《おと》とお袋《ふくろ》の唄《うた》ふ聲《こゑ》とがいつとはなしに誘《さそ》つたのであつたかも知《し》れぬ。首《くび》は寧《むし》ろ倒《さかさま》に垂《た》れて額《ひたひ》がいつでも暑《あつ》い日《ひ》に照《て》られて汗《あせ》ばんで居《ゐ》た。百姓《ひやくしやう》は皆《みな》此《こ》の見窄《みすぼら》しい女《をんな》を顧《かへり》みなかつた。村落《むら》から村落《むら》へ野《の》を渡《わた》る時《とき》女《をんな》の姿《すがた》は人目《ひとめ》を惹《ひ》くべき要點《えうてん》が一つも備《そな》はつて居《ゐ》なかつた。然《しか》しいつの間《ま》にか人《ひと》が遠《とほ》くより見《み》るやうに成《な》つた。行《ゆ》き違《ちが》ふ女房等《にようばうら》は額《ひたひ》に照《て》ら[#「ら」に「ママ」の注記]れて眠《ねむ》つて居《ゐ》る子《こ》を見《み》て痛々敷《いた/\しい》と思《おも》ふのであつた。女《をんな》は唄《うた》はなくても太皷《たいこ》の音《ね》が村落《むら》の子《こ》を遠《とほ》くから誘《さそ》ふのに氣《き》の乘《の》らぬ唄《うた》ひやうをして只《たゞ》其《そ》の一|句《く》を反覆《くりかへす》のである。女《をんな》は背中《せなか》の子《こ》が眠《ねむ》つて居《ゐ》るのを悦《よろこ》んで其《そ》の子《こ》が什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》姿《なり》であるかは心付《こゝろづ》かない。只《たゞ》小《ちひ》さな銅貨《どうくわ》を持《も》つて走《はし》つて來《く》る村落《むら》の子《こ》を待《ま》ちつゝ誘《さそ》ひつゝ歩《ある》くのである。女《をんな》は何處《どこ》から出《で》てどう行《ゆ》くといふことも忙《せは》しく只《たゞ》田畑《たはた》に勞働《らうどう》して居《ゐ》る百姓《ひやくしやう》の間《あひだ》には知《し》られなかつた。毎日《まいにち》さうして歩《ある》いて居《ゐ》た女《をんな》が知《し》りたがり聞《き》きたがる女房等《にようばうら》の間《あひだ》に、各自《てんで》に口喧《くちやかま》しい陰占《かげうらなひ》を逞《たくま》しくされると間《ま》もなく、或《ある》日《ひ》村外《むらはず》れの青葉《あをば》の中《なか》へ太皷《たいこ》の音《おと》と唄《うた》の聲《こゑ》とが遠《とほ》く微《かす》かに沒《ぼつ》し去《さ》つた切《き》り、軈《やが》て梅雨《つゆ》が夥《おびたゞ》しく且《か》つ毒々《どく/\》しい其《そ》の栗《くり》の花《はな》の腐《くさ》るまではと降《ふ》り出《だ》したので其《そ》の女《をんな》の穢《きたな》げな窶《やつ》れた姿《すがた》は再《ふたゝ》び見《み》られなかつた。
 勘次《かんじ》は耳《みゝ》の底《そこ》に響《ひゞ》いた其《そ》の句《く》を獨《ひと》り感《かん》に堪《た》へたやうに唄《うた》うては行《ゆ》くのである。彼《かれ》は自分《じぶん》の聲《こゑ》が高《たか》いと思《おも》つた時《とき》他人《ひと》に聞《き》かれることを恥《は》づるやうに突然《とつぜん》あたりを見《み》ることがあつた。曲《まが》り角《かど》でひよつと逢《あ》ふ時《とき》それが口輕《くちがる》な女房《にようばう》であれば二三|歩《ぽ》行《や》り過《すご》しては
「どうしたえ、勘次《かんじ》さん彼女《あれ》げ焦《こが》れたんぢやあんめえ、尤《もつと》も年頃《としごろ》は持《も》つゝけだから連《つれ》つ子《こ》の一人《ひとり》位《ぐれえ》は我慢《がまん》も出來《でき》らあな、そんだがあれつ切《き》り來《き》なくなつちやつて困《こま》つたな」と遠慮《ゑんりよ》もなく揶揄《からか》うては、少《すこ》し隔《へだ》たると態《わざ》と聲《こゑ》を立《た》てゝ其《そ》の句《く》を唄《うた》つたりする。さうすると勘次《かんじ》は家《うち》に歸《かへ》るまで一|句《く》も唄《うた》はない。然《しか》し彼《かれ》は暫《しばら》くそれを唄《うた》ふことを止《や》めなかつた。
 彼《かれ》は只《たゞ》女房《にようばう》が欲《ほし》い/\とのみ思《おも》つた。

         九

 勘次《かんじ》は依然《いぜん》として苦《くる》しい生活《せいくわつ》の外《そと》に一|歩《ぽ》も遁《のが》れ去《さ》ることが出來《でき》ないで居《ゐ》る。お品《しな》が死《し》んだ時《とき》理由《わけ》をいうて借《か》りた小作米《こさくまい》の滯《とゞこほ》りもまだ一|粒《つぶ》も返《かへ》してない。大暑《たいしよ》の日《ひ》が井戸《ゐど》の水《みづ》まで減《へ》らして炒《い》りつける頃《ころ》はそれまでに幾度《いくたび》か勘次《かんじ》の※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、126−10]桶《こくをけ》は空《から》に成《な》るのである。彼《かれ》は一|般《ぱん》の百姓《ひやくしやう》がすることは仕《し》なくては成《な》らないので、殊《こと》には副食物《ふくしよくぶつ》として必要《ひつえう》なので茄子《なす》や南瓜《たうなす》や胡瓜《きうり》やさういふ物《もの》も一通《ひととほ》りは作《つく》つた。彼《かれ》は村外《むらはづ》れの櫟林《くぬぎばやし》の側《そば》に居《ゐ》たので自分《じぶん》の家《いへ》の近《ちか》くにはさういふ物《もの》を作《つく》る畑《はたけ》が一|枚《まい》もなかつた。それでも胡瓜《きうり》だけは垣根《かきね》の内側《うちがは》へ一|列《れつ》に植《う》ゑて後《うしろ》の林《はやし》に交《まじ》つた短《みじか》い竹《たけ》を伐《き》つて手《て》に立《た》てた。竹《たけ》の立《た》つてる林《はやし》は彼《かれ》の所有《しよいう》ではないけれど、彼《かれ》は恁《か》うして必要《ひつえう》の度《たび》毎《ごと》に強《し》ひては隱《かく》さない盜《ぬす》みを敢《あへ》てするのである。南瓜《たうなす》も庭《には》の隅《すみ》へ粟幹《あはがら》で圍《かこ》うた厠《かはや》の側《そば》へ植《う》ゑた。それから庭《には》の栗《くり》の木《き》へも絡《から》ませた。茄子《なす》だけは遠《とほ》い畑《はたけ》の麥《むぎ》の畦間《うねま》へ植《う》ゑた。彼《かれ》は甘藷《さつまいも》の外《ほか》には到底《たうてい》さういふ凡《すべ》ての苗《なへ》を仕立《した》てることが出來《でき》ないので、又《また》立派《りつぱ》な苗《なへ》を買《か》ひに行《ゆ》く丈《だけ》の餘裕《よゆう》もないので、容子《ようす》から見《み》れば近村《きんそん》ではあるが何處《どこ》とも確乎《しか》とは知《し》れない天秤商人《てんびんあきうど》からそれを求《もと》めた。天秤商人《てんびんあきうど》の持《も》つて來《く》るのは大抵《たいてい》屑《くづ》ばかりである。それでも勘次《かんじ》は廉《やす》いのを悦《よろこ》んだ。彼《かれ》は其《そ》の僅《わづか》な錢《ぜに》を幾度《いくたび》か勘定《かんぢやう》して渡《わた》した。
 麥《むぎ》が刈《か》られて其《そ》の束《たば》が兩端《りやうはし》を切《き》つ殺《そ》いだ竹《たけ》の棒《ぼう》へ透《とほ》して畑《はたけ》の外《そと》へ擔《かつ》ぎ出《だ》された時《とき》、趾《あと》には陸稻《をかぼ》や大豆《だいづ》がひよろ/\と青《あを》ばんだ畑《はたけ》に勘次《かんじ》の茄子《なす》は短《みじか》い畝《うね》が五|畝《うね》ばかりになつて立《た》つて居《ゐ》た。下葉《したは》は黄色《きいろ》くなつて居《ゐ》たがそれでも麥《むぎ》が暫《しばら》く日《ひ》を掩《おほ》うたので皆《みな》根《ね》づいて生長《せいちやう》しかけて居《ゐ》た。假令《たとひ》痩《や》せさせないまでも肥《こや》して行《ゆ》くことをしない畑《はたけ》の土《つち》に茄子《なす》は干稻《ひね》びてそれで處々《ところ/″\》に一《ひと》つ宛《づゝ》花《はな》を持《も》つて居《ゐ》た。勘次《かんじ》は朝《あさ》のまだ凉《すゞ》しい、葉《は》に濕《しめ》りのある間《あひだ》に竈《かまど》の灰《はひ》を持《も》つて行《い》つて其《そ》の葉《は》に掛《か》けて遣《や》る丈《だけ》の手數《てすう》は竭《つく》したのである。それで幾《いく》らでも活溌《くわつぱつ》に運動《うんどう》する瓜葉蟲《うりはむし》は防《ふせ》がれた。それは羽《はね》が赤《あか》いので赤蠅《あかばへ》と土地《とち》ではいつて居《ゐ》る。木《き》の灰《はひ》では油蟲《あぶらむし》の湧《わ》くのはどうも出來《でき》なかつた。それから又《また》根切蟲《ねきりむし》が残酷《ざんこく》に堅《かた》い莖《くき》を根《ね》もとからぷきりと噛《か》み倒《たふ》して植《うゑ》た數《かず》の減《へ》るにも拘《かゝは》らず、彼《かれ》は遠《とほ》く畑《はたけ》に出《で》て土《つち》に潜伏《せんぷく》して居《ゐ》る其《その》憎《にく》むべき害蟲《がいちう》を探《さが》し出《だ》して其《その》丈夫《ぢやうぶ》な體《からだ》をひしぎ潰《つぶ》して遣《や》る丈《だけ》の餘裕《よゆう》を身體《からだ》にも心《こゝろ》にも持《も》つて居《ゐ》ない。垣根《かきね》の胡瓜《きうり》は季節《きせつ》の南《みなみ》が吹《ふ》いて、朝《あさ》の靄《もや》がしつとりと乾《かわ》いた庭《には》の土《つち》を濕《しめ》しておりると何《なに》を僻《ひが》んでか葉《は》の陰《かげ》に下《さが》る瓜《うり》が、萎《しぼ》んだ花《はな》のとれぬうちに尻《しり》が曲《まが》つて忽《たちま》ちに蔓《つる》も葉《は》もがら/\に枯《かれ》て畢《しま》つたのであつた。只《たゞ》南瓜《たうなす》だけは其《そ》の特有《もちまへ》の大《おほ》きな葉《は》をずん/\と擴《ひろ》げて蔓《つる》の先《さき》が忽《たちま》ちに厠《かはや》の低《ひく》い廂《ひさし》から垂《た》れた。殊《こと》に栗《くり》の木《き》に絡《から》んだのは白晝《ひるま》の忘《わす》れる程《ほど》長《なが》い間《あひだ》雨戸《あまど》は閉《と》ぢた儘《まゝ》で、假令《たとひ》油蝉《あぶらぜみ》が炒《い》りつけるやうに其處《そこ》らの木《き》毎《ごと》にしがみ附《つ》いて聲《こゑ》を限《かぎ》りに鳴《な》いたにした處《ところ》で、凡《すべ》てが暑《あつ》さに疲《つか》れたやうで寧《むし》ろ極《きは》めて閑寂《かんじやく》な庭《には》を覗《のぞ》いては、葉《は》の陰《かげ》ながら段々《だん/\》に日《に》に燒《や》けつゝ太《ふと》りつゝ臀《しり》の臍《へそ》を剥《む》き出《だ》してどつしりと枝《えだ》から垂《た》れ下《さが》つた。それが僅《わづか》に庭《には》に威勢《ゐせい》をつけて居《ゐ》る。
 一|般《ぱん》にさうではあるが殊《こと》に勘次《かんじ》の手《て》に作《つく》られた蔬菜《そさい》は凡《すべ》て其《そ》の成熟《せいじゆく》が後《おく》れた。それで其《そ》の蔬菜《そさい》が庖丁《はうちやう》にかゝる間《あひだ》は口《くち》にこそつぱい干菜《ほしな》や切干《きりぼし》やそれも缺乏《けつばう》を告《つ》げれば、此《こ》れでも彼等《かれら》の果敢《はか》ない貯蓄心《ちよちくしん》を最《もつと》も發揮《はつき》した菜《な》や大根《だいこん》の鹽辛《しほから》い漬物《つけもの》の桶《をけ》にのみ其《そ》の副食物《ふくしよくぶつ》を求《もと》めるのである。彼等《かれら》は勞働《らうどう》から來《く》る空腹《くうふく》を意識《いしき》する時《とき》は一寸《いつすん》も動《うご》くことの出來《でき》ない程《ほど》俄《にはか》に疲勞《ひらう》を感《かん》ずることさへある。什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》麁末《そまつ》な物《もの》でも彼等《かれら》の口《くち》には問題《もんだい》ではない。彼等《かれら》は味《あじは》ふのではなくて要《えう》するに咽喉《のど》の孔《あな》を埋《うづ》めるのである。冷水《れいすゐ》を注《そ
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