にいつた。勘次《かんじ》は其《その》時《とき》不安《ふあん》な態度《たいど》でぽつさりと自分《じぶん》の庭《には》に立《た》つた。彼《かれ》は既《すで》に巡査《じゆんさ》の檐下《のきした》に立《た》つてるのを見《み》て悚然《ぞつ》とした。
「勘次《かんじ》、此《こ》の竹《たけ》はどうしたんだな」巡査《じゆんさ》は横目《よこめ》に勘次《かんじ》を見《み》ていつた。
「わし此《こ》らあ、蜀黍《もろこし》伐《き》つて引《ひ》つ懸《か》けべと思《おも》つたんでがす」
「うむ、此《こ》の粒《つぶ》の零《こぼ》れたのはどうしたんだ、蜀黍《もろこし》なんだらう此《こ》れは」
「へえ、なに、わしが一攫《ひとつか》み引《ひ》つ扱《こ》いて來《き》て見《み》たの打棄《うつちや》つたんでがした」勘次《かんじ》は恁《か》ういつて蒼《あを》く成《な》つた。巡査《じゆんさ》は更《さら》に被害者《ひがいしや》に勘次《かんじ》の畑《はたけ》を案内《あんない》させた。悄然《せうぜん》として後《あと》に跟《つ》いて來《く》る勘次《かんじ》を要《えう》はないからと巡査《じゆんさ》は邪慳《じやけん》に叱《しか》つて逐《お》ひやつた。勘次《かんじ》の畑《はたけ》の蜀黍《もろこし》は被害者《ひがいしや》がいつたやうに、情《なさけ》ないやうな見窄《みすぼ》らしい穗《ほ》がさらりと立《た》つてそれでも其《そ》の恐怖心《きようふしん》に驅《か》られたといふやうに特有《もちまへ》な一|種《しゆ》の騷《さわ》がしい響《ひゞき》を立《た》てつゝあつた。穗《ほ》は一《ひと》つも伐《き》つてはなかつた。
「此《こ》れだからわし云《い》つたんでがす、ねえそれ、此《こ》の粒《つぶ》でがすかんね」被害者《ひがいしや》は威勢《ゐせい》が出《で》た。
「稻《いね》つ束《たば》擔《かつ》ぐんだつて、わし等《ら》口《くち》へ出《だ》しちや云《ゆ》はねえが、ちやんと知《し》つてんでがすから、さう云《い》つちや何《なん》だが其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》ことするもなあ、極《きま》つたやうなもんですかんね」被害者《ひがいしや》は更《さら》に手柄《てがら》でもしたやうにいつた。
「もう解《わか》つたから、それぢや自分《じぶん》の仕事《しごと》をするがいい、後《のち》にわしが申報書《しんぱうしよ》を拵《こしら》へて來《き》て遣《や》るから、それへ印形《いんぎやう》を捺《お》せばそれで手續《てつゞき》は濟《す》むんだからな」巡査《じゆんさ》はさういつてさうして被害者《ひがいしや》が
「そんぢや、わし蜀黍《もろこし》隱《かく》して置《お》く處《とこ》見出《めつけ》あんすから、屹度《きつと》有《あ》んに極《きま》つてんだから」といふ聲《こゑ》を後《あと》にして畑《はたけ》の小徑《こみち》をうねりつゝ行《い》つた。
「今度《こんだ》こさあ、捕縛《つかま》つちや一杯《いつぺえ》に引《ひ》つ喰《く》らあんだんべ」畑同士《はたけどうし》は痛快《つうくわい》に感《かん》じつゝ口々《くち/″\》に恁《か》ういふことをいつた。
「おつう俺《お》らとつても今度《こんだあ》駄目《だめ》だよ」勘次《かんじ》は果敢《はか》ない自分《じぶん》の心持《こゝろもち》を唯《ゆゐ》一の家族《かぞく》であるおつぎの身體《からだ》へ投《な》げ掛《か》けるやうに萎《しを》れ切《き》つていつた。勘次《かんじ》は衷心《ちうしん》から恐怖《きようふ》したのである。其《そ》れ程《ほど》ならば何故《なぜ》彼《かれ》は蜀黍《もろこし》の穗《ほ》を伐《き》ることを敢《あへ》てしたのであつたらうか。彼《かれ》は此《こ》れまでも畑《はたけ》の物《もの》を盜《と》つたのは一|度《ど》や二|度《ど》ではない。其《そ》れは些少《させう》であつたが彼《かれ》は盜《と》りたくなつた時《とき》機會《きくわい》さへあれば何時《いつ》でも盜《と》りつゝあつたのである。彼《かれ》は身《み》を殺《ころ》さうとまで其《そ》の薄弱《はくじやく》な意思《いし》が少《すこ》しのことにも彼《かれ》を苦《くる》しめる時《とき》、彼《かれ》を衝動《そそ》つて盜性《たうせい》がむか/\と首《くび》を擡《もた》げつゝあつたのである。勘次《かんじ》はもう仕事《しごと》をする處《どころ》ではない。彼《かれ》は到底《たうてい》寸時《すんじ》も其《そ》の家《いへ》に堪《た》へられなく成《な》つて、隣《となり》の彼《かれ》の主人《しゆじん》に縋《すが》らうとした。其《そ》の閾《しきゐ》を越《こ》すことが彼《かれ》にはどれ程《ほど》辛《つら》かつたか知《し》れぬ。主人《しゆじん》は不在《ふざい》であつた
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