を保《たも》つのである。おつぎの笠蒲團《かさぶとん》は赤《あか》や黄《き》や青《あを》の小《ちひ》さな切《きれ》を聚《あつ》めて縫《ぬ》つたのであつた。然《しか》しおつぎの帶《おび》だけは古《ふる》かつた。餘所《よそ》の女《をんな》の子《こ》は大抵《たいてい》は綺麗《きれい》な赤《あか》い帶《おび》を締《し》めて、ぐるりと※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《から》げた衣物《きもの》の裾《すそ》は帶《おび》の結《むす》び目《め》の下《した》へ入《い》れて只管《ひたすら》に後姿《うしろすがた》を氣《き》にするのである。一杯《いつぱい》に青《あを》く茂《しげ》つた桑畑《くはばたけ》抔《など》に白《しろ》い大《おほ》きな菅笠《すげがさ》と赤《あか》い帶《おび》との後姿《うしろすがた》が、殊《こと》には空《そら》から投《な》げる強《つよ》い日光《につくわう》に反映《はんえい》して其《そ》の赤《あか》い帶《おび》が燃《も》えるやうに見《み》えたり、菅笠《すげがさ》が更《さら》に大《おほ》きく白《しろ》く光《ひか》つたりする時《とき》には有繋《さすが》に人《ひと》の目《め》を惹《ひ》かねばならぬ。彼等《かれら》の姿《すがた》は斯《か》くして遠《とほ》く隔《へだ》てゝ見《み》るべきものであるが然《しか》しながら其《そ》の近《ちか》づいた時《とき》でも、跳《は》ねあげられた笠《かさ》の後《うしろ》には兩頬《りやうほほ》へ垂《た》れてさうして其《そ》の黒《くろ》い絎紐《くけひも》で締《し》められた手拭《てぬぐひ》の隙間《すきま》から少《すこ》し亂《みだ》れた髮《かみ》が覗《のぞ》いて居《ゐ》て其處《そこ》にも一|種《しゆ》の風情《ふぜい》が發見《はつけん》されねばならぬ。
 雨《あめ》を含《ふく》んだ雲《くも》が時々《とき/″\》遮《さへぎ》るとはいへ、暑《あつ》い日《ひ》のもとに黄熟《くわうじゆく》した麥《むぎ》が刈《か》られた時《とき》畑《はたけ》はからりと成《な》つて境木《さかひぎ》に植《うゑ》られてある卯木《うつぎ》のびつしりと附《つ》いた白《しろ》い花《はな》が其處《そこ》にも此處《こゝ》にも目《め》に立《た》つて、俄《にはか》に濶々《ひろ/″\》としたことを感《かん》ずると共《とも》に支《さゝ》へるものが無《な》くなる丈《だけ》目《め》に入《い》る女《をんな》の姿《すがた》が殖《ふ》えるのである。彼等《かれら》は少時《しばし》の休憩《きうけい》にも必《かなら》ず刈《か》り倒《たふ》した麥《むぎ》を臀《しり》に敷《し》いて其《そ》の白《しろ》い卯木《うつぎ》の下《した》に僅《わづか》でも日《ひ》を避《さ》ける。
 到底《たうてい》彼等《かれら》の白《しろ》い菅笠《すげがさ》と赤《あか》い帶《おび》とは廣《ひろ》い野《の》を飾《かざ》る大輪《たいりん》の花《はな》でなければならぬ。其《そ》の一《ひと》つの要件《えうけん》がおつぎには缺《か》けて居《ゐ》た。
 暑《あつ》い氣候《きこう》は百姓《ひやくしやう》の凡《すべ》てを其《その》狹苦《せまくるし》い住居《すまゐ》から遠《とほ》く野《の》に誘《さそ》うて、相互《さうご》に其《その》青春《せいしゆん》のつやゝかな俤《おもかげ》に憧憬《あこがれ》しめるのに、さうして刺《とげ》の生《は》えた野茨《のばら》さへ白《しろ》い衣《ころも》を飾《かざ》つて快《こゝろ》よいひた/\と抱《だ》き合《あふ》ては互《たがひ》に首肯《うなづ》きながら竭《つ》きない思《おもひ》を私語《さゝや》いて居《ゐ》るのに、おつぎは嘗《かつ》て青年《せいねん》との間《あひだ》に一|語《ご》を交《まじ》へることさへ其《その》權能《けんのう》を抑《おさ》へられて居《ゐ》た。孰《いづ》れにしてもおつぎの心《こゝろ》には有繋《さすが》に微《かす》かな不足《ふそく》を感《かん》ずるのであつた。勘次《かんじ》は洗《あら》ひ曝《ざら》しの襦袢《じゆばん》を褌《ふんどし》一つの裸《はだか》へ引《ひ》つ掛《かけ》て、船頭《せんどう》が被《かぶ》るやうな藺草《ゐぐさ》の編笠《あみがさ》へ麻《あさ》の紐《ひも》を附《つ》けて居《ゐ》る。
 勘次《かんじ》に導《みちび》かれておつぎは仕事《しごと》が著《いちじ》るしく上手《じやうず》になつた。おつぎが畑《はたけ》へ往來《わうらい》する時《とき》は村《むら》の女房等《にようばうら》は能《よ》くいつた。
「何《なん》ちう、おつかさまに似《に》て來《き》たこつたかな、歩《ある》きつきまでそつくりだ」
「雀斑《そばかす》がぽち/\してつ處《とこ》までなあ」お品《しな》には目《め》と鼻《はな》のあたりに雀斑《そばかす》が少《すこ》しあつたのである。おつぎにも其《そ》れがその儘《まゝ》で嫣然《にこり》とする時《とき》にはそれが却《かへつ》て科《しな》をつくらせた。
「勘次《かんじ》さん譯《わけ》のねえもんだな、まあだ此間《こねえだ》だと思《おも》つてたのにな、嫁《よめ》にやつてもえゝ位《くれえ》ぢやねえけえ、お品《しな》さんもおめえ此《この》位《くれえ》の時《とき》ぢやなかつたつけかよ」女房等《にようばうら》は又《また》揶揄半分《からかひはんぶん》に恁《か》ういふこともいつた。おつぎは勘次《かんじ》がさういはれる時《とき》何時《いつ》も赤《あか》い顏《かほ》をして餘所《よそ》を向《む》いて畢《しま》ふのである。勘次《かんじ》はお品《しな》のことをいはれる度《たび》に、おつぎの身體《からだ》をさう思《おも》つては熟々《つく/″\》と見《み》る度《たび》に、お品《しな》の記憶《きおく》が喚返《よびかへ》されて一|種《しゆ》の堪《た》へ難《がた》い刺戟《しげき》を感《かん》ぜざるを得《え》ない。それと同時《どうじ》に女房《にようばう》が欲《ほ》しいといふ切《せつ》ない念慮《ねんりよ》を湧《わ》かすのである。遠慮《ゑんりよ》の無《な》い女房等《にようばうら》にお品《しな》の噺《はなし》をされるのは徒《いたづ》らに哀愁《あいしう》を催《もよほ》すに過《す》ぎないのであるが、又《また》一|方《ぼう》には噺《はなし》をして見《み》て貰《もら》ひたいやうな心持《こゝろもち》もしてならぬことがあつた。
「勘次《かんじ》さんどうしたい、えゝ鹽梅《あんべえ》のが有《あ》んだが後《あと》持《も》つてもよかねえかえ」と彼《かれ》に女房《にようばう》を周旋《しうせん》しようといふ者《もの》はお品《しな》が死《し》んでから間《ま》もなく幾《いく》らもあつた。勘次《かんじ》は只《たゞ》お品《しな》にのみ焦《こが》れて居《ゐ》たのであるが、段々《だん/\》日數《ひかず》が經《た》つて不自由《ふじいう》を感《かん》ずると共《とも》に耳《みゝ》を聳《そばだ》てゝさういふ噺《はなし》を聞《き》くやうに成《な》つた。然《しか》し其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》噺《はなし》をして聞《き》かせる人々《ひと/″\》は勘次《かんじ》の酷《ひど》い貧乏《びんばふ》なのと、二人《ふたり》の子《こ》が有《あ》るのとで到底《たうてい》後妻《ごさい》は居《ゐ》つかれないといふ見越《みこし》が先《さき》に立《た》つて、心底《しんそこ》から周旋《しうせん》を仕《し》ようといふのではない。唯《たゞ》暇《ひま》を惜《を》しがる勘次《かんじ》が何處《どこ》へでも鍬《くは》や鎌《かま》を棄《す》てゝ釣込《つりこ》まれるので遂《つひ》惡戯《いたづら》にじらして見《み》るのである。殊《こと》におつぎが大《おほ》きくなればなる程《ほど》、其《そ》の働《はたら》きが目《め》に立《た》てば立《た》つ程《ほど》後妻《ごさい》には居憎《ゐにく》い處《ところ》だと人《ひと》は思《おも》つた。貧乏世帶《びんばふじよたい》へ後妻《ごさい》にでもならうといふものには實際《じつさい》碌《ろく》な者《もの》は無《な》いといふのが一|般《ぱん》の斷案《だんあん》であつた。他人《ひと》は只《たゞ》彼《かれ》の心《こゝろ》を苛立《いらだ》たせた。さうして彼《かれ》の尋常外《なみはず》れた態度《たいど》が、却《かへつ》て惡戯好《いたづらず》きの心《こゝろ》を挑發《てうはつ》するのみであつた。
「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次《かんじ》は小聲《こごゑ》で唄《うた》うて行《ゆ》くのがどうかすると人《ひと》の耳《みゝ》にも響《ひゞ》くやうに成《な》つた。
 其《そ》の頃《ころ》は勘次《かんじ》の庭《には》の栗《くり》の梢《こずゑ》も、それへ繁殖《はんしよく》して残酷《ざんこく》に葉《は》を喰《く》ひ荒《あら》す栗毛蟲《くりけむし》のやうな毒々《どく/\》しい花《はな》が漸《やうや》く白《しろ》く成《な》つて、何處《どこ》の村落《むら》にもふつさりとした青葉《あをば》の梢《こずゑ》から栗《くり》の木《き》が比較的《ひかくてき》に多《おほ》いことを示《しめ》して其《そ》の白《しろ》い花《はな》が目《め》についた。村落《むら》を埋《うづ》めて居《ゐ》る梢《こずゑ》からふわ/\と蒸氣《ゆげ》が立《た》ち騰《あが》らうといふ形《かたち》に栗《くり》の花《はな》は一|杯《ぱい》である。空《そら》は降《ふ》らないながらに低《ひく》い雲《くも》が蟠《わだかま》つて、時々《とき/″\》目《め》に鮮《あざや》かで且《かつ》黒《くろ》ずんだ青葉《あをば》の上《うへ》にかつと黄色《きいろ》な明《あか》るい光《ひかり》を投《な》げる。何處《どこ》となく濕《しめ》つぽく頭《あたま》を抑《おさ》へるやうに重苦《おもくる》しい感《かん》じがする。
 悉《こと/″\》く畑《はた》へ走《はし》つた村落《むら》の内《うち》には稀《まれ》にさういふ青葉《あをば》の間《あひだ》に鯉幟《こひのぼり》がばさ/\と飜《ひるがへ》つてはぐたりと成《な》つて、それが朝《あさ》から永《なが》い日《ひ》を一|日《にち》、さうして其《そ》の家族《かぞく》が日《ひ》は沒《ぼつ》したにしても何時《いつ》になくまだ明《あか》るい内《うち》に浴《ゆあ》みをして女《をんな》までが裂《さ》いた菖蒲《しやうぶ》を髮《かみ》に卷《ま》いて、忙《せは》しい日《ひ》と日《ひ》の間《あひだ》をそれでも晴衣《はれぎ》の姿《すがた》になる端午《たんご》の日《ひ》の來《く》るのを懶《ものう》げに待《ま》つて居《ゐ》る。さういふ青葉《あをば》の村落《むら》から村落《むら》を女《をんな》の飴屋《あめや》が太皷《たいこ》を叩《たゝ》いて歩《ある》いた。明屋《あきや》ばかりの村落《むら》を雨《あめ》が降《ふ》らねば女《をんな》は端《はし》から端《はし》と唄《うた》うて歩《ある》く。勘次《かんじ》が唄《うた》うたのは其《そ》の女《をんな》の唄《うた》である。女《をんな》は聲《こゑ》を高《たか》く唄《うた》うては又《また》聲《こゑ》を低《ひく》くして其《そ》の句《く》を反覆《はんぷく》する。其《そ》の唄《うた》ふ處《ところ》は毎日《まいにち》唯《たゞ》此《こ》の一|句《く》に限《かぎ》られて居《ゐ》た。女《をんな》は年増《としま》で一人《ひとり》の子《こ》を負《お》うて居《ゐ》る。鬼怒川《きぬがは》を徃復《わうふく》する高瀬船《たかせぶね》の船頭《せんどう》が被《かぶ》る編笠《あみがさ》を戴《いたゞ》いて、洗《あら》ひ曝《ざら》しの單衣《ひとへ》を裾《すそ》は左《ひだり》の小褄《こづま》をとつて帶《おび》へ挾《はさ》んだ丈《だけ》で、飴《あめ》は箱《はこ》へ入《い》れて肩《かた》から掛《か》けてある。暮《あつ》い日《ひ》は笠《かさ》の編目《あみめ》を透《とほ》して女《をんな》の顏《かほ》に細《ほそ》い強《つよ》い線《せん》を描《ゑが》く。女《をんな》の顏《かほ》は窶《やつ》れて居《ゐ》た。子《こ》は概《おほむ》ね眠《ねむ》つて居《ゐ》た。耳《みゝ》もとで鳴《な》る太皷《たいこ》の喧《やかま》しい音
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